03

「セカンド・バイオニクスプロジェクト……」
 エルネストは自室のベッドの上で妙な単語を空に呟いた。同意しなければいけない条件の1つであったが、詳細は約款の書かれた分厚い書類に埋もれて読む気が失せていたのだ。だが意味が全く分かっていないわけではない。軽く目を通して、それが異常であると思う彼。
「非倫理的な人体の改造実験を軽々と行うなんて、世界はここを批判しないのか?」
 ……それとも、軍部というものはここまでむごいものだろうか。彼は悩みつつも更に「セカンド」という言葉の目を向けた。初回に何が起こったのか、彼は手に持っていた携帯端末で調べることにした。自分の身に起こるであろう情報の収集は、すべきであると考えていたのだ。
「何も出てこない……」
 やはり軍事機密なのか、詳細が出てこない。ただ1つだけあった「ヘルムート・リーデルシュタイン」という結果を見つけたエルネストは、彼の記事を見ることにした。軍人の名前であったようだ。
「まさか」
 記事を読んでいくと、彼は死地を救ってくれた白い軍服の男の名前が、それと一致していることに困惑した。あの凄まじい剣さばきは人間業ではない。だとしても、それは才能や訓練によって手に入れたものだと思っていた。まず、彼は何の変哲もない人間の形をしている。人権を失うかもれない実験だと案内役は言っていたが、それどころか名誉を貰っているほど周囲から認められているではないか。……否、エルネストは分かっていた。彼は"成功作"だからこそあの様に振る舞えると。自分は今、何をしたいのか。彼はもう一度考えた。復讐を果たすべきか、父の跡を継いで学者になるべきか。後者の選択肢も、決して無くなったわけではない。だが、
「俺は、」
 非力な自分を許せなかった。彼は、これ以上自分のような弱者が虐げられる事態を無くしたいと思った。そのためには、己を鍛えるしか無い、覚悟を決めるしか無い、そう考えた。彼の判断は早かった。
「親不孝で申し訳ないと思っている。でも、」
 明日提出するであろう契約書類にサインをしたエルネストは、ベッドに戻り深い眠りについた。

「俺を改造するだと?」
 ラファエルは嫌そうな顔を研究員に向ける。
「閣下のご命令であります」
「冗談じゃない。誰が何を言おうと、俺に決定権があるんじゃないのか」
 突っかかる彼に、慌てる研究員。
「はい、通常は」
「通常とはなんだ!」
 荒げた声が廊下に響き渡る。彼は分かっていた。こいつに抗っても意味はない、全てを仕切っているのはヘルムートという男であることも。しかし、彼との面会は許可されていなかったし、強行できる環境も整っていなかったのだ。先程遭遇した時にもヘルムートに殴りかかろうとしたが、あっさりとかわされたどころか一撃をお見舞いされ、そのまま周りの軍人に引き下げられたところであった。雪辱を果たすにも今の強さでは勝てない、ラファエルは分かりきっていた。奴のあの眼は、決して普通の人間のものではない。裏社会に生きてきたラファエルだからこそ、あれは「作られたもの」であることを理解していた。
「ですがラファエル殿、あの方のように強くなりたいのは事実でしょう?」
 生意気な口を利く研究員だが、それは図星であった。奥歯を噛みしめるラファエル。
「だが奴と同じ方法で強くなるのは癪だ」
 銀髪を掻き分け、不服を口にした。
「手段を選ばないのがマフィアのやり方だと思ったんですが」
「それで人望を失ったらどうする?下っ端はゲスでも構わんが、リーダーには要求されるものがあるんだよ」
 ほう、と感心する研究員。この人は、欲望のまま行動するこの人の父親とは明らかに違うと感じた。ヘルムート閣下が彼を"選んだ"のも頷ける。
「貴方は、見かけよりもいい人なんですね」
「見かけより、は余計だ」
 ふん、と鼻で息をつくラファエル。だが久々に褒められた気がする。悪い気はしなかった。
「それは失礼……あと30分ほどで検査に入ります。採血等を行い、問題なければ次のステップに続きます。」
「勝手に話を進めやがって。もう一度尋ねるが、拒否権は、」
「ありません。」
 きっぱりと言う研究員。だが、前のような緊張感は少々和らいでいた。
「断ったら」
「閣下の裏拳が来ますね」
 それどころか冗談も言えるようになっていた。
「暴力的な組織だ」
「元マフィアのアンダーボスに言われてしまえばこちらも返す言葉もありません」
 冗談を鼻で笑うラファエル。だが、ある種の覚悟はできていたようだ。
「もし実験が成功したら、あいつを超えられるか」
 腹をくくったラファエルが訊く。
「今は無理でしょう、改造後の身体を慣らすことから始めないといけませんからね。しかし、」
 言葉を濁す研究員に、ラファエルはそれとなく訊く。
「……そう遠くない未来か?」
「それは貴方次第です。潜在能力はファーストよりも、改良されていますからね。」
 奴に泥を塗れる日が来るのなら、構わないと笑った。

 それが、どこにあるかは分からなかった。今彼が覚えていることは、入隊を決意し、本拠地で書類を渡してから次に起きた場所が大きなガラス管の中であることだ。裸で、体温に近いシアンブルーの水の中で浮きも沈みもせずに幾多もの管で繋がれていた。不思議なことに息ができる。がば、と口を開いたが溺れることもなかった。
「目覚めたか、"海の子"よ」
 向こう側の気配に気づき、目を開く。不思議な感覚だった。彼はいろいろな物が揺らぐ水中でも"視える"のだ。ガラス管の向こうにある"それ"がどんな形をしているか、"それ"はどのような温度を持つものなのか、"それ"はどこに位置するか。可視光の範囲を超えて調節された眼は、改造されていたことの証明に他ならない。視線を横にずらすと。自分の髪がふわふわと、ガラス管の中を泳ぐ。どうやら空気を送り込んでいるらしい。そうしてまた、自分は脳の処理が変わったことに気づき、軽く混乱する。側面を揺蕩たゆたう髪の毛と、ガラス越しの人間が同時に見えているのだ。視野角が異常に広く感じた。それに、右側がやたらよく見えている。試しに視界をずらしてみると、装置の天井と真下が同時に見えた。彼はぼんやりとした思考の中、感じた。"俺の眼は2つではない"と。大量の管で繋がれた右側に手を触れる。彼は、粘膜があらぬ位置に存在することに驚き、そして怯えた。いち、に、さん、し、ご。彼の眼は、全部で6つあったのだ。手の感触も、前と大分違っていた。自分の体を見ると、筋骨逞しい姿をしている。標準体型の大学生ではなく、鍛えられた軍人のそれであった。
「俺は」
 水中で声を発することはできなかった。だが唇の動きを察した研究員たちは、笑顔で彼を見守った。
「おめでとう、エルネスト。君は我々の希望だ。」
 彼にその言葉は聞こえなかったが、自分の名前を呼ばれたことだけは、その眼で理解していた。
「さて、こちらはどうかな」
 研究員たちは横へと歩いていった。エルネストも目で追うと、もう1本、ガラス管があることに気づいた。光の加減で青緑色に染まっている水。そこにいたのは。
「"陸の子"も順調だな」
 銀色の短髪がゆらゆらと揺れている中、眠っている裸の男であった。自分以外にも、改造されている人間がいたなんて。彼もまた、目を開く。美しい緑色の目が、水槽の中で輝いていた。その表情は、すべてを悟っていたような、それでいて何かどす黒いものを心の底で抱えていたような危うさがあった。
「ラファエル、気分はどうだ」
 相変わらず何を言っているか、エルネストには分からなかった。ぼうっと眺めていると緑目の男もこちらに気づいたのか、彼の方を向く。男は驚愕した。おそらく、自分は複数の眼で物凄い顔になっているんだろうとエルネストは思った。彼を驚かせてしまったので、せめて怖い顔をするのはやめようと、軽く笑顔を見せた。しかし逆効果だったらしく、不気味に思われてしまったらしい。母国語でなにかコミュニケーションを取ろうとしたが、水槽越しに伝わるはずもなく、思えば相手の国籍も分からない(最初に改造されたヘルムートはドイツ人だと知ったこともある)ので、通じないだろうと諦めた。
「はは、彼はエルネストの目に驚いているらしい。」
 研究員も笑っていた。不思議というよりは、不気味な空間だった。銀髪の男は、エルネストへの視線のやり場に困ったらしく、鍛えられた肉体と下腹部をちらと見ると、そっぽを向いてしまった。
「年齢も近そうだし、同僚だから仲良くなりたかったけど」
 思えば自分は、妙に楽観的になった気がする。これも改造の所以だろうか。再び眠気がやってきたので、エルネストは目を閉じることにした。次起きた時には、自分はどの様になっているのだろうか。期待と不安を胸に彼の意識は途切れた。


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