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お客様=神様です。

自分の表現に虚しくなったときに思い出す言葉がある。

「お客様は神様です。」

この言葉は『お客様を神様のように崇め奉り接待せよ。』という意味として使われることが多い。
だが、多くの日本語がそうであるように、本来もっと意義深いのではないかとわたしは解釈する。
というかこの言葉を使って、自分なりに解釈を勝手につけて自分を落ち着かせるツールにしている。

お客様is神様、じゃなくて、
神様isお客様と考えると、接客でもエンタメでもなんでも人を喜ばせる行為はもっと崇高になるのではないか、行為者が報われるのではないかと思っている。

お客様が神様なんじゃなくて、
神様がお客様なんだよ。
つまり目の前のカスタマーを喜ばせているようにみせかけて、その喜ばせる行為を神に奉納していると考えると、虚無感はなくなる。

(ここで私が言う「神」とは、お髭の生えたおじいさんとか日本を作ったなんとか姫とか特定のなんかすごい上にいる創造主のような存在ではない。
この世を創っていると言う意味では同じだが、もっと宇宙の星々や生き物の命を無意識に動かす「流れ」のようなもののことだとわたしは思う。が、これを見ているみなさんはなんか「エネルギー」とか「愛」とか各々自分の思う神を当てはめてもらったらいいと思う。)

演劇とかパフォーマンスとかでいうとわかりやすいんだけど、
例えば観客が誰もいなくても公演はやる。と言う人は多い。
それって、神(のようなもの)に自分の大事に作った演劇を奉納している。お供えしている。発表している。何月何日に演劇をやります。という神(のようなもの)との約束を果たす為にやっているのではないか。

わたしが演劇をやっていたとき、かれこれ10年以上前のできごと。
フランスの演劇際に出品した劇団が、何らかの事情で公演がキャンセルになってしまったということがあった。
その劇団は、実際やるはずだった公演会場ではなく、ちいさな広場で準備してきた演目をやることにした。
その劇団は当時演劇やっていた人なら誰もが知っているような大きな劇団で、その主宰の方は、そのことに関して声明を出した。その中で印象的だったのが、
「上演はお客さんとの約束というだけでなく、「天」との約束です。つまり、それは収穫祭と同じようにたやすくキャンセルできるものではないというのが私たちの感覚です。」
という文章。

当時、自分は承認欲求を抑えきれない20代の若者だったのでへえ〜くらいにしか思わなかった。
しかしあれから何年も経ち、経験を積んだ今、この言葉は共感を超えて、「上演(表現すること)の意味ってこれしかない。」とすら思わせる。

自分が演劇をやっていた頃は、演技に必死になればなるほどなんだか無性に虚しくなった。
叫んだり、悲しんだり、日常滅多にないような精神状態を演じなければならないときとか、舞台裏で次の出番に遅れないように必死に小道具を準備し早着替えしているような時、つまり上演に命がけになってるときになんだか虚しくなる。
演劇時代は観客のチケット代は全部公演費用に消える。この必死でやってる演技や準備は一銭もお金にならないのになに必死になってんだろ。と一瞬袖幕にスタンバイ中、素に戻る時もあった。

でも、わたしのこの演技は、神との約束であり、なにかを願い祈る神楽なのだ。
そう思うと、一気に自分の一挙手一投足が意味を持つ。
多分だが。そうなった時が「真に迫る演技」を繰り出せているんだと思う。
逆にいうとそうじゃない時、神に身をまかせていないときこそが、「あいつの演技はなんだかうそくさい」「上手なんだけどなんだかすきじゃない頭で考えたような演技」の正体なのではと思う。

(まあ、だからといって神頼みがすぎるとそれはそれで痛い目を見るのだけれど。それはまた別の記事で。)

今私は演劇はやっていないが、声優や吹替の仕事で演技をすることはたくさんある。
家の中の録音ブースで、一人で、叫んだり、泣いたり、演技している。一人でね。
演技をするとき、わたしはマイクの前に、今収録している作品の完成品を想像している。
その完成品の前では、神の視点で見れば、わたしはストーリーの一部品で、ただ、やるべきことをやるのだ。(テキトーにという意味ではない。その時の最上の出来栄えを繰り出すように「やる」)

それを見て感情移入し浄化される観客がいる。
観客は、明日からその作品を見る前よりも少し、いい人生になるだろう。
よかった。世界が少し良くなった。
それにきっと、なにか神のようなものとの約束が果たせた時、「流れ」のようなものをわたしは少し動かすことができたのだろう。


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