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デス・ゾーンと神々の山嶺

栗城史多という登山家がいた。冒険の共有と5大陸最高峰単独無酸素登頂を掲げ、精力的に自分の活動をアピールし、自身の登山の様子をネット配信する等して一時期注目を集めた。一般的な登山家のイメージ、つまりは寡黙で、世間とは隔絶した自分の世界を持ち、ただひたすら山と己の限界と向き合うという求道者然としたものとは一線を画す人物であった。

私が彼の存在を知ったのはおよそ10年ほど前、恐らく彼の絶頂期の頃であった。その当時の彼は、稀代の若手登山家としてもてはやされ、TVで幾度か目にする機会があった。同時に、ネットでは彼の登山歴に対する疑念、特に「単独無酸素」を掲げながら実際には酸素ボンベを使い、複数人のチームで登山をしていたのではないかという点が激しく追及されていた。

残念ながら2021年現在、当時のサイトはほとんど残されていない。2018年のエベレスト登山中の彼の死亡により、そういったサイトは全て消え去ってしまった。世間の関心はそれよりも前に下火になっていたので、それを以て栗城という人物を取り巻く論争はなくなってしまったと言っていいだろう。

とはいえ、栗城という人物は、良くも悪くも2010年代で最も有名な登山家であったと思う。登山自体を自己表現とする多くの登山家の中にあって、登山を半ば手段化し、登頂までの道のりを劇場化した彼には否が応でも注目が集まった。

その栗城を最初に見出し、後に袂を分かつことになる人物が書いたのが、本書「デス・ゾーン」である。

本書では栗城の複雑な人物像を関係者の証言から洗い出すと同時に、栗城の死により謎となってしまった3つの事柄、すなわち、①酸素吸引をしたことがあったのか、②チームを組んで登山をしたのか、③挑戦したら必ず死ぬと言われる中で敢行した最後のエベレスト登山は自殺だったのか、について筆者なりの分析を載せている。

①と②はほとんど結論が出ているに等しいので、本書の記述に驚きはなかったが、③については、栗城が出口のない状況に追い詰められ、半ば自殺に近い形で登山に挑まざるを得なかった状況が、登山の最中に退くことも進むこともできなくなり、道半ばで力尽きた多くの登山者達の生き方を連想させた。彼は山を道具にしたと批判を受けることがあったが、彼自身の人生が気づけば山に絡めとられ、最後は命を落とす結果となってしまったようだった。

彼が最後に挑もうとしたエベレストのルートは南西壁と呼ばれる。未だ単独無酸素で登頂されたことのない最難関ルートだった。この南西壁を条件の厳しい冬季に無酸素単独で登頂に挑む羽生という男を主人公とした「神々の山嶺」に影響を受けたためだと本書に書かれていた。

「神々の山嶺」に出てくる羽生は栗城とは真逆の人物で、社交性がなく、脚光を浴びることもなく、人の世では生きられず、山を登ることでしか自分の存在意義を感じられない人物だった。彼の挑戦は南西壁を登りきるには少しでも余分なものは持ち込めないといって、鉛筆を切り詰め、手帳の表紙も余分な重さだと言って破るほど徹底していた。それは人生の選択でも同様で、一般的な幸せを全て棄て、10年単位で人生をエベレストに捧げた上での登頂だった。

フィクションとはいえ、そんな話に影響され、栗城が南西壁を登ろうとしたというのは事実であれば何とも皮肉めいた話である。栗城には多くのフォロワーがいて、登山以外に生きる道が沢山あった。そして彼の人生は南西壁に捧げられてきたとは言い難かった。

栗城の存在は、2010年代の登山界に大きな命題を与えたという。登山とは、スポーツのように記録を競う競技なのか、冒険のような存在なのかという命題だ。競技化されておらず、人に認められなくても自分がよければそれでいいというある種自己満足的な世界観が、栗城という存在の進出を許してしまったと、当時の登山家のブログで目にした。

私も夏に北アルプスの山をいくつか登ったことがある。登るという行為は、たかだか3000mにも満たない山でも十分に辛い作業である。人に登山の話をすると、「なぜそんな辛い思いをして登るのか?」と聞かれることが多い。

高いところからの眺望なら、飛行機か、高層ビルやタワーの展望台で代用できる。達成感を得るためなら、それこそ代用手段はいくらでもある。どうしてわざわざ山に登るのか。それをはっきり口で説明できる人は少ない。そしてそれ故に、登山を定義できないのだろう。

かつて、マロリー卿という人物はなぜ山に登るのかと訊ねられ、「そこに山があるから」と答えた。「神々の山嶺」では、登場人物の多くが、なぜ山に登るのか自問し続けながら歩を進める様が描かれる。

きっと栗城も多くの場面で、登山の意味を考えたに違いない。その曖昧さが彼の登場を許し、そして死へ追いやってしまったのかもしれないにせよ。

#夏の読書感想文

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