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金太郎のモデルとなった人


最初に

金太郎は、下毛野公時という人がモデルです。

寛弘6年(1009年)には、近衛舎人となっており、18歳で死去するまでには番長となり、その間三条天皇行幸に際しての歌舞(東遊)や、騎射真手結)、相撲使を務め、併行して藤原道長随身ともなっていた。

寛仁元年(1017年8月24日以前に相撲使として赴いた筑紫にて死去。享年18。

話の中では坂田金時、という名前になっています。

<以下の記事より抜粋>
金太郎は足柄山にて、熊と相撲を取ったりする、怪力の持ち主となったようです。

その後、藤原道長の側近である源頼光足柄峠(矢沢倉往還)を通りかかった際に、力持ちの金太郎を家臣に加えて、坂田金時として活躍するようになったとされます。
源頼光(みなもと-の-よりみつ)は、平安時代中期の武将で、誕生が948年で、没年は1021年です。
この源頼光には、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、平井保昌)など、剛腕の家臣がいたとされ、大江山の酒呑童子退治(大江山鬼退治)などが有名です。

注目したのは
・武将(武士)のはしりだった
・藤原道長の警備をしていた

の二点です。

浄瑠璃との関係

色々調べていると、金太郎の話が浄瑠璃の後付けで作られたのでは、という疑惑が出てきました。
ただ金太郎は実在します。

①浄瑠璃の影響を受けた
「神奈川西部の金太郎伝説」には、後世に造られた江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎である
『嫗山姥(こもちやまんば)第二段の八重桐廓噺(やえぎりくるわばなし)』
のストーリーが、地域伝承に直接影響を及ぼしているのが見えるからです。

最も、その影響が見られるのが、金太郎の母親の名前です。

「神奈川西部の金太郎伝説」では金太郎の母親は八重桐になっていますが・・・
この八重桐の名前は、後世の後付けによるものです。

下記は、八重桐廓噺(金太郎が生まれる前の前夜話とも言える)の概要ですが、
それをよくご覧下さい。

<嫗山姥 第二段 兼冬館の段 (通称:八重桐廓噺)>

近松門左衛門作の人形浄瑠璃。時代物。しゃべり山姥とも呼ばれる。
1712年(正徳2)7月大坂竹本座初演。謡曲「山姥」に頼光四天王の世界をからませたもの。

源頼光と清原高藤の抗争が主筋で,坂田時行と八重桐の葛藤が副筋であるが,二・四段目の八重桐廓話(くるわばなし)と山姥が有名で、歌舞伎でもこの二段目「兼冬館」の八重桐廓話の場のみが上演されている。

▼あらすじ
煙草屋源七(実在の人物を当て込んだもの)実は坂田時行と,廓でなじみの荻野屋八重桐(実在の女方役者荻野八重桐を採り入れた)が、廓話にかこつけて恋のなれそめを語る〈しゃべり〉が,父の敵討を果たさぬ男のふがいなさをなじる形に進み、時行はそれを恥じて自分の魂を八重桐の体内に宿らせ男児になって誕生すると称して自害する。

妊娠した八重桐は山中に隠れ住み、やがて男子を産み、それが怪力無双の快童丸(※金太郎とは呼ばれていない事に注意)となる。

上記に、女方役者の荻野八重桐が居るのが分かりますでしょうか?
このとおり、八重桐の名前は、江戸時代の女形の役者さんの名前です。

荻野八重桐(初代) おぎの-やえぎり( ?-1736 江戸時代中期の歌舞伎役者。)

初代荻野長太夫の門弟で,京坂の舞台で活躍していたが、宝永2年(1705年)江戸山村座の「河内通」で好評をえる。
正徳以降(1711年~)は上方を代表する若女方として活躍した。
元文元年(1736年)死去。

物語の作者である近松門左衛門は、当時の上方歌舞伎の人気女形だった
荻野八重桐の名を拝借して、この八重桐廓噺のストーリーを作ったのです。

ですので、残念ながら、「神奈川県西部の金太郎伝説」は、「彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が金太郎を産んだ」としている点で、後世の歌舞伎のストーリーが直接、大きく影響を及ぼしている可能性が高いのです。

②金太郎が実在する証拠
摂政・藤原道長の日記『御堂関白記』の1017年8月24日分にこう書いてあります。

『帥(太宰府の長官)のもとより書を送らる。
書を開き見るに曰く。相撲使公時死去の由なり。』

※相撲使・・・力士をスカウトする役といわれる

上記のとおり、藤原道長の日記に、公時が死んだ事が書かれています。
したがって、金太郎が実在していた事は間違いありません。
なお、正暦元年(990年)に源頼光は、藤原道長に側近として従っていますので、
藤原道長と坂田公時(金時)は、顔見知りの間柄だったと思われます。

次は、いつ下毛野金時から坂田金時の苗字に変わったか?、を確認。

藤原道長の「御堂関白記」に、公時という人物は実在するが、下毛野公時として出てくる。

御堂関白記』より

寛弘六年(1009年)八月十七日条「宮御馬口付近衛下毛野公時」

しかし、一方で、下毛野公時と同時代を生きた藤原道長から少し時が降ると、、、
とたんに、下毛野公時は、坂田公時(金時)に変わっていってしまうのです。

今昔物語集や古今著聞集では、坂田公時(金時)になっています。

今昔物語集 巻二十八第二 (1120年代以降の成立)

今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等に、平貞道・平季武・坂田公時という三人の兵があった。

(参考サイト:頼光の郎等共、紫野に物見たる語

古今著聞集 巻第九 武勇十二 (1254年頃に一旦成立し、後年増補)

《源頼光、鬼同丸を誅する事》

源頼光朝臣、寒夜に物へありきて帰りけるに、源頼信の家近くよりたれば、坂田金時を使にて「只今こそ罷り過ぎ侍れ。この寒さこそはしたなけれ。美酒侍りや」
といひやりたりければ・・・

(参考サイト:古今著聞集の渡辺綱

古事談 巻六(1212年~1215年の間に成立)

(六七 道長の競馬を実資見物の事)
御堂、早旦に、人々に私に法興院の馬場にて、公時に競馬を乗らせ玉ひけるに、小野宮右府、古車に乗り馬場の末に於て密かに見物す。

公時勝ちたりけるに、車より纏頭すと云々。
神妙なる紅の打衣を肩に掛けて、あげて参りたりければ、御堂「あれはいかに」と驚き問はしめ給うに、公時申して云く
「方の大将の、馬場のすゑにて給ひ候ふなり」と云々。

(参考文献:新注 古事談

御伽草子 酒呑童子(鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立)

頼光と保昌は、八幡に社参ありければ、綱、公時は住吉へ、定光と末武は熊野へ参籠仕り、さまざまのご立願、もとより仏法神国にて、神も納受ましまして、いづれもあらたに御利生あり。

(参考文献:御伽草子 酒呑童子

『今昔物語集』や『古今著聞集』には、坂田公時・坂田金時の名前が出てきますので、
少なくとも、下毛野公時が死んだ1017年から200年と経たないうちに、
坂田公時・坂田金時へと変遷していった事が伺えます。

下家野氏

そもそも、下家野氏って、、、何者なのでしょうか?
その辺を、詳しく見ていくと、意外な事実が浮かび上がります。

『以下は毛野氏考(上毛野氏/下毛野氏)より引用し、関係箇所を要約』

<下家野(しもつけぬ)氏について>

毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族である。
10崇神天皇の第1皇子の豊城入彦(とよきいるひこ)命を元祖とする皇別氏族とされる。

毛野国は後に、上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)に分国された。
(さらに後年(713年)になって上野国・下野国と呼称が変化した)

それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏である。

下毛野氏の末裔とされる一族が長岡京市に現存する。「調子氏」である。
調子氏古文書として多くの貴重な文書が残されている。系図の一部も確認されている。
これは毛野氏を論じる上で非常に興味有る史料である。

<下毛野氏流 調子氏について>
現在の京都府長岡京市調子、旧山城国乙訓郡調子村に、元々下毛野氏を名乗っていた調子氏が現存している。

下毛野氏系図は「敦実」から始まっている。この「敦実」なる人物は全く事績不明。
「敦行」は今昔物語にも登場する人物で、9世紀後半に京都に住み、下毛野氏の近衛官人としての地位を確立した人物とされている。

この敦行の曾孫に下毛野公時という藤原道長・頼通の随身がいた。
この人物をモデルとして、源頼光の四天王の一人「坂田金時」話が出来たともされている。


下毛野氏は、10世紀以降、馬芸・鷹飼などを専門職とする下級官人・舎人・摂関家随身などを世襲したようである。

参考:下毛野氏の鷹術伝承

実は、金太郎のモデルになっている下毛野公時は、『相撲使』だったのです。

下毛野氏は、元々、馬芸・鷹飼など、武芸に秀でた氏族です。
その中でも、特に、下毛野公時は『相撲』に大きく関わっていた人物なのです。

ここに、下毛野公時が坂田金時(坂田公時)になった深い理由が隠されています。

金太郎の出身地
→真の金太郎は、下毛野公時(しもつけぬきんとき)という、京都府長岡京市調子(旧山城国乙訓郡調子村)出身の相撲使であることが分かりました。

しかし、この下毛野公時(しもつけのきんとき)は、平安末期の時点において、
既に、「下毛野公時が坂田金時(坂田公時)に変わっている」のが見られます。

なぜ、下毛野公時の死後から、わずか百年余りで、
下毛野公時から坂田金時(坂田公時)へと変わっていったのか?

鍵を握るのは、、、"もう一つの金太郎伝説"です。
(だんだん話が複雑に、、😓)

滋賀県長浜市西黒田の金太郎伝説

金太郎伝説は、日本各地にありますが、
滋賀県長浜市西黒田地区に残る金太郎伝説もその一つです。

まずは、そのストーリーをご覧ください。

<西黒田の金太郎伝説>

金太郎は、当時この西黒田の地に勢力のあった息長氏の一族として、
天暦9(955)年に近江国坂田郡布勢郷(現在の長浜市布施)に生まれました。
たいへん大きな赤ん坊でした。
その後、小一条の「うばがふところ」という場所で乳母によって育てられた金太郎は、
西黒田の山里を駆け回るいきいきとした少年となりました。

金太郎は、舟崎の鯉ヶ池で鯉にのったり、
常喜の熊岡や足柄山で熊と相撲を取ったりして遊ぶ、元気で明るい子どもでした。

また、本庄の足柄神社の奉納相撲にも出場し、見事な力を発揮していました。

そして金太郎は少年時代、遊ぶだけでなく、付近の菅原道真ゆかりの
名超寺、富施寺などで、学問にも励んでいました。
まさに文武両道の優等生だったのです。

青年となった金太郎は、地元の鍛冶屋で働き始めます。
当時この地は、製鉄業が盛んだったのです。

金太郎は、一生懸命働き、その名声は日に日に高まっていきました。
そして、金太郎自身は、息長家の一族として、多くの苦しんでいる人々のため、
役に立つ仕事がしたいと思うようになっていたのです。

それから数年が過ぎ、20歳となった金太郎に転機が訪れます。

天延4(976)年、旧暦3月21日、上総守の任期を終え、黒田海道を上京中の
源頼光が足柄山にさしかかったとき、頼光はこの地にただならぬ気配を感じ、
誰か素晴らしい人傑がいるに違いないと思いました。

そして、かねてから頼光は伊吹山の山賊を退治するため、
このあたりの地理に明るい若武者を家来にしたいと思っていたこともあり、
家来の渡辺綱に人材を捜させました。そのとき目にとまったのが、金太郎だったのです。

頼光は、金太郎の非凡なる形相を認め、金太郎に名前などを尋ねました。
金太郎は「息長の一族で、名前は金太郎。」と答えました。

頼光はさすがにと思い、家来にならないかと言いました。
金太郎もかねてから、世の中の人々のために役立つ仕事をしたいと思っていた事もあって、
頼光の家来となることを決心しました。

上京後、金太郎は名を坂田金時と改め、頼光のもと様々な手柄を立てました。

そして、ついに正暦5(994)年、伊吹山の山賊を退治することになります。
金太郎は、地理に明るいこともあって、一番乗りの大手柄を立て、地元に凱旋しました。
地元の人々は、さすが金太郎だと口々に言いました。

そうして、金太郎は、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、
頼光の四天王と称されるまでになったのです。

▼芦柄神社(滋賀県長浜市)
※明治期以前は足柄神社だった。西暦893年に菅原道真によって創建

▼芦柄神社にある土俵※神社の背後には"足柄山"がそびえる

この金太郎伝説は、『下毛野公時が、坂田金時に変わった』鍵を握っています。

なぜなら、この西黒田地区は、元々、近江国坂田郡だからです。

仮に、下毛野公時が、この近江坂田の地と関わりが深い人物だったならば・・・

平安末期において、近江坂田の地名を取って『坂田の公時』と呼ばれ、
それが、いつしか『坂田公時(坂田金時)』に定着したとは考えられないでしょうか?

事実、金太郎のストーリーの随所に、近江坂田の影響を見出す事が出来るのです!

鉞(マサカリ)は、息長氏のトレードマークだった!

西黒田の金太郎伝説にある通り、この近江坂田は、神功皇后や継体天皇妃 広姫など、
天皇の外戚として勢力を誇った、古代豪族『息長氏』の拠点です。

それで、実は、金太郎のトレードマークにマサカリがありますが、
このマサカリは、この息長氏と非常に関係が深いのです。

息長氏を代表する人物として、神功皇后が有名ですが、、、
実は、神功皇后が使った武器は、鉞(マサカリ)です。

▼神功皇后の剣入鉞(マサカリ)(山津照神社蔵)

日本書紀にも、神功皇后がマサカリを使った事がしっかり書かれています。

<日本書紀・摂政前紀(仲哀九年九月条)>

時に皇后、親ら斧鉞を執りて、三軍に令して曰はく・・・

それ以外にも、記紀では、息長氏と縁の深い天皇に継体天皇が居ますが、
継体天皇は、磐井の乱の鎮圧させる際に物部麁鹿火に斧鉞(マサカリ)を授けています。

<日本書妃 継体天皇条(二十一年)>

天皇(※継体天皇)、親ら斧鉞を操りて、
大連(※物部麁鹿火)に授けて日はく、
「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。
頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。

二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、
大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の師磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。

このように、息長氏とマサカリは非常に強い関係性を持っています。
※斧鉞は古代中国の軍権の象徴で、軍を指揮する人物に与えられていました

ついでに、金太郎の"金と書かれた赤い前掛け"も、
火の粉が飛ぶ熱い製鉄のタタラ場での作業着が、イメージされた結果だとも考えられます。

<補足>

鉞などの玉器は、古代中国の長江下流域の石峡遺址(せっきょういせき)でも見られ、

古代日本で鉞を重要視するのは、古代中国のの文化が影響している証拠です。

このように、鉞の特殊性や製鉄遺跡、古代の天皇家と息長氏の影響などを考慮していくと、
『下毛野公時が、坂田金時に変わった』のは、近江坂田が関係している可能性が非常に高いのです。

推測)
元々、京で相撲使だった下毛野公時は、相撲使の仕事を通じて、
ここ坂田の地に、足繁く来ていたのではないかと思います。

そしていつの頃からか、"坂田の公時"と呼ばれるようになり、
それが、坂田金時として、定着していったのではないでしょうか。


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