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赤穂浪士ゆかりの地を訪ねて



江戸幕府は、毎年正月朝廷に年賀の挨拶をし、朝廷も返礼として勅使を幕府に遣わせていました。1701年4月21日(元禄14年3月14日)は儀礼の最終日で、第5代将軍徳川綱吉が本丸御殿内の白書院で勅使に奉答する予定でした。

天守台

当日午前11時半過ぎ、吉良上野介が、本丸御殿大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけ礼式用の小刀で肩先・眉の上・背中を傷つけました。

江戸城本丸御殿図

内匠頭は、その場に居合わせた周囲に取り押さえられ柳之間の方へと運ばれ、上野介は、他の高家衆に御医師之間に運ばれ、外科の第一人者である栗崎道有により数針縫い合わせられました。

江戸城跡

目付が双方から事情を聴取し、老中に報告、側用人柳沢吉保を経て、将軍徳川綱吉にまで伝えられます。即日内匠頭には切腹の裁定が下されますが、上野介はお咎めもなく綱吉から見舞いの言葉をかけられました。

国立公文書館デジタルアーカイブ
柳営次日記 元禄14年3月14日


浅野内匠頭は、芝愛宕下の陸奥一関藩主田村建顕屋敷の庭で、畳2枚、若しくは筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で切腹します。遺体は浅野家の家臣達が引き取り、菩提寺の泉岳寺にひっそり埋葬されました。

泉岳寺

同時に赤穂藩の改易も決まり、伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は退去を命じられ、上屋敷へと引き上げます。当日夜、内匠頭の正室・阿久里は剃髪し名を瑤泉院と改め、翌日明け方に実家の三次藩主浅野長澄に引き取られます。

浅野家内匠頭邸跡【東京都指定旧跡】

1701年4月22日江戸詰めの藩士が藩邸を退去し始めます。24日内匠頭の従弟・大垣藩主戸田氏定が、赤穂藩の地権書である朱印状を幕府へ返還し、17日上屋敷・18日赤坂下屋敷・22日本所下屋敷がそれぞれ幕府に収公されます。

勝安房邸跡(赤穂藩赤坂下屋敷跡)

一方、事件を知らせる第一報の早駕籠が、26日寅の下刻 (午前5時半頃) 、浅野内匠頭切腹と赤穂藩改易を知らせる第ニ報の早駕籠が26日内(※江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度)に赤穂城に到着します。

国立公文書館デジタルアーカイブ
播磨国 (元禄)

筆頭家老・大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ事件を皆に伝え、連日城に集まって対応を議論します。幕府に抗議するため籠城・切腹する意見もありましたが、5月26日御家再興も視野に入れ、赤穂城を引き渡します。

赤穂城

一方、吉良上野介は、刃傷事件でお咎めなしでしたが、世論の浅野内匠頭に対する裁定の厳しさから高家肝煎の辞職願を出し、4月30日付お役御免、9月21日吉良家の呉服橋屋敷を召し上げられ、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になります。

吉良邸跡(本所松坂町公園)

そしてついに、1702年8月11日浅野内匠頭の弟・大学に対して「広島藩預かり」という処分が下り、赤穂藩再興の望みは絶たれます。8月21日大石内蔵助は、京都の円山会議で、11月以降吉良邸に討ち入るため、江戸に入る事を正式に表明します。

大石内蔵助良雄銅像

大石内蔵助は、円山会議の約束通り、11月25日京を出て東海道を歩き、箱根関所を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣で討ち入りの成功を祈願し、墓石を少し削って懐中に納めました。

箱根関所

12月14日平間村に入り、赤穂藩邸の下肥を買い取っていた稱名寺近くの農家軽部五兵衛宅に滞在して討ち入りの計画を練ります。しかし、赤穂藩の残金は少なく、もうあまり猶予はなかったようです。

川崎市 稱名寺

赤穂浪士達は、12月23日江戸に到着して情報を集め、1703年1月30日吉良上野介が茶会を開くために確実に在宅している事を突き止め、ついに討ち入る事を決めます。

国立国会図書館デジタルコレクション
(江戸切絵図) 本所絵図


赤穂四十七士は、1703年1月30日寅の上刻 (午前4時頃)潜伏していた借宅を出発し、大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、 表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入します。

吉良邸跡(本所松坂町公園)

裏門隊は、吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と叫び、家来達を混乱させ、住んでいる長屋の戸口を鎹で打ちつけて閉鎖し、出られないようにします。 四十七士は、吉良上野介の寝間に向かいますが、上野介は既に逃げ出していました。

吉良邸裏門跡

まだ寝具が温かく探すと、台所裏の物置部屋の中にいる老人を見つけ、間十次郎が槍で突き武林唯七が刀で斬り絶命させます。浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、合図の笛を吹き、四十七士を集めました。

吉良上野介義央公

吉良上野介を討った四十七士は、亡き主君の墓前に首級を供えるべく、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かいます。追手を警戒して、両国橋は渡らず南下して永代橋を通過します。

永代橋

泉岳寺に到着した一行は、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供え一同焼香します。上野介の首は泉岳寺に預けられ、僧二人が吉良家へと送り届け、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内が受け取ったそうです。

泉岳寺

幕府は、赤穂浪士の討ち入りをした報告を受け、1703年3月20日切腹にする事を決めます。しかし、場所はお預かりの大名屋敷庭先でしたが、細川家では最高の格式である畳三枚、他三家では二枚が敷かれました。

大石良雄外十六人忠烈の跡

その後、赤穂四十七士の遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬されました。

赤穂義士墓地



…大石内蔵助が、討ち入り後泉岳寺で詠んだ歌は、『あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし』とされています。




今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊

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