kirin_melonの社会科見学

関東在住のジャーナリストです。主に、東京・神奈川・千葉・埼玉の日本史・古道・インフラ・…

kirin_melonの社会科見学

関東在住のジャーナリストです。主に、東京・神奈川・千葉・埼玉の日本史・古道・インフラ・花畑等の情報を少しづつ不定期に発信しています。

マガジン

  • 日本史の社会科見学

    鎌倉・江戸・明治・大正・昭和初期の出来事を博物館・美術館・記念館・郷土資料館・史跡etcに社会科見学した際の画像をたくさん使用して記事にしたものをマガジンにまとめています。

  • インフラ(電気・水道・ガス)の社会科見学

    インフラ(電気・ガス・水道)の歴史・自宅に届くまでのルートなどを発電所・LNG基地・取水堰etcの画像を使用した記事をマガジンにまとめました。

  • お花畑の社会科見学

    梅・桜・紫陽花・向日葵・コスモスなど花の名所に社会科見学した際の画像を使用した記事をマガジンにしました。

  • 古道の社会科見学

    古道を歩いて、史跡・道標・花畑など連続した画像を記事に載せています。

最近の記事

成田詣【日本橋〜成田山新勝寺】

1632年江戸と行徳(塩田)を結ぶ行徳船が開通します。その後は成田詣へ行く人々を乗せた日本橋小網町から行徳常夜灯まで約12.6㎞を定期船が就航した為、陸路は行徳街道を起点として成田山に向かう近道ルートも出来ました。今回は、少し寄り道・廻り道しながら数回に分けて徒歩で辿ってみました。 今年は、元旦に能登半島で地震が発生し、2日に羽田空港で航空機衝突事故が起きる非常に大変な年初めとなりました。被災した方々の無事を心からお祈りいたします。

    • 江川英龍ゆかりの地を訪ねて

      江川家は、大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄です。第36代目当主・江川英龍(1801-55)は、1835年父英毅の死去により伊豆韮山代官として天領の民政に従事します。 代官の身分は、勘定奉行の支配下に置かれた旗本です。年貢の徴収・司法検察等の多忙な業務を限られた手付・手代が補佐し、1836年天保騒動では武蔵・相模への波及を警戒しました。 また、小田原の二宮尊徳を招聘して積極的な農地の改良・倹約を実施します。 一方で、殖産の為に貸付・飢饉の際の施しも行い、領民の信

      • 銚子〜江戸 しょうゆ水運ルートを巡る旅

        『醤油』は、小麦・大豆を麹菌で発酵させ塩水を仕込み作ります。1621年新川通開削から開始した利根川東遷事業により、銚子・関宿・新川・小名木川を通る大動脈が1654年完成し、高瀬船での水運が盛んになって行きます。江戸時代中期には銚子・野田が醤油の二大醸造地となり、佐原のような舟運の中継地でも醸造します。 利根川運河は、利根川と江戸川を結ぶ約8.5kmの運河です。関宿の江戸川流頭部に行くまでに浅瀬が出来たり、距離も長かったため1890年運河が完成します。 幕府より開発された江

        • ウィリアム・ウィリス医師

          1837年北アイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学び、卒業後はロンドンのミドルセックス病院で勤務します。 1862年駐日英国公使館の領事館付医官として来日します。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、6月26日第二次東禅寺事件に遭遇します。 同年9月14日生麦事件に遭遇した際、誰よりも真っ先に現場に向かい、英国人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行います。 1863年鹿児島で起きた薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療に当たります。 186

        成田詣【日本橋〜成田山新勝寺】

        マガジン

        • 日本史の社会科見学
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        • お花畑の社会科見学
          0本
        • 古道の社会科見学
          9本

        記事

          筏道を歩く②【武蔵国府〜青梅】

          往路は、1日目は土場で筏を組み沢井まで『山下げ』、2日目は千ヶ瀬まで下り筏3枚を繋ぐ『青梅下げ』、3日目は羽村取水堰を決められた時間帯に通過する『堰落とし』を行い、拝島まで下り、六郷まで5-6日間かかりました。復路は、六郷の筏宿で一泊して、早朝『筏道』を歩き、府中辺りでもう一泊して、翌日帰宅したようです。 …筏乗りは、『きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し』と唄ったそうです。 今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊

          筏道を歩く②【武蔵国府〜青梅】

          芥川龍之介ゆかりの地を巡る

          龍之介は、1892年3月1日築地居留地付近(東京市京橋区入船町8丁目)に牛乳製造販売業を営む、父新原敏三・母フクの長男として生まれます。 生後7か月頃、母フクが精神に異常をきたし、東京市本所区小泉町にある母の実家・芥川家に預けられ伯母フキに養育され、11歳時に母が亡くなります。 翌年、叔父・芥川道章 (フクの実兄)の養子になります。芥川家は、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主) の家で、芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていました。 1898年江東(こうとう

          芥川龍之介ゆかりの地を巡る

          赤穂浪士ゆかりの地を訪ねて

          江戸幕府は、毎年正月朝廷に年賀の挨拶をし、朝廷も返礼として勅使を幕府に遣わせていました。1701年4月21日(元禄14年3月14日)は儀礼の最終日で、第5代将軍徳川綱吉が本丸御殿内の白書院で勅使に奉答する予定でした。 当日午前11時半過ぎ、吉良上野介が、本丸御殿大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけ礼式用の小刀で肩先・眉の上・背中を傷つけました。 内匠頭は、その場に居合わせた周囲に取り押さ

          赤穂浪士ゆかりの地を訪ねて

          江ノ島道と杉山和一

          清浄光寺門前の遊行寺橋 (旧 大鋸橋)は、旧東海道が境川を渡る橋です。 明治初期頃までは、橋を渡り左手(南側)に江島神社一の鳥居・脇には道標が立っており、江ノ島道入口でした。 江ノ島道を進むと蔵前があり、江戸時代に年貢を納めた蔵があったそうです。 遊行ロータリー交差点から藤沢駅北口に向かう道です。 新宿湘南ライン等の下をくぐる地下通路が便利です。 石上公園の脇を通過します。 もう少しで境川です。 上山本橋を渡ります。 源頼朝が、片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替わり

          江ノ島道と杉山和一

          二宮金次郎ゆかりの地を訪ねて

          二宮金次郎(1787-1856)は、相模国足柄上郡栢山村に百姓の父・二宮利右衛門、母・好の長男として生まれます。家は、当初は豊かでしたが、1791年南関東を襲った暴風で酒匂川の坂口の堤が決壊して家は流失し、田畑は砂礫と化します。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は困窮します。 1797年父が眼病を患います。金治郎は、酒匂川堤防工事の夫役を代り務めますが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、夜に草鞋を作って配布して献じました。1800年父は、病気が悪化して亡くな

          二宮金次郎ゆかりの地を訪ねて

          防人歌

          『防人』は、646年大化の改新により孝徳天皇が改新の詔で示した制度の一つです。663年【白村江の敗戦】を契機に九州沿岸の防衛のため設置、701年大宝律令の規定により運用され、任期3年、食料・武器は自弁で、大宰府に東国(関東地方)から派遣されるようになります。 律令時代からの七道は、概ね地形的要件に基づいて区分され、西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄しました。七道の各国の国府は、幹線官道 (駅路)で結ばれ、30里(約16キロ)ごとに駅(駅家)

          鎌倉上道①【鎌倉〜武蔵国分寺】

          諸説ありますが、鎌倉から化粧坂の切通しを抜けて、境川沿いを瀬谷から町田へと北上し、小野路・多摩を抜け府中へと史跡を辿りながら向かいます。 …この後、所沢・入間・笛吹峠・奈良梨・山名・高崎へと続くようですが、今回は武蔵国分寺までとします。 今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊

          鎌倉上道①【鎌倉〜武蔵国分寺】

          新橋-横浜間 鉄道開通

          1869年明治政府は、首都東京から国際貿易港横浜を繋ぐ約29kmの鉄道敷設を決定し、翌年イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始まります。 田町から品川までの約2.7kmは、海軍用地を避け約6.4mの幅の高輪築堤を建設しその上に線路を敷設します。 築堤建設には、1853年黒船来航を機に東京湾に造られた品川台場の石等が再利用されます。 御殿山は、徳川将軍の鷹狩・茶会や江戸庶民の花見に利用されていましたが、品川台場建設で切り崩し、鉄道開通工事で切通

          新橋-横浜間 鉄道開通

          筏道を歩く①【羽田〜府中宿】

          奥多摩の山で切り出された木材は、多摩川を下り青梅などで筏に組まれた後、筏乗りが六郷まで運び、大抵筏宿で一泊して翌朝に陸路を徒歩で帰ったようです。彼等の通る道は、『筏道』と呼ばれ、両岸にいくつかのルートがあったようですが、今回は左岸側を少し寄り道しながら上流に向かい歩きます。 城田家屋敷は、1846年以前に登戸道と筏道が交わる辻に建てられて、酒屋を営んでいたようです。(※現在は治太夫堀公園に移築) 六郷用水の取り入れ口は、長い堰が造られてましたが、十間程度の幅で筏が通れるよ

          筏道を歩く①【羽田〜府中宿】

          ジェームス・カーティス・ヘボンhakase⛪️🏥📚🏫

          1858年7月29日大老井伊直弼により、日本とアメリカ合衆国の間で日米修好通商条約が結ばれます。 第8条には、『アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。』とあり、キリスト教宣教師の来日が可能となります。 …実はこの時、アメリカ側は、ペリー提督が乗船した黒船ミシシッピ号を使用し、長崎に入港した後、条約交渉が行われている下田にも姿を表し日本側に圧力をかけていました。 しかし、この行動が悲劇を生みます。長崎から始まったコレラは、旧東海道筋を経て江戸にま

          ジェームス・カーティス・ヘボンhakase⛪️🏥📚🏫

          品川道を歩き『くらやみ祭り』へ

          毎年5月5日に行われる大國魂神社の祭礼は、「くらやみ祭り」と呼ばれ、4月30日に行われる「お浜降り」行事に始まります。神職及び所役の方々は、早朝府中を立ち荏原神社から品川湊に赴き、手や口を海水で身を清め、海水を樽に入れて持ち帰って、大祭期間中の朝夕潔斎時に使われるそうです。前九年の役(1051-62)で、源頼義・義家親子が安倍貞任を討つため奥州へ遠征した際、品川の海から海水を汲んで府中明神に戦勝を祈願したのが起源とされています。 今年の『くらやみ祭り』は、コロナ禍の影響で4

          品川道を歩き『くらやみ祭り』へ

          樋口一葉 ゆかりの地を訪ねて

          樋口則義と多喜は、親から結婚を許されず郷里の甲斐国山梨郡を出奔し、1857年江戸に出ます。 則義の父・八左衛門の友人で書調所勤番筆頭だった真下幸助の世話になり、使い走りの職を得ます。 苦節十年、1867年南町奉行所の平同心・浅井竹蔵から同心株を100両で買取り、30俵2人扶持の同心となり、南町の5番組与力・仁杉八右衛門の支配下に入ります。 しかし、翌年には江戸城無血開城がなされ、上野戦争では、旧幕府側の彰義隊が新政府軍に敗北します。 同年江戸開府事務が始まり、北町奉行

          樋口一葉 ゆかりの地を訪ねて