新たな道徳観と脱都市化について

 新型コロナウイルス猛威による社会の混乱が加速している。このウイルスの特徴は新型という名の通り、潜伏期間が長く、時に無症状であるがゆえ自身が意図せざる新たな感染源として存在してしまう点である。
 さらに感染による症状も比較的軽度な状態から重度な状態と幅が広い事が特徴であろう。また、比較的早い段階で指定感染症となり、結果的に無症状から軽症、中症そして重症と幅広い範囲の人々が医学的な隔離対象となってしまった。このことから医療資源枯渇を生じさせる様相を呈し、全社会的な影響を現前しているのは承知の事実であろう。
 このことの是非は後の歴史の評価に委ねるとして、結果的に社会的に必要な様々な活動が抑制されうる前提条件を構築してしまったことは、この新型コロナウイルスに向き合う上で必ず認識しておかなければならない。つまり新型コロナウイルスを未知のウイルスと同定し、かつ社会的に抑制しなければならないとの共通認識が我々の中に形成された。結果、一定の制限を我々が受忍すべき道徳という形で定着した。
 この定着した道徳から逸脱する行為に対して、我々は厳しい批判の視線を持ってしまったのである。ではこの定着した道徳とは何か。目に見えないウイルスに感染した人々が無症状から重症あるいは死と言う結果をもたらす先に得た道徳とは何か。その答えは人と人の交流に対する否定的な意味合いを内包する、現代社会において新たに出現した道徳感情であると言える。
 「家にいろ」に代表される言葉にはもちろん肯定的な要素も多いであろう。家族の絆や自分自身の価値基準を見つめ直すには絶好の機会とすらいえる。しかし、その根本にあるものは他者との交流に対する否定的な態度である。家族や仲間の一員がこの道徳を破り、他者と交流したとしよう。そして元の場所に戻ってきた者は必ず他者との交流によるウイルスの感染を周囲に惹起させる。そしてもはやその者は家族や仲間の元からはなれたものとして取り扱われる。
 この事が感染者に十字架を背負わせることとなり、不幸にして感染した者は、その行動容態によって批判的な視線を浴びる事となる。他方、指定感染症として社会的に構築された受難の場所、つまり救助すべき人々との交流が予定される医療機関に赴く人に対しては人々は篤志者としての視線を贈る。だからゆえに、その行為に準ずる人々に対して称賛を送ると同時に、他者との交流である救助に向かった「その場所」から帰還してきたその事実そのものに人々は恐怖を感じるのである。
 これは人類として、人々を救済しようと試みる、既存の道徳心と我々の中に発生した新しい道徳心との対立であると見ることができる。
 このような事から人々は人との交流に対して新たな視座の元に行動する事を余儀なくされる。1960年代以降に脈々と続いた都市化は今、究極の形相を呈してるといえる。東京オリンピックの開催年であり人との交流が最も活発な形で現れる予定であった2020年にこのような状態に陥ってしまったのは単なる歴史の偶然であろう。
 人との交流に否定的な視線を持ってしまった人々は、同時に人の交流をエネルギーにする都市という存在に対しても同様の視線を持ってしまったと言える。この事は人との交流が最も濃密な欲望として現れる歓楽街において最も顕著に現れている。交流に対して否定的な眼差しを持った年の人びとは再び自由な交流へと回帰するのであろうか。
 私はそうは考えていない、そうではなく新たな交流の形を模索するのではないか。人と人の直接的交流ではなく、自身の内側と外側に明確な防壁を構築した先に存在する人と人の交流を求めるのではないか。であるとするならば、その交流の様式として人は都市に拘束される事はなく、明確に隔てた物理的な場所を求めるのではないか。かくして次なる交流を実践する場所は都市である必要は無い。
 都市とは人の交流と言う情報空間で成り立っている。そしてそれらの情報空間ともう一つの機能的空間、つまり都市を実際に支えてる動力機関としての空間である。情報空間と動力空間の両輪によって都市はその機能を都市として維持しているといえる。
 現在の都市機能はそのいずれかが欠けても成り立たない。ではその一部である情報空間は本当に都市の中のみにしかし存在し得ないのであろうか。あるいは、あえて都市の中に置くべきものなのであろうか。同時にその動力空間も現在の都市を支えてる人々でしか機関を駆動することが出来ないのであろうか。つまり、都市の情報空間と動力空間を分離す事は本当に不可能なのであろうか。さらにそこから動力機関を駆動させる動力源の人は現在都市に住む人々が担わなければならないのかとの根本的な問いが生まれる。
 人々が生み出した新たな人と人の交流に対する道徳感はこの都市に対する根本的な問いに対して一つの指針を与えるかもしれない。それは情報空間の脱都市化であり、更に動力空間を担っている人の脱都市化である。都市は都市と言う機能をその存在において客体化され、都市を客観視する存在によってのみ維持可能な構造に変革するのではないか。つまり、既存の人々が都市に対する存在意義に疑問を感じた時、情報空間の担い手しての人の交流が転移し、動力源である人的資源もまた転移する。都市はその機能を維持するために情報空間を外部に求め、動力源である人の総入れ替えが予定されうるのではないか。
 都市とは集積回路のような側面を持っているといえる。情報を処理し新たな情報を生み出し、励起しつつ発信し続ける。そしてその動力源は常に供給され続けて消費されていく。現代都市に住まう人々ではもはやその膨大な処理機能の担い手としての限界点に来ているのではないか。言い換えれば究極に都市化した現代都市において我々はすでに疲弊し、もうこれ以上都市を維持する能力を喪失していると言える。
 今回の新型コロナウイルスによって措定された社会的な混乱は随所でその都市化、つまり、その場所においての都市化容態のままの限界点を顕在化させたといえる。このことは新たな産業構造転換点として、それは人と人の交流の在り方の根本的変容によってのみなしうる変革である。
 この変革はウイルスという未知の脅威なしにはこの変革は成し遂げられない。そして我々はウイルスを撲滅する事はできない。ウイルスと共存する道しか無いとすれば我々はこの変革を受け入れるしかないのである。この社会的な混乱の先にある変革を我々は我々の予定として人生組み込む必要がある。

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