自分の得意な方法を探る①
ちょっと、いつもとモードを変えて、書きます。
こないだ聞いた坂口恭平さんと宮台真司さんのお話が、すごくおもしろかったから、記憶の片隅にあった坂口さんの記事を読み返して、それを参考に、とりあえずやってみることにします。
この2つの記事はかなり長いので、僕が特に好きな部分はこの記事の最後に引用して載せました。最初にそっちに目を通すのもおすすめです。
本文
「とりあえずやってみる」とか「影響を受けてすぐにはじめてみる」みたいなことが、僕の得意なやり方なんだと思います。反対に、連載のコンセプトを決めて、タイトルを考えて、そうやってはじめたシリーズをコンセプトに沿った形で続けていく、みたいなことは結構苦手な気がします。すぐに何を書いていいかわからなくなったり、そもそも最初に定めたコンセプトに興味がわかなくなったりすることがほとんどです。(これまでも、5回もいかずに終わっているマガジンがいくつもあるのがそれを証明していると思う。)
今書き始めて気づいたのですが、けっこう自分はこうやって書いていると、集中できています。目の前のこれに、意識が全集中している感覚がある。これはめちゃくちゃ幸せなことだなと感じます。というのも、そういうことがないと、あれやこれや余計なことが頭の中に浮かんできて、しかもそういうのが行き着く先は、だいたい自分への不満だからです。
そもそも理想を高く持ちすぎている傾向があって、そっちが大元の要因だろうと思っているんだけど、なんかそこを変えに行くのはやや無理があるというか、少なくともこれまでそういう方向で何度もトライしたことはあるけど、すごく短期間しか効果が無くて(1日ももたないことがほとんど!)、今のところあんまりうまくいかない気がしています。ストレングスファインダーをやったとき、最上志向がかなり上位にあったりするし、その資質自体は悪いことじゃないから、うん、それをうまく使える出し方というか、流し方を考えたい。
うん、書くことは楽しいな、と今もまた噛みしめています。いつもはこういうスタイルは自分だけが見れるノートにペンで書きます。こんなでたらめでまとまっていなくて、正直すぎるものをみんなに見せてしまうのは、恥ずかしかったのだと思います。いまだに恥ずかしさがなくなったかというとそんなことはないのですが、きれいに整った側面だけ出していくことの苦しさの方が勝ってきて、こうなっている感じがします。
そう、苦しさみたいなものをちゃんと感じているんだと気づいてきたのがここ最近で、「やっぱりきちんとするところはしなきゃだめだよなあ」、とある程度適合しようとしてきたんだけど、坂口さんとか見てるとそんなことでもないのかもしれないと希望を感じるし、腹の底の方に、全然合わせたくない!と言い張る自分がいて、というか、身体が ”きちんとする” 方向にうまく動かなくなっている。
それならまあ、この自分の身体になるべく合ったフォームで動いていく、生きていくことにトライしてみよう、というのが今日から始まった僕のでたらめマイプロジェクトです。自分で勝手にやっているだけだから、いつやめてもいいし、途中でお休みするのも自由だし、進めたければ寝ずに進めてもいい、と考えると、最高にのびのびと身体が動いてくる感覚がします。頭の方も、「え、本当にこんなやり方していいの?」とちょっとドキドキしながら、でも嬉しそうにしているのがよくわかります。はたから見たら、ちょっと躁みたいな感じもするなあと思います。誰かを巻き込み始めると、面倒なことになりそうなので、そこさえ気をつけていれば、躁でも何でも問題ないかなと考えています。
なんか、ちょっとずつでいいから、こういうことをしていきたいと思う。こういうことというのは、自分の世界を外に出していく感じ。それが誰かの世界とタッチしたり、響きあったり、してもしなくてもいいけど、せめて海に手紙を流しておくことはしておく、ということです。出してみるということは、同時に反発があったり、誰かに否定されることもあると思うんだけど、それはまだ怖いんだけど、まあでもそれも含めて出していく方が自分は楽だろうと今は思ってるから、こうしてみる。あくまでお試しだから、やっぱり違ったかもと思ったらすぐやめるだろうけど、そういう失敗がないと、なにが自分にフィットするのかもずっとわからないままだから、どういうふうになっていくかが楽しみ。
少しずつタイピングのペースが落ちてきた。まだまだ出したいことがたくさんある感じもするから、ゆるゆると続けてみて、満足するか疲れるかしたら終わりにしようと思う。
こないだ小さなお友達に誘われて上野でやってた古代メキシコ展に行ってきた。「祈り、畏れ、捧げた」というコピーがもうすごすぎて、サイトの色も完璧すぎて、めちゃくちゃいい仕事をしている人がいるなあと思った。
小さなお友達とそのお母さんの無邪気な楽しみ方を素敵だなあと思いながら、展示を見て回った。ヒスイとか、黒曜石とか、よくもまあこんな精巧に加工するなあと感心して、自分もこういうの作れたら楽しそうだなあと、まずは簡単に真似できそうなやつないかなーと、そういう視点で楽しんでいた。そうやって見ていた中で気になったのは、骨壺。写真は撮っていないけど、高さ40cm、直径10cmくらい(適当)の細長い円柱形で、側面に胡坐をかいた人がくっついている。説明難しいな。
骨壺として使うわけじゃないけど、これ作ったら楽しそうだなと思って帰ってきた。その翌日か翌々日くらいに、時間があったので家の近くの100均へ行って紙粘土を買ってさっそく真似事をはじめた。
当然のことながら頭でイメージしている通りには全然ならず、難しいな~となりながら、祖父のお葬式でもらって帰ってきたお花をちょっと埋め込んだりして、なかなか楽しい時間を過ごせた。ドライフラワーにする前にそのままくっつけているから、この先どんな風に枯れていくのか見るのが楽しみ。葬式で飾られていた花、というのには別に意味は込めていなくて、ただ身近にあったものでくっつけたかったからくっつけてみた。
骨壺といえば寺尾沙穂さんの「骨壺」という曲が好きで、というよりも寺尾沙穂の曲はだいたい全部好きなんだけど、7月にライブいけて本当によかったなと思う。いつ死ぬかわかんないから、いってみたいところには行けるうちにどんどん行っておく。
坂口さんの記事からの引用
いただいたお金は、その時に世界がいきいきしそうなこと、輝きが増すと思うことに使います。