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週報 vol.6 

みなさん、こんにちは。

8月は大崎下島をたくさんの人が訪れてくれて、その人たちとにぎやかに楽しく充実した時間を過ごすことができました。遠方からアクセスの悪い場所までわざわざ足を運んでくれるみんなに心からありがとうを伝えたいな、と感じます。

そんな日々の中で、突然祖父が亡くなったという報せが届いたこともあって、ちょっとドタバタした感じもあった8月後半でした。

今日はそのことを中心に、感じていることを率直に書いていきます。

祖父が亡くなってから2週間くらい経ちますが、僕自身は、今は特別大きな喪失感はありません。最初の2~3日は感情の波もかなりアップダウンがありましたが、その後は安定していて、葬儀の際も穏やかにいってらっしゃいと心の中で声をかけている自分がいました。

自分たちの肉体が生きている世界から彼がいなくなることに、淋しさを感じるものの、心の中で(イメージ的にはテレパシーに近いかもしれない)彼といつでも話すことができるし、絶対に彼が自分たちのことを見ている、と信じている(感じている?)ので、「もういない人」に変わったわけではない感覚を持っています。

どうしてかはわからないけど、むしろ以前より近くにいるような感じすらある。

特別何か宗教を信仰しているわけではありませんが、霊性への信仰、と呼べそうなものは自分の中に存在しているのだと思います。

祖父がなくなったと知った日、僕は彼と会話するための場所を勝手に作っていました。元々空き家で、6月から住んでいる家に残っていた足つきの囲碁盤の上に、注ぎ口が線香を差すのにぴったりな、これまた残っていたティーポットを置きました。その近くにアロマキャンドルを添えて、自分にとっての仏壇的な役割を果たしてくれる空間が完成していました。


こんなふうにして、時々そこで話しかけてみたりしていて、そうすると、彼に「悲しんでないで楽しくお前の人生を目一杯生きてこい」と言われている感じがしました。思い込みだと言われればそれまでなのですが、逆に死者がこの世界に生きている私たちに働きかけることは不可能であると論理的に証明することも無理があるんじゃないかなとも思うし、何はともあれ僕にとって意味のあるメッセージは、それとして存在している、ただそれだけだと受け取っています。(人生のすべての場面で客観的事実が必ずしも重要なわけではない、そうやって生きていたら受け取れない素敵なことがたくさんある、というのが僕の個人的な考え。)


ちょっと話が脱線してしまいましたが、ともかく、僕は自分に与えられた人生を思いっきり生きること、この生きている者同士としてコミュニケーションができるときに伝えたいことは毎度伝えきること、言葉にしてしまえば至極当たり前なことを、これまでと同様にやり続けようと、そんなふうに祖父の死を受け止めています。

生前、祖父に時々、若い頃の話を聴くことがありました。考えることや価値観の違いを感じて、それは生きてきた時代の違いが強く影響している気がしてみたり、時を経ても色あせることのない知恵をもらえたこともありました。

告別式で、喪主を務めていた伯父さんの挨拶でやけに印象に残っている言葉があります。

「父はいつも筋の通った人でした。」

今この言葉を眺めながら浮かんでくるのは、「道」です。自分なりの「道」を持っていた人だったのかな。歩んできた跡が道になるのかもしれないし、切り拓いていく道を見定めたり描いたりするのかもしれない。何をしててもいいけど、自分の道を歩む人でありたいなと思います。



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