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「日本人という『部外者』がアウシュヴィッツで得た気づき」2024年4月26日の日記

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・アウシュヴィッツ収容所を見学した日の感想を、当時書き残していたメモに基づいてまとめる。

・見学できる場所は収容所と、そこからバスで10分ほどかかる郊外のビルケナウの2つに分かれており、詳細な解説よりも「刮目せよ」といった屋外展示が多かったため、ガイドが先導するツアーへの参加客がほとんどだった。日本人ガイドの中谷さんに解説をお願いすることをおすすめする。

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・入場後、第一収容所に至るまでの道にそびえ立つ長い長い壁からは、犠牲者の名前の読み上げが延々と流れている。

・収容所の前の門には「Arbeit Macht Frei(働けば自由になる)」という文言が掲げられているが、実際に自由になったものはほとんどいなかった。

・収容され、働かされた者たちは男女問わず髪の毛をそられ、番号をつけて管理された。内部のシステムは非常に効率化されており、死体の処理や荷物の整理など、あらゆる肉体労働を任されたのは収容者たちで、食事と引き換えにに彼らを監視するのもまた収容者だった。

・脱走などを試みようとした際、すぐ見分けられるように青と白で色づけられた囚人服が、現在は抵抗を表すシンボルカラーとなっている。

・ある館には、収容所に入る前に「いらないもの」として没収された櫛やお椀、靴が展示されている区画もあった。女性の中には、抵抗を示すためハイヒールを履いてきた者もいたらしい。

・わずか3年前に持ち主が発見された靴。
親が子どもの名前を記名したのであろう靴が見つかったというニュースを知り、再婚した父親から聞かされていた昔の情報を頼りに、その靴を履いていたという持ち主が名乗りを上げた。

・ユダヤ人の定義は、当時ドイツ側が制定した「ニュルンベルク法」に基づいて分類されていた。そのため、収容された中には、ユダヤ人であるという自己認識がない者もいた。

・また、障がい者も迫害の対象となっていた。
第一次世界大戦後、経済的にも圧迫され、流行病の被害も受けていたドイツは、不況に至った責任を優性思想に基づき障がい者に押しつけた。
排除の影には、当時世界からの評価も高かった医師たちがいた。
文化的にも、医学的にも優れていたドイツは、その後相手を尊重する「人権」を軽視してはいけなかったと猛省し、現在もポーランドに位置するこの収容所の維持費の大部分を支払っているのはドイツだという。

収容所のほとんどは
「階段」の昇降を前提としている


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・「アウシュヴィッツを見に行くのだ」というと、チューターのリリー(仮名)が「とても意義のあることだと思うけれど、わたしにとっては精神的な負担が大きくて行けない」と言われた。
しかし、わたし自身も「日本人観光客であるわたしが、ここに行って良いのだろうか、何かを得ることが出来るのだろうか」という不安を抱えていた。
唯一の公認日本人ガイドである中谷さんもまた、ガイドを目指す勉強中に「部外者」に対する敵意の視線を何度も浴びたと、新聞からの取材に答えていた。

・収容所の展示を見ていると、つい「ドイツ/ヒトラー=悪」という一辺倒の図式に傾倒してしまいがちだが、中谷さんは度々、この惨劇は突発的なものではなくドイツの苦しい社会情勢が発端で、責任をドイツだけに押しつけてはいけないと強調した。

・また「困難な情勢から人々が排他的になる」という状況はコロナウイルスの蔓延当時にも共通しており、数年前はコロナ患者を糾弾し、隔離する人もいれば「次に自分がかかったらどうしよう」という社会的な不安を抱えていた傍観者が大勢いた。そのため、アウシュヴィッツをめぐる問題においても「排除の矛先が自国に向いたらどうしよう」という不安の中、止めることが出来なかった国が多かったのだろうと話していた。

・原爆ドームで被爆体験を聞く時など、どうしてもわたしたちは被害者側の意見に傾倒し、鵜呑みにしてしまいがちである。
日本人という「部外者」だからこそ、この出来事を俯瞰して分析することができるのだと教えてくれた。

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ガス室

・迫害された人々はアウシュヴィッツに連行された後、医師の判断の下、ガス室と収容所へ続く道を歩いた。
収容所がフォーカスされがちだが、実際は連行されてすぐにガス室へ向かったのが90万人、収容所で労働を強いられたのが40万人。
多くの者は連行されて間もなくガス室で亡くなり、生還したのは収容所の労働者のうち10%ほどだったという。

・ガス室に連行された人々は、まず看守から「シャワーを浴びるため」といって裸にさせられ、頭上に空いた穴からチクロンBという殺虫剤を流されて殺害された。
隣は焼却炉となっており、死体の処理を担ったのは同胞のユダヤ人だった。

・ガス室で起こった出来事は物理的には漏れていないものの、収容所の隣にあったため噂は流れており、被害者の苦しみは「地面が揺れる」ほどだったという。

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ビルケナウ博物館

・アウシュヴィッツから生還した者は、帰還後の目標や意志、生命力が強い人が多く、その中でも「二度三度奇跡が重なった」と述べたそうだ。

・偶然撮影された、人々をガス室か収容所に分類する「選別」の様子。
博物館にはいくつか写真が残っているが、この地で行われていたこと自体が極秘事項の塊だったため、多くが統制と監視の下、支配者側から撮影された写真であることを忘れてはいけない。

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・見学ツアーに参加して、印象的だった学びは大きく分けて3点ある。

・まず、部外者の視点の大切さだ。
事件の当事者ではない、共感しにくい立場だからこそ、物事を俯瞰的に捉える重要性を教わった。

・次に、現地に来て知ることの意味。
文字として「収容所には○○足の靴があり~」などという事実を見ても、やはり現地に来ることでしか得られないものがある。

・最後に、相手を尊重する「人権」を軽視してはいけないということ。
どれだけ文化的に優れた功績を残していても、相手を対等な存在として見る心がなければ、社会は成り立たない。

・知って満足で終わらない、これからの人生で何度も、ふと戻ってくるような問いを投げかけられる、そんなツアーだった。

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