どこまでを見据えて指導をしているか(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた④)

英語教師のKirtzです。約15年目の現職英語教師が、今年度、科目等履修生として国語科教育法(中等)を受講しています。

先日の国語科教育法の授業では、書写の指導内容に話題が至りました。書写とは何ぞや、と完全に何も分からない私にとって、この話題について考えたり、他の学生さんたちと意見交換して考えを深めていくのは、これ以上ない新鮮で刺激的な経験となりました。

他の学生さんたちとの議論の中で、またまた新たな気付きを得て、視野が広がる経験をしました。まだ自分の中でも十分に整理ができていないのでうまく伝わらないと思いますが、私自身の整理として共有させていただきます。

書写:字形を整えること

この日の授業では、中学書写の授業において「書」という字の字形を整えて書くことを扱うという設定。字形を整える際の要件を見出し、それらを教える方法を考えるという課題でした。

完全な素人の自分にとっては「そもそも書写なんてお手本を見て真似て書く以外に何かあるの?」という状態からのスタートでしたが、それだけに新鮮な発見に溢れる授業でした。

まず整った字形には様々な要件があることを知りました。中心線の意識、画の角度、線と線の間隔、上下のバランス、そして外形などなど。また、中学の書写では「読みやすさ」や「書くスピード」も求める要件になると知りました。同じグループの中には書道専攻の学生さんもいて、彼女たちからは「書く線のことでなく、余白の形を意識すると整えやすい」というアドバイスを教えていただきました。

さて、授業の課題としては、何か一つの字形の要件を取り上げて、それを教える方法を考えるという内容だったので、私たちのグループは「外形」を取り上げることとしました。「書」という字の外形は「縦長の長方形」であるということを皆で確認し、それを実際の授業の中にどう落とし込むかということを考えました。

何を教えようとしているのか

ここで一つ大きな疑問にぶつかります。我々は、何を教えようとしているのでしょうか。今、私たちは「縦長の長方形」という外形を生徒に理解させる術を模索しています。何のために、でしょうか。

私は、率直に他の学生さん達に聞いてみました。
「書」という字を整えて書くために「縦長の長方形」という「字形」に目を向けさせているのか。
それとも、「書」の書き方を通して、「縦長の長方形」の字形を整えて書くことを学ばせ、他の「縦長の長方形」の字を書く際にも、これを応用できるように指導するのでしょうか。

問いかけた私自身の意図としては、もちろん答えは後者であり、目的目標を明確にしておくことは、グループで指導法を考えていく際に明確にしておく必要があると思っていました。

何か一つの知識・技能を扱う際には、そこで学んだ知識・技能を他の状況でも応用できるようになることを目標とするはずです。例えば(あまりに細かい例となってしまいますが)英語でstudyという単語の過去形の綴りを学ぶとき、<子音字+y>で終わる語は<yをiに変えてedをつける>というルールを教えます。当たり前ですが、このルールはstudy→studiedだけに当てはまるものではなく、<子音字+y>で終わる他の語にも当てはまるものであり、tryやcryという語を変化させるときにもこのルールが適応できるように指導(練習)します。

今回の書写の授業でも、「書」という一字のみを教えているのではなく、「書」という「教材」を扱うことで、他の「縦長の字形」をもつ字を書く際に応用できる知識・技能を身につけさせることを念頭に置いているはずです。その目的・目標を明確に考えて指導法を考えるべき。そう考えました。

とある学生さんの一言

そんな話をしている最中に、書道専攻の学生さんがポツリと呟いた一言は、私の教育観・授業観を揺さぶるものとなりました。

「というか、『外形って大事なんだな』と気付かせたい」

その発想は、私にはありませんでした。
衝撃を受けました。

私が何に衝撃を受けたか。文字にするとどうしても伝わりにくいのですが、要するに、この学生さんは私よりもはるか遠くを見据えて「指導」を考えていたのです

私は、一つの字だけを教えているのではなく、似たようなグループの字を書くときに同じように留意して書けるように、という目標設定でした。その次元で満足していました。

彼女は、それよりも大きな目標を見据えていました。どんな字を書く時にも、外形に着目することが大切だということに気付かせたい、と。

私は、字を書くときに「外形」にこだわって書こうなどとは思ったこともありません。そこに着目することを知らなかったのです。もし、小学校や中学校の書写にもっとまじめに取り組んで、「外形」への着目が習慣として身についていたら、もっと達筆になっていたかもしれません。

どこまでを見据えて、どの次元までを見て指導しているか

先ほど、studyの過去形と「<子音字+y>で終わる語は<yをiに変えてedをつける>というルール」を挙げました。私が<子音字+y>に着目するように指導しようといったレベルで考えていたところ、この学生は例えるなら「単語の語尾に着目することは大事なんだ」ということを生徒に気付かせようとしていた。例えとして適切ではないかもしれませんが、それに近い感覚の新鮮な気付きを得られました。

我々英語教師は、場合によって過去形と現在完了の使い分けのようなことを指導するでしょう。現在形と現在進行形の使い分けを指導することもあります。その際に考えていることは、もちろんその時たまたま出てきた "I run in the park (every morning)." と "I am running in the park (now)." の違いだけでなく、別の文(状況)においても現在形を使うべきか現在進行形を使うべきか、その判断を怠らないように、また誤らないように、といった指導をすることでしょう。

では、「そもそも英語を使うときは、動詞の形に気を付けることが大切だよ」ということは、どこまで強調できているでしょうか。いや、我々がいかに強調していようと、その気付きが「習慣」として、どこまで生徒に根付いているでしょうか。

我々教師は、何を教えているのでしょうか。

目の前のstudyという動詞の過去形を正しく書けること?
同じルールがcryやtryにも当てはまるから、<子音字+y>という綴りには注意しよう、ということ?
それとも、語形変化の際には単語の語尾に着目するのが大事だということ?

現在形と現在進行形の違い?
それとも、そもそも英語を産出する時には、動詞の形に気を付けよう、ということ?

今日の授業では「縦長の外形」を持つ字をきれいに書けるように指導しよう。それもいいでしょう。もしかしたら、来週は「正方形の外形」を持つ字を練習するかも知れません。
でも、その結果、生徒たちは、字を書くときに、無意識に「外形」を意識して書くようになるでしょうか。そんな習慣を植え付ける指導ができているでしょうか。

どの次元までを意識して指導するか。
目の前の問題、目の前の課題を克服させることばかりに意識が行ってしまい、最終的なゴールを見落としがちなのではないでしょうか。常に、もう一つ上の次元を意識して指導計画を考えたいものです。

長くなりました。最後までお読みいただきありがとうございます。少しでも、何かしらの参考になれば幸いです。

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