土台形成か棲み分けか:国語科と英語科の「書くこと」の指導(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた⑫)

前回の投稿で、国語科教育法における「書くこと」の指導が、英語教師である私が思い浮かべていたものとはだいぶ違ったという趣旨のことを書きました。「どうして国語科できちんと論理的な書き方を指導してくれないんだ!」と不満を募らせる代わりに、ちょっと見方を変えて考えてみました。

英語科のessay writing指導

英語科のライティング指導をここで一言でまとめるのは困難ですが、essay writingに関して言えば、語彙や表現の習得はもちろんのことですが、論理的な文章の書き方を主に指導しているのではないでしょうか。トピックセンテンス(thesis statement)の立て方、支持文(supporting sentences)の加え方、それらを適切な論理を示す表現でつなげる方法、これらの指導がessay writing 101といったところになるでしょう。

論理的な文章を書くことの指導

英語に特有な表現や構成はさておき、自らの意見をサポートする理由や具体例を表現すること、論理構成を発展させて説得力を高めること、これらは英語でのライティングに特有のものではないはずです。

確かに英語と日本語では文化が異なり、論理構成や文章スキーマの違いはありますが、それでもやはり、例えば大学生が(日本語)レポートの書き方としてアカデミックライティングを学ぶように、論理的な文章の勘所というのは固有の言語の枠を超えるはずです。

そしてこれらは、母語だから自然とできるようになるというものではないはずです。初等・中等・高等教育において、段階的体系的に指導がなされるべき技能であるはずです。

それにもかかわらず、国語科教育法の授業で取り上げられた「書くこと」の授業が、こうした「書き方」の指導というよりは、どちらかと言うと「批評の仕方」、一般化するなら「思考法」のようなものであったということは、それなりに示唆的でした。

「書くこと」におけるプロセスのモデル

試しに、「書くこと」におけるプロセスをモデル化してみました。こんなものは当然、学術的により適切なものがいくらでもあるのでしょうが、今調べている時間がないので、自分で考えた大雑把なものを用います。

「書くこと」におけるプロセスのモデル

題材や課題が与えられ、それについて思考し(①)、思考した結果を論理的に読み手に分かりやすく表現し(②)、その結果文章という成果物が生成される。本来は一方向でなく回帰的なプロセスであるはずですが、ここでは簡略化して考えます。

英語科で指導したいこと

英語科のessay writingの指導では、主に②の表現に焦点を当てていると言えます。もちろん①の思考も大切ですが、少なくともwritingの授業という中では、そこにあまり多くを割きません。前回投稿での批評文の作成を、もしも英語(論理表現)の授業でやったなら、いつまでも批評の観点で悩んでいる生徒がいたら、「批評の内容はパッと決めて、早く書き始めてみよう!」なんて声かけをしてしまうかもしれません。観点や内容の候補は、早々に教師側から提示してしまうこともあるかもしれません。

英語科で行うessay writingでは(少なくとも中高の現場で扱うようなものは)、書く内容については予め大枠が決まっていること、あるいは内容について思考するのにそんなに時間と労力がかからないものを扱い、それをいかに論理的に分かりやすく表現するか(②)を指導していると思います。そして、その論理性を持った文章作成が、母語でも満足にできていない生徒を見て、「母語でまずできるようになっておいてよ」と嘆いてしまうのです。

モデル中の②思考について、まずは母語となる日本語(国語)で論理的な文章構成や文章技術を身につけ、それを確固たる土台として英語のessay writingに取り組んでくれたらな、というのが、英語科の(と言ったら主語が大きすぎますね。これまでの私の)思いです。

国語科の「書くこと」の指導

「国語科が②表現の土台作りを担ってくれていたらなぁ」という思いを持った私が、国語教育法の授業で「書くこと」の指導として目にしたものは、①思考に焦点を当てたものでした。もちろんこれも、国語科全体がこれに終始していると過度な一般化をするわけにはいきませんが、教科教育法の授業で取り上げられた取り組みですから、最大公約数から大きくかけ離れたものではないと認識しています。

「書くこと」を主なテーマとした授業において、①思考(批評の仕方、観点の立て方、考え方)の方に重きを置き、その思考の結果をいかに表現するか(②表現)の指導の様子があまり垣間見ることができなかった。そのことを受けて、私は率直に、「②表現の指導を、国語科でもちゃんとやってよ。国語科で土台を築いてくれないと、英語科が困るんだよ」と思ってしまったのです。

「棲み分け」という考え方

さて、国語科に対して不満をぶつけているような書きっぷりになってしまいましたが、本稿の意図はそこにありません。ここでふと立ち止まって、考え方を変えてみました。

「英語のessay writingに臨む際の土台形成として、国語科で②表現の部分の言語技術をもっと扱ってくれよ」というのがこれまでの私の主訴でしたが、では仮に、もしも国語科がもっと②表現の部分を担ってくれたとして、その結果、①思考の指導がおろそかになってしまったら、どうなってしまうでしょうか。

答えは明白です。「何を書けばいいか分からない」と言って、筆が止まってしまう生徒が増えます。

それこそ、英語科は本当に困ってしまうのではないでしょうか。

国語科(や他教科)で、ある程度の①思考を身につけてくれているからこそ、英語科のessay writingでは②表現に集中して指導ができます。英語科がhow to write (logically / clearly / convincingly) の指導に集中できるのは、①に相当するwhat to write about や how to think about it の指導にそこまでの労を割かなくてよいからではないでしょうか。

そう考えると、国語科は言葉を用いた深い思考を扱うべく①思考に焦点を当て、英語科は②表現に集中して指導する、という「棲み分け」という考え方もできます。

国語科で培った文章表現・言語技術を「土台」として英語科の指導を考えるべきか、それとも国語科と英語科の指導事項は「棲み分け」るべきなのか。

我ながら、かなり深いテーマだと思います。国語科の先生方、英語科の先生方、その他の教育に携わる方々、教育業界の外の方々、それぞれどう思われますか?

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