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年間第4主日(B年)の説教

マルコ1章 21~28節

◆ 説教の本文

〇 今日の福音朗読、「イエスが悪霊を追い出す」出来事は、マルコ福音書における、最初の「イエスの力ある業」です。 今日の福音で語られる出来事は、イエスの生涯の事業の目的、人間への働きかけのスタイルを示しています。

〇 「人々はその(イエスの)教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

イエス様の話し方(教え方)は聞いた人々に、今までとは違うものとして響きました。当時のユダヤ教の学者たちは「ラビ・ヒルレルはこう言った」「 一方、ラビ・シャンマイはこう言っている」「 これを考え合わせるとこう考えるのが正しい」という話し方をしたようです。つまり迂回した話し方です。
一方、イエスの教え方はもっとストレートでした。誰々はこう言ったと、他人の意見を迂回せずに、真っ直ぐに自分のビジョンを語られました。
しかし、それだけなら、なぜか自信たっぷりな、独善的な人物に聞こえたでしょう。イエスは御父の権威を元に、御父の権威と共に教えられたのです。

「 私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」 (ヨハネ12章49節)

〇 私は東京教区の晴佐久神父の説教を一度聞いたことがあります。
「権威ある者としてお教えになった」イエスの説教はこういう感じを人々に与えたのかと思わせるものでした。

彼はこう言いました。「皆さん、いろいろ大変だったでしょう。しかし、教会に来られたからにはもう大丈夫です。何も心配することはありません。」

こういう説教はカトリック教会では初めて聞いたのですが、私には非常に新鮮に響きました。「大丈夫です」の根拠は具体的語られませんでした( 語りようがないでしょう)。しかし、この言葉は権威を持って語られました。神父の確信を語っただけではなく、イエスの権威をもとに語られたと思います。
彼は福音宣教ではなく、福音宣言だと言います。晴佐久神父の元では非常に多くの受洗者が出たのですが、その理由が分かったような気がしました。

私自身はこのタイプの説教は滅多にしません。私の説教はもっと迂回して結論に達するタイプのものです。つまり、弁証法的(dialectic)、議論的(argumentative)なのです。
ミサの説教としては、晴佐久神父の方が本格的だろうと思います。

では、私がなぜこういうタイプの説教をしないかと問われると困るんですが、そういう資質ではないとしか言いようがない。負け惜しみを言いますと、毎週こういう説教では、信者は信仰を維持するのは難しいかもしれないと思いました。

〇 「そのとき、この会堂に汚れた霊に取り憑かれた男がいて叫んだ。」

この出来事においては、彼らファリサイ派や律法学者たちはまだ姿を現していません (彼らは2章から出てきます)。なぜ私がこれをわざわざ言うかというと、福音書の中にはファリサイ派や律法学者がしょっちゅう姿を現して、イエス様の邪魔をするからです。そこで、私たちは律法学者やファリサイ派こそが諸悪の根源であるという印象を持ちやすいのです。神の子が人となって、地上に来られたのは律法学者をやっつけるためであったかのように思いがちです。

ファリサイ派的な問題は確かに深刻なものです( 別の機会に話します)。しかし、本当の問題は汚れた霊、「悪霊」なのです( これについても 別の機会にもっと詳しく話します)。イエス様が戦おうとした本当の敵はその力でした。
ファリサイ的な問題は二次的、発生的です。イエス様が悪の力と戦おうとしたときに、その邪魔をしようと現れるものです。また、ファリサイ的なものは極めて人間的ですが、悪の力は宇宙的なものです。

マルコ福音書は、イエス様の公的活動の最初にこの出来事を置くことによって、イエス様が立ち向かれた相手、そのために十字架の道を歩むことになった相手は、単に人間的なものではなく、宇宙的な力(cosmic power)であることを示していると思います。

〇 「イエスが『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行った。」

なぜ私たちはファリサイ派に注目するのか。ファリサイ派の弱点(形式主義)は結局、人間的なものであるので、人間が努力すれば、もっと柔軟になれば 解決しそうな気がするからではないでしょうか。
しかし、人間の引き起こすトラブルは単に人間なものではありません。
パレスチナとイスラエルの争いを見ると分かるのではないでしょうか。そう思います。確かに、そこには人間の頑固さ、残酷さが大きく関わっているでしょう。しかし、人間の頑固さ、残酷さを利用しようとする超自然的な悪の力が働いているから、争いが絶望的に紛糾するのです。
そうだとすれば、解決を求めるためには、人間的な努力、対話や相互理解の努力をするだけではなく、そこに働く「汚れた霊」を追い出すことが必要です。つまり、イエス様に「 黙れ。この人(たち)から出て行け 」と力強く命じていただくことが必要です。

パレスチナの紛争は絶望的に紛糾しています。遠い日本の私たちだけではなく、世界中の人々が無力を感じているでしょう。しかし、イエス様に来ていただき、力強く悪霊を追い出してくださるように祈ることはできるのです。

「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」
                              (了)