来住英俊神父

カトリックの司祭(御受難修道会)です。 宝塚市にある修道院で宣教司牧、執筆活動をしてい…

来住英俊神父

カトリックの司祭(御受難修道会)です。 宝塚市にある修道院で宣教司牧、執筆活動をしています。 司祭職の醍醐味は、主日(日曜日)のミサにおける信徒に対する説教です。 説教を掲載します(代理投稿)。 プロフィール写真出典:キリスト新聞社

最近の記事

復活節第4主日(B年)の説教

◎ ヨハネ10章 11~18節 ◆ 説教の本文 〇 ヨハネの10章には、羊飼いの喩えが集められています。 典礼暦では、これをA年(1~10節)・B 年・C 年 (27~30節)に分けて読むようになっています。今年はB年(11~18節)です。 〇 ヨハネの福音書は、他の3つの福音書(総称して共観福音書) とはかなり違いがあります。 1つは地理的なことです。共観福音書では、イエスは公的活動のほとんどをガリラヤで送られます。生涯の最後の短い時期にエルサレムに入って、そこで十字

    • 復活節第3主日(B年)の説教

      ◎ルカ24章35~48節 ◆説教の本文 「 メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」 〇 エルサレムは、イエスの救いの働きの完成される場所です。イエスの地上での生涯の旅路は、エルサレムに終わるのです。 どの福音書でも、エルサレムはイエスの十字架の立つ場所です。 しかし、ルカ福音書は四つの福音書の中でも、救いの業における「エルサレムの中心性」を最も強調しています。 ルカ

      • 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)(B年)の説教

        ◎ ヨハネ20章19~31節 ◆説教の本文 〇「弟子たちは、(復活された)主を見て喜んだ。」 今日読まれるヨハネ福音書は、復活の主日の「夕方」の出来事です。偉大なる復活徹夜祭と、復活の主日の「朝」のミサの福音朗読には、復活されたイエスの姿は出てこないのです。 そこで語られるのは、弟子たち(女性)がイエスの遺骸に敬愛を表するために香油を塗りに墓に行ったところ、「墓は空であった」ということだけです。 何か偉大なこと、人間の今持っているビジョンを超えたことが起こったという感覚

        • 聖金曜日の説教(の代わり)です。

          聖金曜日(B年)の説教前の考察 ◎イザヤ52章13節~53章12節 ◎ヨハネ 18章1節~19章42節 ◆ 説教の本文 〇 この考察は、聖金曜日の福音書朗読の前に読まれることを前提にしています。今年はもう間に合わないわけですが、来年の聖金曜日の参考にしてください。 〇 聖金曜日のミサ典礼書のルブリカ(注記)には、福音朗読の後、「必要があれば短い説教をすることができる」とあります。説教はいつでも短い方が良いと思う人もあるでしょうが、この場合は、短い方がいいではなくて、短

        復活節第4主日(B年)の説教

          受難の主日(枝の主日)の説教(B年)

          ◎マルコ11章1~10節 ◎マルコ15章1~39節 ◆説教の本文 〇 今日のミサでは、受難の朗読に大きなスペースが割かれ、三つの公式祈願も主の受難についてです。しかし、典礼暦的に見れば、今日のミサの中心は、イエスの「エルサレム入城」です。 主の受難を正面から扱うのは聖金曜日です(主の受難の典礼)。今日の長い受難の朗読は、聖金曜日の予習です。 〇 「前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。」 典礼暦の真髄は、「今年、新たに

          受難の主日(枝の主日)の説教(B年)

          四旬節第5主日(B年)の説教

          ◎ヨハネ12章20~33節 ◆説教の本文 〇「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 1970年代に中南米で興った「解放の神学」を唱導する人々は「イエスは殺されたのだ」ということを強調しました。つまり、イエスは人間社会に正義と平和をもたらすために来られた。精力的にその活動をしているうちに、権力者たち( 政治的・宗教的)に憎まれ、その結果、彼らに「殺された」のだという意味です。 中南米の過酷な政治的・経済的抑圧の中に生きて

          四旬節第5主日(B年)の説教

          四旬節第4主日(B年)の説教

          ◎ エフェソ第2章4~10節 ◎ ヨハネ3章14~21節 ◆ 説教の本文 〇「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」 レビ記の21章(4~9節) にある出来事を踏まえています。イスラエルが40年間、荒れ野を放浪している途中、神の怒りをかう行いがあって、疫病に打たれたことがあります。 しかし、神ご自身が、神の怒りを逃れる方法を示して下さいました。「青銅の蛇を作って、旗竿の上に掲げよ。それを見つめれば疫病は去る」 モーセがその通りにしたら、疫病は

          四旬節第4主日(B年)の説教

          四旬節第3主日(B年)の説教

          ◎ ヨハネ 2章 13~25節 ◆ 説教の本文 〇「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒し‐‐‐」 「神殿浄め」と呼ばれる出来事です。共観福音書にも記事がありますが、イエスの活動の最終段階に置かれています。ヨハネ福音書では活動の始めに置かれています。 何年も前のことですが、私の友人(修道女) がこの記事を読んで、こういう感想を述べました。「イエスさまが、小さな商売をしている庶民を暴力的に追い出すことには違和感がある。

          四旬節第3主日(B年)の説教

          四旬節第2主日(B年)の説教

          ◎ マルコ 9章2~10節 ◆説教の本文 〇 四旬節の第2主日には、毎年、ご変容の場面が読まれます。 今年はB年ですから、マルコ福音書です。一方、典礼暦には「ご変容の祝日」(8月6日)が別にあります。福音朗読は全く同じです。 ということは、それぞれの重点はどこにあるかを考えようということになります。ご変容の祝日は、神の国の栄光をあらかじめ仰ぎ見るというところに重点があります。合わせて読まれる第一朗読は ダニエル書7章の終末的な「人の子」の到来です。 〇 それに対して、四

          四旬節第2主日(B年)の説教

          四旬節第1主日(B年)の説教

          ◎ マルコ1章12~15節 ◆ 説教の本文 〇 イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。 「あなたは私の愛する子 、私の心に適う者」という天からの声を聞いて、イエスはご自分の使命を自覚されたでしょう。しかし、イエスは意気込んで、すぐに宣教に向かわれませんでした。荒れ野に退き、そこで40日間を過ごされました。40はシンボリックな数字です。人間が深い変容を遂げるのに必要な時間という意味です。 〇「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。」 ある聖書には、「霊

          四旬節第1主日(B年)の説教

          年間第6主日(B年)の説教

          ◎マルコ1章40~45節 ◆ 説教の本文 〇 今日の福音朗読は二つの部分に分けることができます。 最初に、イエスは重い皮膚病と対決します。次に、その戦いが一応成功裏に終わった後、起こる問題があります。 病が癒されることは間違いなく良いことであるはずです。しかし同時に、また問題も引き起こします。それはイエスの「神の国」の宣教を阻害するものです。まず、第ニの部分を取り上げましょう。 〇「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」 重い皮膚病が

          年間第6主日(B年)の説教

          年間第5主日(B年)の説教

          ◎ マルコ 1章29~39節 ◆ 説教の本文 「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」 〇「キリストに倣いて」という 霊的著作の古典がありますが、私たちキリスト者はキリストのなさることに倣うことを求められています。 この家で、イエスは「何をなさった」でしょうか。 熱病を癒すことではありません。イエスは「彼女のそばに行かれた」のです。そして、彼女の「手を取って起こされた」のです。 熱が去ったことは単なる結果にすぎないというのは

          年間第5主日(B年)の説教

          年間第4主日(B年)の説教

          ◎マルコ1章 21~28節 ◆ 説教の本文 〇 今日の福音朗読、「イエスが悪霊を追い出す」出来事は、マルコ福音書における、最初の「イエスの力ある業」です。 今日の福音で語られる出来事は、イエスの生涯の事業の目的、人間への働きかけのスタイルを示しています。 〇 「人々はその(イエスの)教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」 イエス様の話し方(教え方)は聞いた人々に、今までとは違うものとして響きました。当時のユダヤ教の学

          年間第4主日(B年)の説教

          年間第3主日(神のことばの主日)(B年)の説教

          ◎マルコ1章14~20節 ◆説教の本文 私たちは福音書を読む時、イエスのなさることよりも、人間(弟子たち)がすることに興味を持つようです。 しかし、福音書はまず、イエス・キリストについて語ろうとしています。人間の行動は、多くの場合、イエスの行動(働きかけ)に対する応答、もしくは反応なのです。イエスの行動や言葉を深く理解しようとしてこそ、弟子たちや民衆の応答(反応)も理解できるでしょう。 「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で

          年間第3主日(神のことばの主日)(B年)の説教

          年間第2主日(B年)の説教

          ◎ ヨハネ1章35-42節 ◆ 説教の本文 〇 次の主日の福音朗読は、マルコの福音書の召命物語(マルコ1章16~20節)ですが、それに先立って、今日はヨハネの福音書による弟子の召命が読まれます。 マルコの語る召命物語の構造は非常に簡単です。 「イエスは呼びかけられた」 「弟子たちはその呼びかけに従った」、ただそれだけです。非現実的なようですが、ある意味で、私たちの経験に合致しています。実際の出来事が単純で、短時間に起こったという意味ではありません。その過程をトコトン突き

          年間第2主日(B年)の説教

          主の公現の祭日(B年)の説教【改訂版】

          ◎マタイ2章1~12節 ◆説教の本文 〇 福音書には、イエスの誕生に関する記事が二カ所あります。 降誕祭には、ルカの2章が読まれます。この出来事記は、ごくローカルな狭い空間(ベツレヘムとその近郊)の中で描かれます。親密な雰囲気です。それだけに逆に、宇宙的な広がりを持っています(天使の大群)。 もう1つは、今日読まれるマタイ福音書の2章です。誕生の出来事は、遠い東の国から始まる 広い空間の中、時間の中で語られます。 私たち人間が空間と時間の中を動き回りながら、神(イエス)

          主の公現の祭日(B年)の説教【改訂版】