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受難の主日(枝の主日)の説教(B年)

マルコ11章1~10節
マルコ15章1~39節

◆説教の本文

〇 今日のミサでは、受難の朗読に大きなスペースが割かれ、三つの公式祈願も主の受難についてです。しかし、典礼暦的に見れば、今日のミサの中心は、イエスの「エルサレム入城」です。
主の受難を正面から扱うのは聖金曜日です(主の受難の典礼)。今日の長い受難の朗読は、聖金曜日の予習です。

〇 「前を行く者も後に従う者も叫んだ。ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。」

典礼暦の真髄は、「今年、新たに」というところにあります。今年の枝の主日に、私たちは、「 今年、新たに」イエスに従って、エルサレムに入るのです。 エルサレムは、イエスの十字架の立つところです。イエスが苦しみを全身で引き受けられた町です。その町に、今日、私たちは入っていくのです。

イエスの受難と十字架は歴史の中で、一回限りのものです。ヘブライ書簡に、「イエスはご自身を献げることによって、ただ一度でこれ(人類の救い)を成し遂げられた」とあります。

しかし、私たちは愚かで心の頑なな者たちなので、イエスの救いの業の大きさ、高さ、深さを一度で理解することは、とてもできません。薄紙を剥がすようにという表現がありますが、少しずつ少しずつ、その神秘の中に入っていかなければならないのです。
聖パウロはエフェソ書簡の中で、私たちが「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ように祈っています( 3章8節)。

また、少しずつ少しずつというのは、思いついた時にやるのでは効果が薄いのです。定期的でなければならない。典礼暦は、1年に1回、救いの神秘の中にもう一歩、深く降りていこうとするものです。今日、イエスと共に、典礼的に、エルサレムに入ることによって、去年よりもう一歩深く、救いの神秘を理解することができるように願っています。

〇 去年の聖週間からの1年を振り返ると、皆さんの生活、身の回りが平穏、あるいは上昇気流にあった人もいるでしょう。しかし、「人が一緒に生きていくことは、どうしてこんなにも難しいのか」としばしば慨嘆した人もあるのではないでしょうか。「状況が紛糾しているのではない。欲望が紛糾しているのだ」という言葉があります。互いの激しい憎悪がぶつかり合っているというよりは、それぞれの抱いている欲望(それ自体は悪いとは言えない) が四方八方に炸裂しているという感じです。

世界の出来事、パレスチナ、ウクライナ、スーダンなどの惨状を聞いて、ため息をついた人もあるでしょう。イスラエル軍はガザの子供を平気で爆撃して、躊躇うふりさえもしません。
遠い世界の出来事を聞いて心を痛めるのは、決して自分を安全地帯においての偽善ではありません。自分が何もできないことを知りつつ、大規模な惨状を日々、目の前に突きつけられることは、人間にとって大きな苦しみなのです。自分自身の生活が比較的平穏であるとしても。「こんな世界を、私は生きなければならないのか。」この状況に晒され続けると、思い切り目を閉じてしまうか、それとも虚無的なテロリストになるかしかなくなるかもしれません。

人間の苦しみの問題は、私たちに生涯付きまとう問題です。砂漠の砂の穴に首を突っ込むダチョウのように、私たちが目を閉じてしまわない限り。

〇 私たちは人間の苦しみを見つめる時に、そればかりを見つめていてはなりません。同時に、キリストの苦しみを見つめるようにしなければなりません。そうでないと、虚無的になってしまいます。
特に、キリストの苦しみを見つめ、思い巡らすことこそ、聖週間に固有の仕事だと思います。先々週、四旬節第4主日の福音朗読に次のようにありました。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章14~15節)

旗竿に高く掲げられた青銅の蛇を見るとは、十字架の上に挙げられたキリストを見るということです。そして、人間の罪を見るということです。人間の罪と人間の苦しみは同じ現実の裏表です。
私たちは十字架上のイエスキリストと、人間の罪を、別々に見ない。いわば、同じ画面の中で見なければならないのです。

〇 四旬節には、教皇や司教の世界の苦しみの現実に目を向けるように、というアピールが出ます。しかし本来、人間の世界に日々、起こっている苦しみを悩み、考えることは聖週間に限りません。心が石のように固くない限り、目と耳のある人なら悩み、考えざるを得ないのです。 (効果のあるアクションを起こすことができるかどうかは別ですが。)

それに対して、十字架上のイエスを見つめることは、聖週間に意識して時間を取らなければできません。いや理屈上は、いつでもできるかもしれませんが、全教会が十字架を見つめる「この時」こそ、それにふさわしいのです。

過越祭の7日前、イエスは、ベタニアで頭に香油を塗ってくれた女性を咎める人々に言われました。「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」(ヨハネ12章8節=受難の月曜日の朗読)

〇 聖週間、そして「聖なる過ぎ越しの三日間」の頂点は、聖金曜日の受難の典礼です。ヨハネの福音書から受難の物語が読まれ、十字架の礼拝があります。
当日、教会に出かけてから、十字架のキリストについて考えるのでは物足りません。聖金曜日の典礼に意義深く与るために、今から、福音の受難物語をレクチオ・ディヴィナの読み方で、じっくり読むことをおすすめします。聖金曜日の典礼に参加することができない方のためにもおすすめします。

「婚礼の客は、花婿が一緒にいる限り、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」 (マルコ2章 19~20節)

「その日」、その時は、目前に迫っているのです。
                          (了)