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四旬節第5主日(B年)の説教

ヨハネ12章20~33節

◆説教の本文

〇「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

1970年代に中南米で興った「解放の神学」を唱導する人々は「イエスは殺されたのだ」ということを強調しました。つまり、イエスは人間社会に正義と平和をもたらすために来られた。精力的にその活動をしているうちに、権力者たち( 政治的・宗教的)に憎まれ、その結果、彼らに「殺された」のだという意味です。

中南米の過酷な政治的・経済的抑圧の中に生きてきた人々は、このイエス理解を歓迎しました。それに励まされて、自分たちの生き方の中に 政治的経済的な解放を実践しようとしました。『エルサルバドル』という映画に、その様子が描かれています。

それ以前のイエス理解は、人々の罪のために「自らの命を捧げられた」というものでした。 御受難会のローマ本部に、少年イエスの大工修行を描いた絵画があります。イエスが父親のヨセフと一緒に働いているのですが、イエスはなんと十字架の木を削っているのです。つまり、その絵が描かれた時代の霊性では、イエスは少年時代からご自分が十字架に掛かることを、ご自分の使命として自覚しておられたということです。つまり、イエスは十字架の上で死ぬために生まれた。

このイエス理解に対して、正義と平和のため、貧しい人々のために精力的に働くイエスを打ち出したのは、「解放の神学」の大きな貢献でした。このイエス理解は、中南米を超えて、日本のような先進諸国のキリスト教にも永続的な影響を与えました。

しかし、イエスにはやはり、「人に殺された」のではなく、「自ら進んで死を受け入れた」という面があるのです。四旬節に強調されるべきなのはこの側面だと思います。
「地に落ちて死ななければ」という章句を素直に読めば、「自分から死んだ」というニュアンスが濃厚でしょう。今のキリスト者は、この章句に、「貧しい人々のために働いて殺された」というニュアンスを読み取ります。しかし、その読み方は「解放の神学」以来、 広まったものだと思います。 その読み方が間違っているというのではありません。「解放の神学」は福音書の読み方を広げたのです。

しかし、イエスが「進んで」死を受け入れられたということは、キリスト教にとって大事なことです。ミサ典礼文(聖変化のところ)にも、「主イエスは進んで受難に向かう前に、パンを取り」とあるのです。 また、イエスはこうも言っておられます。

「誰も私から命を奪い取ることはできない。 私は自分でそれを捨てる」(ヨハネ10.18)

〇 私の友人がこう言いました。 「私には"イエス"でなければ間に合わないのです」。それがなければ間に合わないイエスとは、この正義と平和をもたらすために「働いて殺された」イエスではなく、「進んで受難に向かれたイエス」だと思います。
なぜイエスが進んで受難に向かわれると、人間(この私)が救われるのかは説明できません。しかし、少なくとも 大人になってキリスト教信仰を選んだ人は、友人のこの言葉に同感するのではないでしょうか。この神秘は、四旬節の最後のニ週間の黙想の対象です。

〇 とは言え、ローマ本部の絵画にあったように、最初からイエスは死ぬつもりで生きたとは思えません。活動の始めから、イエスの周りには敵対者がいました。危険が次第に増していることは知っておられたでしょう。命の危険さえ感じておられたでしょう。しかし、イエスはある時点で、単に危険を冒すだけでなく、「自分が進んで死の淵を越えて行かない限り、人間たちを救うことはできないらしい」と感じ始められたのです。

〇「人の子が栄光を受ける時が来た。」

しかし、死にさえすればいいわけではありません。「時」が来ることが必要でした。ヨハネ福音書では、何人かのギリシア人が「イエスにお目にかかりたいのです」と申し出た時に、イエスはその「時」が来たことを悟られました。

ギリシア人は異邦人、つまり、ユダヤ人以外の全人類の代表です。イエスはそれまでにも、たまたま異邦人と関わることはあったでしょう。彼らを癒したり、パンを与えたりすることもあったでしょう。

しかし、異邦人から積極的に近づいて来て、「神の国のお話を聞かせてください」と申し入れたのは初めてではなかったでしょうか。イエスはその出合いに、ご自分の活動が新しい、決定的な段階に差し掛かったことを悟られたのです。

〇「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私を この時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。」

これは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)で言えば、ゲッセマネの園の祈りに当たるところです。イエスは恐怖を感じられた。そして、なんとか自分が死を引き受けないで、人類の救いを成し遂げる道はないのだろうかと思われた。
癒して、パンを食べさせて、生き方を教えるだけで、神の国をもたらす方法はないだろうか。この思いは、荒れ野の誘惑と同じです。つまり、「手軽に」神の国をもたらす方法はないだろうか。しかし、即座に、そういう道はないことを悟られたのです。自分が死という深い淵を通ることなしに、人間の救いは得られない。

来週は聖週間に入ります。イエスが悟られたこの真理を、私たちも黙想しつつ、心に刻んで聖週間を迎えましょう。

「友のために 自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)
                          (了)