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年間第5主日(B年)の説教

マルコ 1章29~39節

◆ 説教の本文

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」

〇「キリストに倣いて」という 霊的著作の古典がありますが、私たちキリスト者はキリストのなさることに倣うことを求められています。

この家で、イエスは「何をなさった」でしょうか。
熱病を癒すことではありません。イエスは「彼女のそばに行かれた」のです。そして、彼女の「手を取って起こされた」のです。

熱が去ったことは単なる結果にすぎないというのは言い過ぎで、「熱が去る」ことはイエスの行動の視野の中にもちろん含まれていたでしょう。しかし、それはイエスの目的ではなかったかもしれません。
イエスのなさったことは何かと問われれば、それは「彼女のそばに行き、手を取って起こされた」ことなのです。

〇 このことは、イエスに倣おうとする私たちにとって、非常に大事なことです。熱病にかかっている人の熱を去らせようとすることが、イエスに倣うことであるとすれば 、それが私たちにできるかどうか、分かりません。私たちは、その難しい課題の前にたじろぐかもしれません。しかし、彼女の「そばによって」「 手を取って起こそう」とすることはできるのです。

私たちは、イエスの行動のあとに起こったことと、イエスのなさったことを混同してはなりません。イエスのなさったことは、イエスを主語とする動詞に注目すれば分かります。
先週の福音朗読では、イエスはご自分が呼ぼうと思った兄弟を「ご覧になり」ました 。そして、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と彼らに言われました。 ・・・すると彼らは従ったのです

〇 ちょっとした熱を去らせることは、人間にできなくもない気がするので、この区別は重要ではない気がします。しかし、マルコ 6章(35~44節) の 5000人の群衆にパンを食べさせるという目覚ましい出来事を見ると、この区別が重要であることが分かります。

イエスは5000人の人に大量のパンを与えて食べさせたのではありません。まず、イエスは「座るようにお命じになった」のです。そして、5つのパンと2匹の魚を「手に取られた」のです。それから、「天を仰いで 」「賛美の祈りを唱えられた」のです。そして、弟子たちに「パンを渡して配らせた」のです。・・・・ すると、5000人の人が 満腹した。

「・・・・」で何が起こったかは、福音書を読む私たちには明らかにされていないのです。パンが実際に増えたのか、それとも、イエスの振る舞いに心を打たれた人々が隠し持っていたパンを共有したのか。
それを推測することは、福音書を読む上で重要ではありません。大事なことは、イエスのなさったことに倣おうとすることです。

〇 イエスを主語とする動詞に注目して、福音書をゆっくり、何度も読みましょう。そして、福音書の中に働いておられるイエスを見つめましょう。
そうすれば、ある日、私たちの生活のある場面で、何をすることが、「(例えば)彼女のそばに行くこと」になるのかが、わかってくることもあります。

☆ マルコ6章35~44節は、B年には読まれません。代わりに、ヨハネ福音書6章1~15節の並行箇所が読まれます(年間第17主日)。

☆ 私の『福音書の中にイエスを「見る」祈り』(第3章)に、イエスを主語とする動詞に注目することについて書いています。
                             (了)