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復活節第2主日(神のいつくしみの主日)(B年)の説教

ヨハネ20章19~31節

◆説教の本文

〇「弟子たちは、(復活された)主を見て喜んだ。」

今日読まれるヨハネ福音書は、復活の主日の「夕方」の出来事です。偉大なる復活徹夜祭と、復活の主日の「朝」のミサの福音朗読には、復活されたイエスの姿は出てこないのです。
そこで語られるのは、弟子たち(女性)がイエスの遺骸に敬愛を表するために香油を塗りに墓に行ったところ、「墓は空であった」ということだけです。 何か偉大なこと、人間の今持っているビジョンを超えたことが起こったという感覚がそこにあります 。そして、畏れの感覚があります。

これは説教者にとってやりにくいことです。復活の朝のミサは華やかなものですが、肝心の福音朗読に、イエスの姿は現れないのです。多くの説教者は、福音朗読をほぼ無視して、イエスの復活の喜びを語っていると思います。多分、それは典礼としては正しいのです。

「空の墓」について説教することは、修道院の静かなミサ(low key)には相応しいのです。しかし、その後に華やかなお祝いがあることを前提にする、小教区のミサでは難しいことになります。福音朗読と説教だけが孤立するからです。まあ、それを気にするのは、説教した神父だけかもしれませんが。

〇 復活節の第2主日の福音朗読で、初めて、復活されたイエスは、共同体の前に姿を現します。( マグダラのマリアへの個人的顕現はそれ以前にあります= ヨハネ20章11~18節)

「イエスが来て真ん中に立ち言われた。あなた方に平和があるように。」

福音書にはいくつもの美しいイエスの顕現物語(これからの復活節主日で語られます) がありますが、イエスの復活という出来事をイコン(静止画像)として 最も代表的なのはこれだと思います。・・ 手を広げて、私たちの真ん中に立っておられるイエス。そのイエスを見て、喜ぶ弟子たち。

復活されたイエスを囲んで喜ぶ 人々。これは代々とこしえに、キリスト者の姿と言えるでしょう。

〇 私たちは、どうして躊躇なく、「主イエスは復活された」と言えるのでしょう。考えると不思議です。
キリストの姿は福音朗読の中にはありますが、現実の生活の中には見えません。キリスト教がエスタブリッシュしており、大きな教会に多くの信者(若者を含めて) が集まり、華やかなミサが行われる国ならば、その雰囲気に助けられて、「主イエスは復活された」と言えるでしょう。つまり、典礼に「持っていかれる」のです。 しかし、日本でその雰囲気を作れる教会は、東京の聖イグナチオ 教会ぐらいではないかと思います。

私たちが躊躇いなく、「主イエスは復活された」と言えるのは、私たちが「見た」からではないかと思います。何を見たのでしょう。

〇「私を見たから信じたのか。 見ないで、信じる人は幸いである。」

これは有名な言葉になっていますが、一人歩きすると、誤解を招きやすい言葉だと思います。トマスは見ないで信じたのではなく、「見て、信じた」のです。福音書を読めばわかることですが、トマスはイエスの手に釘の跡を見て、脇腹に槍で貫かれた跡を見たのです。

キリスト教信仰は、暗闇の中で意志の力で「エイヤ!」と決断した結果ではありません。神様が良しとされるのは理由なしに決断した決断力と勇気ではありません。それはキリスト教信仰というより実存主義です。

イエスが「 見ないで信じるものは幸いである」と言われたのは、「証拠」のことです。有無を言わせない証拠を求める者は、決して信じないでしょう。 一時的には信じたように見えても、生涯にわたって信仰を持ち続けることはできないでしょう。「日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」 (マルコ 4 .6)

イエスが見せてくださるのは「しるし」です。日常生活の中に、小さなイエスの姿を見る。いや、イエスの働き痕跡を見ると言った方がいいかもしれません。物理法則の例外をなすような奇跡的な出来事ではない。第二朗読の使徒言行録にあるような(土地や家を持っている人は皆それを売って代金を持ち寄り)、聞いた人が驚く目覚ましい出来事でもない。他人には目立たない出来事です。

例えば、「赦そうとする心」が自分の中にあることを知ると、イエスが働いてくださったと分かります。赦しは当の相手との和解が成立しなければならないというものではありません。キリスト者なら赦さねばならぬという義務感ではなく、自ずと心が柔らかくなる時、イエスが自分の中に働いてくださっていることが分かります。

〇 イエスが自分の中に働いてくださると、次第に、もっと目立たない出来事の中にも、イエスの働きを知ることができるようになるでしょう。それが極まれば、「見ないで信じている」と言ってもよいでしょう。

「見ないで信じる者は、幸いである。」
                             (了)