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四旬節第3主日(B年)の説教

ヨハネ 2章 13~25節

◆ 説教の本文

〇「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒し‐‐‐」

「神殿浄め」と呼ばれる出来事です。共観福音書にも記事がありますが、イエスの活動の最終段階に置かれています。ヨハネ福音書では活動の始めに置かれています。

何年も前のことですが、私の友人(修道女) がこの記事を読んで、こういう感想を述べました。「イエスさまが、小さな商売をしている庶民を暴力的に追い出すことには違和感がある。」
その時は、新聞記事を読むような「庶民目線」で、福音書読んでいる、聖書の読み方がわかっていない人としか思いませんでした。

しかし、その後、ヨハネ福音書に親しむようになって、彼女の言ったことには一理あると思うようになりました。第1章を読むと、ヨハネ福音書は高遠な真理を説くものという印象があると思います(シンボルは大空を駆ける"鷲"です)。しかし、実は、この福音書は案外に足が地についているところがあるのです。現実の人間の生活に即したところがあります。
例えば、第4章のサマリアの女との対話はギクシャクとした進行ですが、会って間もない人間同士、しかし互いに何か魅力を感じている者同士の会話らしいとも言えるのです( 去年の四旬節第三主日の説教を参照)。

〇 このエピソードの直前(ヨハネ2.1~11)は「カナの婚宴」です。イエスが田舎の結婚式に参加されて、ぶどう酒が足りないという困った事態に遭遇して、それを助けられるという微笑ましいエピソードです。王侯貴族の婚宴ではなく、庶民のささやかな結婚式だったのでしょう。
その直後に、宗教的熱心のあまりとはいえ、民衆に暴力を振るわれる (紛れもなく暴力です) というのは、確かに違和感があります。
また私の友人が「小さな商売をしている庶民をいじめている」と言ったのも、単にセンチメンタルな批判ではないとは思いました。
神殿で動物(生贄を捧げるため) を売ったり、両替所(献金するため)の店を出していたのは、大企業や大銀行ではないだろうと思います。庶民レベルの人が生活の糧を得るために出している小さな店もあったでしょう。ヨーロッパの大きな巡礼地に行けば、そういう光景は見られます。今のキリスト者には、彼らを追い出すべきだと思う人はいないでしょう。

神殿は礼拝の場であって、商取引の場ではないというのはまさに正論です。しかし、その正論は、イスラエルの宗教が神との取引になってるのではないかという批判です。神殿の敷地内で人間同士が商売をしているのはけしからんという意味ではないはずです。現象だけに注目して、本質には触れない議論です。それで商人たちを暴力的に追い出すのは、「私は柔和で謙遜な者である」(マタイ11.29)と言われたイエスにふさわしい行いではないと思います。

〇 この時、イエスはまだ活動を始めたばかりです。神殿での光景を見て、自分の理想と違うのでムカッ腹を立てたのではないかと思います。若気の至りですね。現代の教会で言えば、若い真面目な神父が聖堂でおしゃべりをしている信者を見て、「ここは聖堂です。神様とお話をる場所です。静かにしてください」ときつい口調で叱るように。神父に叱られた信者は一応は従うでしょうが、本当に納得するわけではないのです。神様は人間同士が仲良く話をすることを喜ばれるという理屈もあるからです。
神殿で商売をしている人が大人しく従ったのは、イエスの剣幕に押されたせいもあるでしょうし、また、イエスがガリラヤで評判の高い宗教家であることが知られていたからだと思います。本当にイエスの叱責を正しいと認めたらからではありません。

〇 イエスは、もちろん権力的暴力的な人ではありませんでしたが、この時点ではまだ、「勇気ある決然とした行動」が事態を変えるという幻想から逃れていなかったのではないでしょうか。
ビシッと叱ることのできる父親がいれば良い子供が育つということが、俗流の教育評論でよく言われます。しかし、それは幻想だと思います。子どもはその勢いに押されて、行いを改めるという幻想です。これは荒れ野の誘惑の変形です。子供が本当に困難に陥っている時には、「ビシッと言う」だけでは乗り越えることはできないのです。もちろん、それでうまくいく場合もありますが、事態が本当にもつれて悪くなっている場合には、それだけではうまくいきません。

物事が難しくなっている根底に触れて、良い方向に進めるためには、受難と十字架の道を歩むしかないのだと思います。その真理を本当に心の底から悟るには、イエス様もまだしばらく時間がかかったということでしょうか。

「それから、イエスは 弟子たちに教え始められた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されることになっている。 そして、三日の後に復活することになっている。」 (マルコ8章31節)

そして、受難の直前には、ペトロにこう言われました。「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。」 (ヨハネ 18章11節)

紛糾した事態を本当に打開するためには、力の道ではなく、受難と死の道を歩まればならない。このイエスの真理を、私たちも本当には悟っていないのだと思います。力を発揮する余地 、チャンスがあると見れば、やはり、力で事態を動かそうとしてしまいます。
その真理を悟ることは回心です。つまり、物事の見方を根本的に変えるということです。パウロの言う「神の力、神の知恵」とはそのことでしょう。

「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(第二朗読)

☆ 一般的な 聖書解釈は、「イエスはここで堂々とした態度でイスラエルを 戒められた」というものでしょう。この説教は無理があると思う人もあるでしょう。私自身、そう思わないでもありません。しかし、私はこの読み方が 唯一の正しいものだと思っているわけではありません。

私の聖書解釈の方針はポストモダン的です。
1つの正しい解釈があるのではなく、読む者の問題意識で見えてくるものを見る( 聖書学的な知識を無視しませんが)。そして、見えてきたものを信者同士で分かち合って正しい方向に収斂していく。この説教は、皆さんが小教区のミサに与って、説教を聞くことを前提にしています。
この説教で、前後関係から見ていささか無理のありそうな読み方を試みたのは(私なりの辻褄はあります)、 通常の解釈では私の心が動かないからです。

☆ 共観福音書には、ほとんど同じ記事がイエスの活動の最後、十字架を数日後に控えた時点に置かれています。私は同じ行動がニつの時点であったと考えています 。
イエスは、ここではムカっ腹を立てて衝動的に行動したのではなく、熟慮の上で敢えてこのような行動を取られたと思います。このような行動の延長線上に神の国が来るのではないことはよく分かっておられた。その上で敢えて印象に残るパフォーマンスをされたのです。
                        (了)