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年間第32主日(A)年の説教

マタイ24章1~13節

◆説教の本文

「 用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」

〇 説教を作るとき、私が最初にすることは、当日の福音を読んですぐに連想するエピソードや出来事がないかと思い巡らすことです。この福音のプロットではなく、「感情」から連想するものです。

この箇所の中心にある感情は、「もう遅い」、「 もう間に合わない」という悔恨です。それで、私が思い出したのは、いわゆる「熟年離婚」です。長い間夫婦として暮らしてきた夫が年になって突然、妻から離婚を切り出されて 愕然とするという話は時々聞きます。
こういう場合、夫はそれなりに真面目に働いてきた男性が多いと言います。
しかし、妻との感情的交流がなかった。夫は妻の不満に気づいていないわけではないが、「 まあ大丈夫だろう」と高を括っていた。あるいは、「定年になったら、いくらでも取り戻すことができる」と思っていた。ところが、その定年の時が来ると、逆に妻から三行下り半を突きつけられる。つまり、もう「手遅れ」なのです。
こういう場合、定年は離婚を切り出すきっかけになっただけで、もっと以前に、妻は夫を諦めているのでしょう。しかし、いつダメになったのでしょう。知らないうちに一線を越えてしまっていたのです。「 私はあなたを知らない。」

〇 私たちキリスト者は、神の忍耐深さを語ることに慣れています。実際、私たちは神の忍耐を必要としています。早々と見切りをつけられたら、私たちのうち、誰がそれに耐えられるでしょう。しかし同時に、「神に見切りをつけられる」時はある、あるのだということを知らねばなりません。「世の終わり」「キリストの再臨」の時に、それは明らかになります。ヘブライ書簡にこう書いてあります。

「 ある人たちは、(主が来られるのは)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロの第二の手紙3章9節)

「神の忍耐」と「神が見切りをつける時はある」、この二つをキリスト者は心の中に保たねばなりません。「神を畏れることは知恵の始めと知恵の書に あります。」 畏れ(恐れ)は信仰生活の真髄ではありません。真髄はやはり愛です。しかし、畏れは必ずなくてはならぬものです。
料理における塩のように。

〇 しかし、「 自分は一線を越えてしまっただろうか」と戦々恐々として 日々を暮らすことは、キリストの望みではありません。聖フランシスコは「明日、世の終わりが来るとしたら、あなたは何をしていますか」と問われて、「りんごの木を植えています」と答えたということです。
老年になっても、いつでも、できる善(愛の業)はあります。老妻が腹の中で 離婚届をいつ出そうかと考えているかもしれなくても、コミュニケーションの小さな回復の努力はできるのです。
第一朗読の知恵の書はそれを教えていると思います。「知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う。」ここで言う 知恵とは、キリスト者にとってイエスご自身のことです。早起きして門前を掃き浄めることは、日本人にとって象徴的な善行の一つでした。

「知恵を愛する人には自分を現し、探す人には自分を示す。」「 知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。」 (第一朗読 )

☆ 説教の周辺

世の終わりがピンと来なければ、自分の「死」の時に置き換えて読むといいかもしれません。