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永遠なんてないけれど、それでも。#月刊撚り糸

「ただいまー」

 玄関からの予想だにしない言葉に、結衣は瞬間的に戸惑いと高揚を覚えて、手に持っていた包丁をほうれん草のそばに置いて、小走りで玄関に向かう。玄関では靴を脱いだばかりの心平が笑顔で立っていた。
「ビール、買ってきたよ」
「え、どうしたの??なんで?」
 6缶パックが入ったビニール袋を掲げる夫の心平に、結衣は驚きを隠せなかった。

 心平は霞ヶ関に勤めていて、リモートワークが推奨されるこの時代にも関わらず、国会議員への説明などの多くは未だに対面で行われていて、在宅勤務なんて夢のまた夢。毎日、職場に駆り出されている。加えて、疫病による社会の混乱。今日もいつものように帰りが遅いはずだった。
「仕事が思ったより早く一段落ついたの?」
「ううん。やり残したまま帰ってきた」
 夜遅くに帰ってきた心平が、机の上に置かれた冷めた料理をレンジで温め直す記念日を想像していた結衣の心の中で、孤独が静かに融けていく。そして、小さな不安が芽を出す。
「仕事は…大丈夫なの?」
「今日くらいはね。結婚記念日なんだからバチは当たらないよ」
「嬉しいけど、これで心平が何か仕事で不利になることがあったら嫌だよ私」
「大丈夫。明日早く出勤して続きを片付ければ問題ないから」
「本当に大丈夫?怒られたりしない?」
「そのときは、素直に謝る」
「私のために心平が怒られたりするのは嫌だ」
「それは考えすぎかな。俺は結衣と大事な日を一緒に過ごしたい自分のために早く帰ってきたんだから」
 心平が自分を考えてくれている幸福感に浸った言葉に対する心平の天の邪鬼な返答。マスクをしていても目でわかる。心平は今きっと憎たらしい顔で微笑んでいるに違いない。
「ちょっと、そこは『大丈夫だよ』だけでいいんだけど。あと、返ってくるなら連絡してよ」
 結衣が仕返しに拗ねた振りをする。少しロマンチックさは欠けるけれど、結衣はそんな心平との少し憎らしさのあるやり取りが好きだった。

「帰ってくると思っていなくて、まだ夕食の準備始めたばかりだから少し待ってね。先に、手洗い、うがい、スマホ消毒ね」
「うっす」

 体育会系でもなく、お固い仕事の代名詞に従事する心平のとぼけた返事に結衣は笑った。

 私が心平と出会ったのは大学一年の暮れだった。学生の間で『パンキョー』と呼ばれる一般教養の授業で私たちは出会った。私は、授業自体には全く興味がなく、卒業の要件を満たすために『単位を取るのが簡単らしい』という噂につられてその授業を履修した。
 白髪の教授が90分間ホワイトボードに向かって話して、授業の終わりに適当に感想だけ書いて出せば単位が出る。授業をする方も受ける方もやる気がない、そんな授業だった。何か、細胞とかの話をしていたような記憶が残っている。

 冬のある日、私と一緒につまらない細胞の授業を受けていた友人二人が同時に風邪でダウンしたことがあった。2人から感想レポートの代筆を依頼されて、「昼ごはんを奢る」という条件で私は渋々ひとりで出席をした。 
 相変わらず教授が90分近くホワイトボードに向かって話す授業が終わり、感想を書く用紙が配られた。私は素知らぬ顔で紙を3枚取った。LINEを開いて、風邪で床に伏せているであろう友人二人の名前と学籍番号を確認する。仲の良い友人と言っても、お互いの学籍番号は知らないし、本名の正確な漢字までは意外と知らなかったりする。

 ここで問題が起きた。
 鞄の中に筆箱がない。

 この教室に知り合いは居ない。早く見知らぬ誰かに筆記用具を借りなければ、学生たちは適当な短い感想を書いてそそくさと退散して、教授もやっつけ仕事からの解放感で足早に研究室に戻ってしまう。せっかくつまらない90分を耐えたのに、それがなかったことになるのは絶対に嫌だった。
 講義室を見渡すと、前方に座っていた女子たちはもう居なかった。女子は私しか居ない。誰にボールペンを借りるか悩んでいる間にも、もとから少ない学生はどんどん減っていく。
 後ろではチェックシャツの冴えない男子たちが嬉々と意味不明は方程式の話をしていて、絶対に借りたくはなかった。すると、ふと、4つくらい離れた左の席で気だるそうに筆箱を取り出す男子が目に入った。

 それが、佐川心平だった。

「あの、ボールペンか何か貸してもらえませんか?筆箱を忘れちゃって」
 人見知りの私の声は少し上ずって、早口だった。
「いいっすよ」
 心平の筆箱にはシャーペンとボールペンしかなかった。意味分けるために、3色のマーカーや4色ボールペンを筆箱に入れている私には分からない価値観だった。
 やっとのことで手に入れたボールペンで、感想を三人分を書いた私は心平にボールペンを返した。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
 私が足早に立ち去ろうとすると、心平に声をかけられた。
「すみません」
「はい。なんですか?」
 不意に呼びかけられて、私はまた声が少し上ずった。
「あのー、授業でどんな話してました?」
「はい?」
 された質問の意図がわからず心平の手元を見ると、紙には『佐川心平』という名前と学籍番号しか書かれていなかった。『私が3人分書いている間、この人は一体何をしていたんだろう』と訝しがりながら話した。
「授業、全く聴いていなかったんですか?」
「朝まで友達と飲んで、そのせいで眠くてずっと寝てました」
「そうなんですね。(なにこの変な人…)今日はなんか、体の中の細胞が必要に応じて計画的に死ぬ話とかしていました」
「なるほど」
「それで…」
 感想を書くにはコツがある。聞いたこともない小難しいカタカナが出てくれば、その説明だけ真剣に聞いて、その言葉を自分で説明し直して、新しい知識を得られた喜びを適当に書き連ねておけば、真面目そうな感想レポートが完成する。
 だから、私はアポトーシスネクローシス、ウイルスに感染した細胞は自殺する話などを伝えようとした。でも、言葉に詰まった。心平が何食わぬ顔で感想をスラスラと書き始めたからだった。
 あんな少しのヒントで一体どんな感想が書けるって言うの?
 気づけば、私は佐川心平という男が書いた感想を読みたいと思っていた。息を潜めて、心平が感想を書くのを見届けた。

NT937483 佐川心平

僕たちは自分たちの意思で日々、選択を重ねて自己主導で生きていると自覚しています。しかし、この人間社会が生命体で僕たちが細胞だとすると、僕たちの意思は自分が預かり知らない計画ではない、人の命さえも必要に応じて計画的に生まれて死んでいくものではない、と、どうして言えるんでしょうか。

「え、それだけで書けたんですか?」
「適当に妄想で書きました」
「妄想…?」

 私は息を呑んだ。スマホをいじったりしていたとは言え、90分間、一応意識を保って授業を受けていた自分よりも、二日酔いでずっと寝通しだった佐川心平という男の方が、はるかに熱心に授業を聞いていたかのような感想を書いている。佐川心平の感想文には、物語があるように感じた。そして、少し気味が悪かった。

 それから、残り数回だったそのつまらない授業の度に、私は佐川心平という男に視線を向けずには居られなかった。完全に怖いもの見たさだった。中学生のころ、親に買ってもらったiPhoneで魔が差してドキドキしながらアダルトサイトを開いたときと同じだ。

 あんな文章を書く意味不明な人がどんな動きをするのか知りたかった。
 私が見たこともない肘のつき方をしたりするのだろうか。

 俺が結衣と初めて出会ったのは、大学一年生のときの授業だった。一般教養理系基礎科目という分類で、『単位が楽に取れる』という理由だけで自分の専攻とは全く関係がない生物の授業を取った。大学の授業のほとんどがつまらないことは入学してすぐに気づいたけれど、その授業は特につまらなかった。
 教授が講義の間に学生の方を向くのが、授業終わりに感想レポート用の紙を配る時だけで、後はずっとホワイトボードと会話しているんだから聴く側が面白いわけない。
 『楽な授業』の『楽』の定義を、一体誰が決めているのか知りたくなった。出席を全くしなくても、過去問入手や試験前日の缶詰だけで単位が出る授業の方が遥かに所要時間が短いし楽だろう。

 そんなつまらない授業のある回に事件が起きた。その日はひどい二日酔いで、俺は授業中ずっとグロッキーだった。物音で起きてみると授業はもう終わっていて、手元(というか顔元)には、誰かが気遣って取って置いたであろう感想用紙が置かれていた。

『何ひとつ聞いていないのに、何をどう書けってんだよ』

 脳みそ全体が鈍く痛む中、ペンを持てば何か書けるかも知れないと思って鞄から筆箱を取り出した矢先、知らない女子が話しかけてきた。
 
 それが門倉結衣だった。

 結衣はどうやら筆箱を忘れたらしかった。俺が貸したSARASAの1.0mmのボールペンを受け取ると、結衣は身を翻して自席に戻った。香水のいい残り香がした。

『どうせ現役生だろ。19歳の分際で香水なんて、さぞかし俺とは違うきらびやかな高校生活を送ってきたんだろうなぁ。こちとら冴えないし、浪人したし、違う世界だよ。はぁ、SARASAの1.0mmのボールペン、書き心地が好きで愛用しているけど、それすらもダサいとか思われてそうだな。いや、そもそも全く無関心だからダサいとも思わないんだろうな。だとしたら、今こうしてウジウジ考えている俺は、彼女に関心があるということになるんだろうか』

 持病の腐りグセが発症して、感想用紙に学籍番号と名前しか書けないでいると、ボールペンが結衣を連れて帰ってきた。
 その頃の俺は下劣な人間だった。基本的に自分が何かしら優位性を保てないと、他人と話すことが出来なかった。自分は地下4階スタートだから、他人の上に立てるものを持ってようやく地表に辿り着く理論だった。そして、自分が『ボールペンを貸した』という優位性を持っていると考えた俺は、結衣の力を借りようと考えた。

「あのー、授業でどんな話してました?」

 結衣は怪訝な顔をしていた。女性にこんな声の掛け方をする野郎は地球広しと言えどあまり居ないだろう。でも、背に腹は変えられない。すでに3回欠席しているから、今回、授業を聞いていた証拠を提出しないと単位を落としてしまう。

 結衣によると、授業では細胞死についてだったらしい。細胞は計画的に生まれ、死んでいく。
 『計画的に生まれる』、その言葉から、俺は中国の一人っ子政策を連想した。国の政策で命の誕生が計画されていた時代があった。
 じゃあ、日本ではどうだろうか。日本では全て個人の完全な自由意志で新たな生命が生まれるのだろうか?子供が欲しくても、お金が足りなくて子供を持てない人がいる。子供を持つことでキャリアが断絶することを恐れて子供を持てない人がいる。それが、意図されたものかどうかは別として、社会という大きな生命体の計画の一側面じゃないのか?
 全員が行きたい大学に行けないことも、全員がやりたい仕事をできるわけではないことも、それは社会の計画によって起きることだ。
 死に関してもそうだ。裕福で毎年高価な人間ドックを受けられる人なら早期発見で免れていた病で亡くなっていく人がいる。それも社会の計画だ。
 よし、感想はこれで行こう。少なくとも、起きてるだけでボーッとしていた奴らよりかは、この授業をきっかけに思考をした。ひとまず、今日の落単確定は回避できるだろう。

 書き終えて顔を上げて俺は驚いた。まだ、結衣が俺の前にいたのだ。俺はちゃんと、「どういたしまして」と言ったはずだ。なのに、なぜまだ居るのか分からなかった。

 結衣はなにかに驚いているようだった。目が合った気まずさを紛らわせるために俺が首をすくめると、結衣は少しのヒントで感想を書けることがすごいと言ってくれた。いや、引いていたかな。分からないけれど、このときから少なくとも俺たちはお互いに興味を持ち始めた。

 手洗いうがいと着替えを終えた心平が、リビングに入ってくる。
「ビール、ビール、黒ラベル」 
と意味不明な歌を歌いながら、黒ラベルのロング缶を冷蔵庫にしまう姿を見て、結衣が言う。
「ご機嫌だね」
「そりゃそうだよ。結婚記念日なんだから。えっ、結衣さんは嬉しくないんですか…ぴえん」
「はぁ」
 結衣の呆れたため息を聞いて、心平は声を出して笑う。そして、跳ねるように寝室に消えてすぐに戻ってきた。

「結衣、俺は『これからもずっと』なんて言えない性格だけれど、出会ってから6年、結婚してから2年、大切な人生を一緒に歩んでくれて本当にありがとう。それだけは、心の底から言える」

 心平の手にはツワブキの切り花が一輪。

「今年もありがとうね。でも、夜までやってる花屋さんあるんだね」
「そうなんだよ。あるかなぁって思いながら調べてみたら赤坂に夜までやってる花屋さんがあって助かったよ」
「遠回りしてくれたんだ。仕事で疲れてるのにありがとうね」
「結衣にあと何本ツワブキを贈れるか分からないし、一年たりとも逃すわけにはいかないよ」
「そうだねぇ。少なくともあと50本は欲しいかな」
「そっかー、そりゃ大変だ。長い道のりを想像してしんどくなったからベランダで煙草喫って来るね」
「ねぇ、早速本数減らそうとしないで」
「へへへ」
 心平がまた憎らしい顔で笑う。

「そうだ、今日は何作るの?」
「ハンバーグだよ」
「いいね。いつもの?」
「そう。心平レシピのやつ」
「おけ、それならここからは俺が引き継ぐよ。本家の力を披露するから、結衣はツワブキを生けてからゆっくりして」
「いいの?」
「うん」

 そう言うと、心平は慣れた手付きで冷蔵庫から合挽肉を、棚からボウルを取り出す。結衣は食卓にある空の花瓶をゆすぎ始めた。

「ちょっと、わざわざ台所でやらないでよ。台所に立つのは一人だけって決めてるでしょ?洗面所でやってよ」
 心平は料理という行為に対して強烈なまでの敬意を払う人間で、出された料理は必ず平らげるし、誰かが台所で調理をしているときは一切立ち入らず、自分がするときには一切立ち入らせない。
「今日くらいは良いじゃん。廊下寒いから洗面所行きたくないし〜」
「今日だけだからね?」
「うんうん。分かってる」

 結衣は黄色の透明な花瓶に水を張り、可愛い模様の栄養剤を沈める。そして、長持ちするうように茎を水中で斜めに切る『水切り』をする。心平が定期的に研いで手入れをしている花鋏で、茎の組織を潰さないようにスッパリ。そこまで終えてから、花や葉がきれいに見えるように生ける姿勢を決める。

 心平はボウルの中でハンバーグのタネを捏ねながら、視界の端でツワブキを丁寧に生ける結衣を捉えていた。
「この幸せな日々もいつか終わる。それだけは絶対に決まっている」
 胸に去来するそんな痛みすらも愛おしく思える。心平が、「どうせみんな死んでしまう」という虚しさに抗える様になったのは、結衣と人生を歩んでいる事実のおかげだ。結衣がもたらしてくれる幸せの前では、どうしようもない悲しみすら幸福を際立たせる影として意味を持つ。

 心平からのプロポーズはとってもシンプルだった。交際を始めた記念日に、当時一緒に住んでいた家のリビングで一輪のツワブキを手に、
「俺と結婚してください」
って言ってくれた。心平のことを愛していた私は二つ返事で承諾した。嬉し泣きのあまり、酸欠になってソファに倒れ込んだんだっけ。心平、慌てふためいて7119に電話しようとしていたなぁ。
 少し時間が経って落ち着いてから、私は心平に聞いた。

「ねぇ、どうしてツワブキなの?」
「永遠の愛の象徴としてダイヤの指輪を贈るのは嫌だったんだよ。あ、もちろん、結婚指輪は作るつもりだよ?でも、俺はやっぱり朽ちていくものこそが綺麗だと思うんだよね。永遠なんてないからこそ、俺たちの人生は煌めくと思うんだよ。ダイヤの4Cの評価なんかでは測れないほどに。俺も君も毎日少しずつ死んでいくの。綺麗に朽ちていくの。俺はね、君と一緒に朽ちていきたいんだよ。それで君の誕生花のツワブキを。白状するとね、君に交際を申し込んだときから結婚したいと思っていた。だから、ツワブキ咲く季節に告白したんだよ。」
 「あのね、私の人生の中の綺麗な言葉は全部心平から貰ったものなんだよ。心平がどうしようもない苦しみの中で見つけてきた、綺麗な言葉をたくさんもらえる私は本当に幸せだよ。私はあなたのことを愛しています」

 心平は照れくさそうにそっぽ向いて頭を掻いていた。

 結衣へのプロポーズはグダグダに終わった。何回も何回もセリフを考えて、何周もして結局『結婚してください』しか言えなかった。承諾してもらえたのは幸運だった。
 プロポーズのあと、結衣が過呼吸を起こして倒れ込んだときは本当にパニックだった。結局、腹式呼吸をして落ち着いて何事もなかったんだけど、そのあとが問題だった。『どうして花でプロポーズしたのか』と聞かれて、『終わりがあることが綺麗だと思うから』と答えてしまった。ロマンチックさの欠片もない。プロポーズの直後に『君も僕もどうせ死ぬんだから』なんて言うやつがあるか。でも、それが俺の本音だったから、どうしようもなかった。

 離婚が何も特別じゃなくなったこのご時世に、『君を永遠に愛する』なんてのは欺瞞だと思う。運転免許を取得するときに『事故は起こしません』って言うのと同じくらい無意味だ。結局、事故を起こすときには起こす。欺瞞のない言い方としては、『事故を起こさないように注意することをやめません』が一番違和感がない。
 だから、俺なりの愛の伝え方として、
『一緒に年老いて死んでいきたいです』
『毎年、結婚記念日にツワブキの花を一輪贈ります。そして、累計で一輪でも多くあなたに贈れるように生きたい』

以外に思いつかなかった。

『人はどうせみんな死ぬ』
 そのことを隠してしまう言葉には、なんの価値もないと思う。

「ねぇ見て、どう?」
 声がする方を見ると、ツワブキが花瓶に綺麗に生けられていた。横にはドヤ顔をした結衣。
「綺麗に生けたね。同じツワブキでも俺が生けてたらもっとダサくなってたよ」
「まぁ、心平はセンス無いからね」
「そうなんだけど、言われると凹むなぁ」
「いいじゃん、心平は料理と文章にセンス全振りなんだから」
「文章のセンスはない。料理だけだよ」
「また卑下の悪い癖が出たよ。お仕置きにキッチン荒らしてやる」
 そう言って結衣が台所に侵入する。ハンバーグを整形する段階で両手が塞がっている心平が体で阻止しようとするが、容易に突破される。
「もー、邪魔したら晩御飯が遅くなるだけだって」
 心平が呆れながら言うと、「プシュ」という音が聞こえてきた。振り向くと結衣が美味しそうに黒ラベルを飲んでいた。
「ぷはー、花を生けたあとのビールは最高なんですよ」
「ちょっと、乾杯は?フライングは良くないよ」
「まあまあ、そう言わずに。さ、どうぞ?」
 結衣が手に持ったビール缶を心平の口にあてがう。どう考えても、心平が一度手を洗ってから自分で飲んだほうが効率的だ。でも、心平にとっては、そのまま膝を屈めて飲ませてもらうほうが幸せだった。

 結衣の妨害を躱しながらようやく下準備を終えた心平は、人参のグラッセ、茹でブロッコリー、ハンバーグの焼きを同時に進めながら、冷蔵庫からビールを取り出す。
「乾杯」
 結衣が持つ缶に、自分の缶をコツっとぶつける。
「ん」
という言葉ですらない音が返ってくる。
 結衣がどうして言葉を返さなかったかなんて考えるだけ無駄だ。そういうとき、たいてい理由なんてない。あったとしても『喋り疲れて口を開くのが急にめんどくさくなった』なんてものであることを心平は知っていた。

 ガスコンロを3口同時に稼働させると、コンロの前は熱気に包まれる。季節外れの汗をかきながら、冷えたビールを流し込む心平があることに気づく。食卓の準備が仕上がっていたのだ。ランチョンマットが二枚敷いてあり、その上には箸置き、お箸、ビアグラス、ワイングラス、ワインが並べられていた。
「仕事できるね」
「そうでしょ?心平の邪魔しながら準備するなんて余裕」
「やなやつ」
「ふふ、褒め言葉だね」
「本当にひねくれてるね」
「心平だけには言われたくない」
「はははは。あ、そうだ、音楽を流そう。Orangestarの新曲の『Nadir』がすごくいい曲なんだよ」
「いいね、聴きたい」

 繰り返される心地良いピアノのコード進行とガスコンロからの調理音、心平と結衣の間で交わされるどうでもいい話。『幸せ』以外に呼びようがない空間だった。そして、その空間にもまた『終わり』がある。ハンバーグを蒸し焼きにしていたフライパンの音が変わったからだ。
 蓋を開けると、美味しそうなハンバーグが出来上がっていた。焼けたハンバーグをプレートに乗せて、肉汁が溜まったフライパンに赤ワインを注ぐ。アルコール分を飛ばしてからケチャップとウスターソースを少量加えて煮詰める。最後に味を見て、塩コショウ。
 心平の計算通りに人参のグラッセと茹でブロッコリーも同じタイミングで完成し、結衣が炊いたご飯と作った味噌汁と合わせて、記念日のささやかな夕食は完成した。

 準備に時間がかかったのと対照的に、食べるのはすぐだった。ふたりとも食いしん坊で、空腹の二人にかかればハンバーグ定食なんて20分もしないうちに片付く。片付けは結衣が担当した。早く飲み直したい一心であっという間に洗い物を済ませてリビングに戻り、二人でソファに沈み込んでワインを飲み始めた。

「ねぇ、さっきの曲の『Nadir』って題名、どういう意味なの?」
「『どん底』って意味だよ」
「あー、心平好きそう」
「でも、それだけじゃなくて、天文学的には『天底』って意味もあるよ」
「お、宇宙。専門分野じゃん」
「いや、大学院で少し齧るふりをしただけだよ」
「それでそれで?」
「他にもね、人工衛星が地球の周りを回る軌道ではね、地球の中心方向をNadirって言うんだよ」
「うーん、どん底と似ているようで少し違うんだね」
「そうだね、宇宙には上も下も底も何もないから」
「あー」
「物理の世界では宇宙の無限の果てを基準にしたりするんだけど、それだとあまりにも救いがないからさ、宇宙開発では基本的に地球中心なんだよ。地球が中心なの。通信しなきゃしけないからNadirは大事なんだよ」
「そっか、それじゃ心平は私のNadirってことかも」
「え、どん底?二年越しのマリッジブルー?」
「ねぇ!」
結衣の笑いに合わせてグラスのワインが揺れる。

 日曜日の昼下がり、病室に晩秋の暖かい日差しが差し込んで窓際の花瓶に生けられた黄色のツワブキを照らす。

「今回は俺が買えなかったから58本目として数えられないな。今年のはノーカンだ」

病室のベッドで心平が結衣に話しかける。

「ほんと、身も蓋もない話だね」
「はは、俺が身も蓋もない話しかしないのにまだ慣れてないの?」
「うるさいよ」

『膵がんの全身転移、持って半年』
心平がそう診断されたとき、ふたりとも取り乱すことはなかった。自分の命の限りを数字で知った心平は、診察室を出て随分とシワが増えたいつもの憎たらしい笑顔で結衣に言った。

「抜かすなよ?」
「頼まれても抜かしません」
「ははは」
「これからは左右を2回確認してから手を上げて横断歩道渡るんだから」
「ははははははは」

 重苦しい名前の病棟と年齢には似合わない明るい声で心平は笑った。

 ふたりはずっと終わりを見据えて生きてきた。永遠なんてふたりにとっては『嘘』でしかなかった。

 幸せな夢を見ていた。そろそろ起きようかな。薄く目を開くと、ぼやけた視界に息子たちとその奥さんたちがいる。孫たちも。みんな来てくれたのね。私もそろそろ終わる時かぁ。

 心平、欺瞞が嫌いなあなたは最期に嘘をついたね。死ぬのって、少しだけ怖いじゃない。私くらいには言ってくれても良かったのに。私、少し傷ついてますよ。なんてね。

 あなたが死んでからも、私は結婚記念日には毎年ツワブキを買って生けた。あなたがくれた57本と自分で買った6本。本数を数えるのは私なんだから、自分で買った分もカウントするのも私の自由なの。

 私の人生は幸せだった。子供、孫、友人たち、宝物がたくさんある。

 そして何よりも、あなたがくれた身も蓋もない綺麗な言葉と63本のツワブキがあるんだもの。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。