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美しさは才能か

世の女性たちが揃いも揃って憧れる、ジェーン・バーキンという存在。まっすぐに切り揃えた前髪や、藤のカゴバッグ、或いはエルメスのバーキン。そしてナチュラルな白いレースのワンピース。彼女に関する何かしらを今までに一度たりとも夢見たことが無いなんていう女性は果たして存在するのだろうか。

しかしながらそんな彼女が先日とある雑誌のインタビューで、成し遂げた最高の功績について、三人の娘の存在に加えて、「たいした才能もなくこれだけ長く仕事を続けてこれたこと」と述べており、私は大層な衝撃を受けた。

もはや歴史的偉人のような崇められ方をしている彼女が自分のことを「たいした才能もない」と言い切ってしまうなんて、才能とは何と罪深き存在なのだろうか。彼女が歌う『L'aquoibonste』は誰しも一度は耳にしたことがあろう名曲だし、女優としての彼女のことを世界中の人が知っている。ジョン・バリーやセルジュ・ゲンスブール、ジャック・ドワイヨンらを夢中にして、三度結婚と出産を経験。彼女ほどチャーミングで、良い意味で奔放で、ファッションアイコンとしての硬度も高く、更に東日本大震災の時にはいち早く日本に駆けつけたような心の美しさまでも持ち合わせた人が「たいした才能もない」なら、一体誰ならば才能があるのというのか。

ときに、とある方が言っていた。「美しさは才能だよ」と。それまでの私は才能とはもっと創造的であったり、知的なものだと思っていた。それに容姿の美しさなんて、所詮若い娘時分がピークでどんどん衰えてしまうようなものだろうと自嘲していたから、外見を才能と言い切ることに少し困惑したものの、その人が言うのならと、妙に納得したことを覚えている。

もし本当に、美しさが才能の一種であるならば、ジェーン・バーキンは、それはもう「たいした才能」の持ち主だと思う。

言われてみれば、確かに才能とは人を幸せにする能力だと思うし、私はジェーン・バーキンの美しさを見て幸せな気持ちになるので、やっぱり「美しさは才能」なのかもしれない。彼女のあらゆる才能だって美しさから湧き出るものと考えるとスムースだ。冒頭の彼女の発言だって、自分の美しさを受け入れた上でのものだと考えるとしっくり来る。

時々、美しさや、美しくなろうという行為を非難する人もいるけれど、それは些かナンセンスだと私は思う。そもそも、彼女ほどではないにしろ、女性はきっと誰しも美しさという才能の種を持っている。それに水を遣り、慈しみ、育てることはきっと悪いことでは無い筈。心の中が現れる顔付きや表情もまた、美しさを左右すると私は思っている。従って美しさを否定するということは、もしかすると自分自身の才能の芽を摘んでしまうことになるのかもしれない。

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