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アーティストの成分

アーティスト。人はその言葉から、大抵風変わりで特殊なキャラクターを連想するように思う。社会性があって人当たりが良い常識人では、どうも今ひとつ「芸術家」のラベルと結びつかないのかもしれない。

確かに、「アーティスト」と呼ばれる人たちと接すると、新鮮な発見がある。

例えば、ちょっとした世間話。

会話における言葉の選び方や間の取り方が、まるでイルカの発する超音波のように瑞々しくて繊細だと感銘を受ける一方、唐突に発せられる発言や行動の無神経さに耳や目を疑う、ということが稀ではない。

「面白いくらい、神経質で無神経なんですよね」
そう言うと、仕事柄日々多くのアーティストと接している知人が大きく頷いた。

「やっぱり、彼らって通常の感性じゃ作れないものを作るから、そりゃあもう凄く神経が細やかな訳だけど、それだけじゃ作ったものを世間に出ないから、『俺が作ったこれ良いでしょ!どうよ?』って臆面なく発表出来る、ある種の図々しさが必要な訳で。だから、神経質で無神経っていう表現はよく分かる」

その言葉を受けて、私は、彼の頷きよりも更に大きく、そして何度も首を縦に振ったのだった。

そうは言っても、気が付けば私だって自分が書いたエッセイやコラムを日々淡々と納品したり、頼まれもしていないのに公開したりしている。昔なら、少なからず照れたりしていただろうに、いまや近しい人に読まれても「なかなか悪くないでしょう?」と感想を求めるほど。

かといって、これは決して私がアーティストになりましたという話ではない。今私たちの身近にはTwitterやInstagram、そしてこのnoteがある。
それは、発言や作品を置く場所があって、同時に人の目に触れる機会もあるということ。

二十年前よりも格段に「アーティストの種」のようなものを育てやすくなった世の中で、私たちは情報や思想を発信する。それぞれが自分の感性に対して少しだけ細やかに、そして微かに図太く、逞しくなって。

「奔放で常識が欠けている。でもその代わり世間一般の人々が持ち得ない感性や創作力があるんだもん、仕方ない。」
今やアーティストに対するステレオタイプの認識は消え去って、当の本人も週刊誌が俺について書いていることは全部嘘だとも歌えず、謝罪や引退の会見をするようになった。

アーティストは決して、遠く離れた星の宇宙人では無い。

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