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第六話へ

天空のブラックドラゴン

 女王はその長い人生の終わりの時を迎えていた。

 豪奢なベッドに横たわり、最期に思い起こすのは、平和を取り戻したルナリア公国の情景ではなく、その昔、彼女がまだうら若き乙女だった頃の、今まさに強力な敵に引き裂かれんとする我が国の姿だ。そして大空を舞う巨大な黒いドラゴンの姿だ。

 勇気を振り絞り、若き王女カレリアはたった一人でおぞましき精霊が跋扈ばっこするパラゴールの深淵に降り立った。そして幾多の苦難と危機を乗り越え、そこに棲む"彼"を見つけた。"彼"は神であり叡智の象徴だ。

 王女は"彼"に助けを求めた。国の危機を救って欲しいと、悪を滅ぼして欲しいと。

 "彼"は神秘的な青い瞳でカレリアをにらんだ。そのひと睨みで王女は震え上った。"彼"は王女に問うた。

 "何をもって悪と呼ぶ。何をもって自らを正義であると名乗る。何が善なのか何が悪なのか、勇敢なる乙女よ、我に答えてみよ"

 震えながらも王女は勇気を振り絞って答えた。

「ドラケンはその強大な力で周囲の国々を滅ぼし、数えきれないほどの命を奪ってきました。我が父である国王も兄の王子もドラケンに殺されました。ドラケン王とその軍団を止めなければルナリアも世界も滅んでしまう」

 "我は悪と正義、善と悪についてそなたに問うたのだ。それでは答えになっていない"

「叡智のブラックドラゴンよ。ドラケンはただの人殺しです。強欲で貪欲な殺人者なのです」

 "そなたの父もその父もその祖先たちも祖国を守るという大義のもとに他国の兵士の命を奪ってきたではないか。狂王ドラケンにも大義があろう。いったい何が違うのだ"

 カレリアは答えに窮した。言葉が出てこない。

 "ここまでたどり着いた勇気と強運は認めよう。美しき乙女よ。今まで何人なんびとたりとも我に相まみえた者はいない。その勇気と豪胆な心を称えよう。だから若き王女よ。今ここで、その尊き命を我に捧げるならば、助けてやってもよいぞ"

 ハッと後ずさる王女。その様子を青い瞳が見ている。

「わたしが死んだら誰が国を守るのですか。我がペンドラゴン一族は、もはやわたしとまだ幼い弟しか残っていないのです」

 "知らぬ。我の関知するところではない。さあどうする。賢き王女よ"

 バサッと巨大な漆黒の翼が広がった。

 "さあ答えよ。もはや時間が無いぞ。ドラケンは待ってはくれぬぞ"

「い、命を捧げたら、約束を守ってくれるのですね。ルナリアを、我が国の人々をその偉大なる黒い翼で守ってくれるのですね」王女が震える声で訴える。

 "彼"が恐ろしい声で吠えた。笑っているのだ。

 "我を誰だと思っておる。約束をたがえるはずがない"

 それを聞いてカレリアは覚悟を決めた。腰に携えた剣をずらっと抜き放つや、切っ先を喉に当てた。目をつむり、剣を握る手に力を込める。

 父上、兄さま。お許しください。カレリアは最後まで戦うことができませんでした。暴虐から国を守ることができませんでした。神にすべてを委ねます。"彼"に命を捧げたら、わたしも参ります。

 心の中で祈りを捧げ、力を込め、白いのどに剣を突き立てた。真っ赤な血が噴き出す。すぐにあたり一面が血の海になる。カレリアは自らの血だまりの中にくず折れた。意識が途切れ、しかしすぐに戻る。

「えっ。あれ。わたしは…」

 王女の剣はさやに納まったままだ。のどに手をやっても血は流れておらず、痛みもない。周囲の地面は乾いており、そのゴツゴツした表面には血一滴落ちていない。

 わたしは…確かに剣を突き刺した。
 わたしは死んだはずだ。

 戸惑うカレリアへ、"彼"がこう言った。

 "勇敢なる王女よ。うら若き戦さ乙女よ。そなたの命は確かにもらったぞ。我は約束を守る"

「でもわたしは生きています。死んだはずなのに」

 "死だと。たぐいまれなる王女よ。そなたにはまだやるべきことが残っているはずだ。死の安寧に微睡むのはまだ早い。早すぎる。さあ、我に乗れ。我ともに行かん。ドラケンに今までの行いの対価を払わせてやろうではないか"

 長編のファンタジー小説は高校生の頃に読んだ「指輪物語」以来だった。トールキンのこの有名な作品は映画にもなった。

「天空のブラックドラゴン」は年老いた女王の回想シーンから始まる。神とされるブラックドラゴンとの邂逅から善と悪についての哲学的な問答が続き、物語は次第にスケールを増していく。カレリア王女は"彼"とともに勇敢にドラケン王の群勢と戦いを繰り広げ、苦闘の末に倒す。長い物語のエンディングは、"彼"がその背に王女の気高き魂を乗せて天空に飛び立つシーンで幕を閉じる。

 作家より許可を得ていたから妻にも"彼"の小説を読んでもらった。彼女は貪るように一気に読んだ。読了後の私たち意見は同じだった。これほどの雄大な小説を没にするなんてとんでもない愚行だ。

 しかし星野氏へオッケーを出すのはまだためらいがあった。小説へのイラストの提供さらに出版を了解するならばその時点で私は趣味の画家ではなくなる。会社は辞めねばならない。もう少し考える時間が欲しい。そう思った。

 私から星野への回答はメールでかまわないと言われていたので、さっそくメールしたところ、ほどなく長文の返信が届いた。

†††

To   篠崎純也様
From  星野栞里
件名  ご連絡ありがとうございます

メールありがとうございます。
もう少し時間が欲しいとのこと。承知いたしました。

わたしから篠崎様へお話ししたいことがあります。生意気なとお思いになるかもしれませんが。

ものごとには潮時があります。
波に乗るチャンスを逃したら二度目はない。
篠崎様と"彼"にとって今がそのチャンスであるとわたしは思うのです。
先日お会いした時に申し上げましたが、"彼"の飛翔を止めてはいけません。
大きく羽ばたこうとする"彼"の意志を妨げてはいけません。

わたしは小説家になる前は篠崎様のようにとある企業に勤めていました。
仕事をしながら小説を書き、やがて認められて今の「星野栞里」がいます。
ですが小説家としてスタートする際には篠崎様と同じように悩みました。
この先、専業作家としてやっていけるのか?
会社員のままの方が収入は安定している。
不安とためらい。
そんなわたしの背中を押してくれたのがわたしの物語たちです。

彼らをもっと多くの人に届けたい。
もっともっと多くの人々に知ってもらいたい。
そしてそれはわたしにしかできない。
わたしの物語たちを解き放ち、大空へ羽ばたかせるのはわたしにしかできない。

篠崎様も同じです。
篠崎様のブラックドラゴンを解き放つことができるのは篠崎様だけなのです。
お願いです。
"彼"を解き放ってください。

†††

 考える。
 どうすべきかを考える。
 考えるために彼を描く。
 ひたすら描いた。

 彼は何も言わない。
 言わずとも彼の意志は私にはわかっている。
 ただ、一歩踏み出せないだけだ。

 妻は、佳奈美は、生活はどうなるのとかこの先食べていけるかなどと一切言わなかった。

「純ちゃんのやれることやってね。純ちゃんのドラゴンを解き放てるのは純ちゃんしかいないから」と、星野氏と同じことを言うばかりだ。

 そんなある日、私がまだ仕事に慣れない頃にお世話になった先輩が、前触れ無しに私のデスクにいきなりやって来た。その先輩はしばらく前に子会社へ出向になっていた。だから会うのは久しぶりだった。

「ご無沙汰しています。今日はなにかご用事が?」そう尋ねたところ「退職することになったんで挨拶に来たのさ」と言う。

 先輩はまだそんな歳ではない。私より確か三つ上だったから四十を過ぎたばかりのはずだ。事情があるに違いない。しかしオフィスでは話しづらかったので休憩室へ移った。

「半年前に本社の人事担当が来てね。てっきり本社へ戻れるかと期待したらリストラだったというわけさ」
「そうなんですか」
「ああ。出向扱いは取りやめる。しかし今のポストには残れない。能力開発室とかいう、訳のわからん部署に移れと言いやがる」
「ああ」

 私と同じだ。しかし先輩は私とは違い、大口の契約をいくつも成功させてきた、我が社にとっては貢献者だ。その先輩が出向する際にそのような人事はおかしいのではないかと意外な気がしたのに、さらにリストラとは。

「こんな会社やめてやるさ。だからこっちから辞表を叩きつけてやった」
「でもこれからどうするのですか」
「実はな。しばらく前から小説を書いていてな。会社に内緒で本を出していたんだよ。だからこれからは専業作家になるわけだ」
「はっ?作家ですって?」
「ああ。作家稼業が軌道に乗るまでは退職金と失業給付がある。貯金を取り崩さなくてもしばらくは生活には困らん。家族もいるしな」

 それを聞いて驚いたがどこかで聞いた話しだとも思った。

「誰にも言ったことがなかったが若い頃から小説家になるのが夢でな。今回の件はその夢を叶えるための神さまの後押しだと思うことにしている」
「神さまか。なるほど」
「ああそうだ」

 星野氏と同じだ。彼女も先輩もサラリーマン生活をしながら夢を叶えた。私は…。

 きっかけか。それは今なのか。どうなんだ、ブラックドラゴンよ。窓の外に目をやるまでもなく、"彼"はいつものようにそこにいる。嵐の中でも悠然と大空に浮かんでいる、私のブラックドラゴン。

 おまえを解き放てるのは私だけだ。私しかいない。

 覚悟を決めたならぐずぐずしている理由はない。星野氏へ、来年の三月末まで小説の出版を待ってもらえるかどうかを確認し、了解をもらった。すぐに会社の人事部へ赴き、担当課長へ、先日の件で話があると面談のアポイントを入れた。退職願いのフォーマットはすでに入手してある。

 転職するのは初めての経験だった。私の歳でそんな経験のない人間は珍しいのかもしれない。

 私が退職する旨を伝えたところ、人事の課長はほっとした表情になった。社員を大切にしない組織に未来は無いと言ってやろうと思っていたのに、相手の、疲れが滲んだ顔を見たらその気が失せた。

 この男も私と同じようにただの歯車だ。明日は我が身であるのを、わざわざこちらから言わずともおそらく知っている。

 自分の職場へ戻り、頃合いを見て、部下たちへ、退職することを伝えた。驚いたり、慰留の言葉をかけてくれるのは彼らぐらいだろう。退職してこれからどうするのですか?と、若い女性社員から真剣な顔で聞かれたので、正直にこう答えた。

「ドラゴンを描くのさ」


第八話へ続く

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