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沈丁花

 あれは。

 香田は買い物客でごった返す祝日の大型ショッピングモールに来ていた。姉がバレンタインガールズパーティをやるとかで、その材料を買い込むのに荷物持ち要員として召喚されたのだ。どうせなんのおすそ分けも感謝もしないくせに、つくづく姉というのは弟を小間使いか何かだと思っているらしい。
 赤や金のハートが踊り、製菓材料やキットがところ狭しと並べられたコーナーは、女性客で埋め尽くされていた。姉が選んでるのを少し離れて見ていた香田は、その向こうの棚に見慣れた顔がいるのを認め、やや死角に身を寄せる。
 隣の研究室の森谷だ。
 森谷果代は、真剣に目の前の棚のキットを見比べている。ボブカットの黒髪が、顔をかしげるたびにさらさらと揺れていた。二つの赤い箱を交互に手にとっては、悩んでまた棚に戻す。
 彼氏か、好きな男がいるのか。
 香田はそう思いながらやや残念に感じた自分に少し驚いた。数度話したことがあるだけで、特にどうと思っていたわけではない。しかし、たまに図書室で見かける真面目そうな横顔は、かなり好感を持てるものだった。
 好意を寄せたり寄せられたりする間柄ではない事が分かっていても、自分の知らない顔をその男には見せるのだろうな、と思うと、少しじりじりとした気持ちになる。
 別に俺が何か言える筋合いでもないか。
 十分ほども悩んでようやく決めたらしい果代は、その後ラッピングコーナーに向かっていった。果代の姿がコーナーの向こうに消えたのを見て、香田は手元のスマホに目を落とす。しばらく画面をいじっていると、
「カズ! 和樹!」
 いつの間にか買い物を済ませたらしい姉の、背後から呼ぶ声がした。振り返ると、大きな買い物袋を3つサッカー台に置いて手招きしている。
「持って」
「はいはい」
 サッカー台に向かった。製菓材料を買っていたと思っていたのに、ひとつの買い物袋からはネギと肉と白菜が覗いている。菓子の材料みたいに見えるものは一袋で、さらにあとひとつの袋にはビールの六缶パックが二つも入っていた。
「なにこれ」
「何って、今日は鍋でしょ」
「お菓子買いに来たんじゃなかったの」
「馬鹿、夕飯の買い物も兼ねてんの。人の話ちゃんと聞いてたぁ? ぼんやりスマホなんていじってるから私一人で具は全部決めたわよ」
「つか、おもっ。なんでこんなにビール買うんだよ」
「あんたも飲むんでしょー。文句言わないの」
 そう言って姉はさっさと一番軽い袋を手にとって歩き出した。仕方なく重い袋を両手に提げて後ろをついていく。ちゃんと買い物について行かなかったので、鳥つくねを買ったか確認できていない。香田はやや後悔しながらため息をついた。
 
 翌日、香田は鳥つくねを食べ損ねたことを軽く引きずっていた。次の鍋の時には自分が買い物をする、と地味に宣言したが、あっさりと「じゃあよろしく~」と酔っ払った姉に言われただけだった。まったく理不尽だ。
 卒論発表会も終わり、大学には片付けをする人がぱらぱらと登校しているだけで、閑散とした雰囲気だった。香田は、家に持って帰る書籍と、図書室に戻す書籍などを分けながら、ふと窓の外を見た。おととい降った雪の名残が校内にいくらか残り、暖かな陽射しを受けて光っている。今日中に全て溶けそうだった。
 このまま就職か。
 そんなことを意味なく考える。研究は楽しく、昨年初めに付き合っていた彼女と別れてからは、ほぼ研究に没頭していた。好きな研究を活かせる職に就けたのは嬉しいが、実家からは大学とは真反対の街だから、おそらくこの学校のある街に来るのは卒業式で最後だろう。ほぼ研究室にいて、よく見ていたこの風景とも卒業したらお別れだと思うと、珍しく感慨深い気持ちになっていた。
 ふと、窓の下の道を歩いている女性と目があった。森谷果代だ。見上げたところで香田と目が合ったらしい果代は、慌てて顔を下げて足早に校舎に入ってきた。
 森谷も片付けかな。そういえば就職どうするんだろ。
 香田はとりとめなく考えながら、本の整理に戻った。

 図書室に本を返却に行き、司書の女性に返却が遅いと小言を言われてぺこぺこしていると、果代が本をたくさん抱えて入ってきた。香田に気づくと、気まずそうに目を伏せる。香田の後ろに並んで順番を待っていた。香田は返却手続きを終えたあと、果代が本を返すのをなんとなくカウンターの近くで見ていた。
 果代は返却を終えると香田の視線に気づき、戸惑った表情で軽く頭を下げて、そのまま出て行こうとする。
「あ、森谷さん」
 香田は思わず声をかけた。果代の肩がびくりと震え、おずおずと振り返った。顎のラインに沿った黒髪がさらりと揺れる。
「はい」
「えーと、片付け終わった?」
 なんとなく声をかけてしまって引っ込みの付かなくなった香田は、どうでもいいことを聞く。
「だいぶ。まだ少し残ってるけど」
 果代は視線を横にそらしながら答えた。
「良かったらお昼行かない? 学食」
 果代の視線がぱっと香田を向いた。ビックリしたような表情はまだ固いが、うん、と頷いた顔は微笑みを浮かべている。まだ寄るところがあるという果代と、時間だけ決めて図書室の前で別れた。
 香田は研究室に戻りながら果代の固い顔を思い出し、もしかしたら自分は嫌われていたか、そこまでいかなくても苦手だと思われていたのではないかと、やや気持ちが沈んだ。とっさにお昼を誘ったのは唐突に就職のことを聞くのも変だと思ったからだが、もしかしたら迷惑だったかもしれない。しばらく悶々としながら机の上を整理する。まあ、お昼を食べるだけだ。大人だし、たとえ苦手でも小一時間の会話くらいやり過ごしてくれるだろう。少し後悔しながら香田は時計を見た。

 重い足取りで向かった学食前に、果代は先に来て立っていた。なんとなく先ほどとは印象が変わって見える。表情もさっきよりは柔らかい。香田はホッとして声をかけた。
 代わり映えのしないメニュー。代わり映えのしないA定食。香田と果代はそれぞれ自分のご飯を選ぶと、ガラガラの学食の中で窓側の席に向かい合って座った。果代はかき揚げうどんを席に置く。
 座って果代の顔を見て、香田はやっと先ほどとの違いに気がついた。唇がピンクでつやつやしている。化粧っ気のない顔を見慣れていたので、印象が違って見えたのだ。桜色の薄いルージュは、果代のふっくらとした唇に恥ずかしそうに乗っていた。香田は、春色で綺麗だな、とぼんやり唇に見入った。
 果代は香田のA定食を見て、
「いつもそれ食べてるね」
 と言った。香田は果代の唇に見とれていたのを急に意識して、慌てて視線を逸らしながら答えた。
「うん。定食じゃないと量的に食べた気しなくて。うどん、好きなの?」
「うん。かき揚げが一番好き。もうすぐ食べられなくなるの残念」
 箸を手にとって名残惜しそうにいただきます、と呟いた。
 そか、と返しながら香田も箸を手に取る。
「就職、どこ行くの?」
「アイワ製菓。パッケージとかの研究開発室があるの」
「へえ、いいね」
「香田君は?」
「俺は、マイカ。えーと、染料作ってる会社」
「研究に関係あること続けるんだね」
「うん。好きだったから」
「いいとこ決まって良かったね」
 食べながらとりとめのないことを話す。笑顔の多い果代の表情に、香田は少しホッとした。さっきのは思い過ごしだったかな。
「そういえば、昨日、ハルモニアプラザいたよね」
 香田は定食の肉を箸で掴みながら何気なく口にした。
「お菓子の材料んとこいたでしょ。彼氏に作るの選んでたの?」
 返事がなかった。目をあげると、果代は耳まで真っ赤になっていた。
 あれ、間違えたかな、と思いながら口を開く。
「あ、ごめん、好きな男のかな?」
 え、あっと、う、と言葉を紡ごうと、果代の口はパクパクしたが、うまく言葉にならない。顔はゆでだこのようになっていき、いきなりばっと下を向く。香田はどう声をかけていいか困惑した。果代はしばらくして、下を向いたままゆっくり口を開いた。
「彼はいなくて、好きな人にあげようかと思ったんだけど、その人に彼女いるって分かったから、結局作らなかった」
 香田は自分の話題選択の悪さに眩暈がした。
「え、そうだったんだ。ごめん、余計なこと言って」
 頭を下げて謝った。果代は俯いたまま首を振ると、箸を持ってうどんに再び箸をつけた。
「まさかそんなとこを見られてたとは」
 果代はブツブツ言いながら真剣に落ち込んでいるように見えた。
「え、でも、好きな人いるなんていいじゃん。俺なんて研究ばっかりで好きな人もいなかったし、バレンタインとか正直昨日まで忘れてた」
 取りなすような香田の言葉に、果代は戸惑った表情を浮かべたあと、苦笑した。
「やだなあ、綺麗な彼女いるじゃん。怒られるよー」
「あー、彼女いたけど去年別れたから」
 香田はお新香に箸をつけた。バレンタイン前に別れたから、ちょうど1年経ったのか、と改めて思う。
「またー、嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ」
 そう言って目をあげると、心なしか果代の表情は怒っている。
「え、なんで森谷さんが怒ってるの」
「そういう嘘良くないよ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ、じゃあ、彼女でもない人と家で鍋食べたりするの?」
「え、鍋って何?」
 果代は視線を天井に向けた。その瞳からいきなり涙が溢れ出してきて、香田は動転する。
「え、なんで? なんで泣くの」
「もう、泣きたくないのにやだ」
 上を向いて目を見開いたまま果代は喘ぐように言葉を継いだ。
「私も昨日見たもん。香田君が綺麗な人と仲良く鍋の材料買って帰ってるの!」
 香田はしばらく黙った後、唐突に噴き出した。笑いながら、キョトンとした顔の果代を見ると、告げた。
「あれ、姉貴」
「えっ」
 果代の涙は止まり、みるみる顔が赤くなってきた。
「どうして森谷さんが泣くの」
「え、だって、あれ、お姉さん」
「そうだよ」
「私、やだ、えーー……」
 その桜色に染まった頬と、黒髪の対比を心から綺麗だと思いながら、香田は笑って言った。
「そのお菓子、土曜に俺が貰ってもいいのかな」
 果代は眩しそうに香田をみると、ゆっくりと頷いた。

 校舎の外では、沈丁花が甘い香りをあたりに振りまき始めていた。

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