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ドールズ 《4》

 ノーマにスープをもらった翌日、目をさますと既に日は高かった。母が夜中に部屋に来た夢を見た気がしたが、部屋にもリビングにも母はいなかった。珍しくあんなに美味しいものをたくさん食べたのに、既にお腹が減っていた。レイチェルはキッチンを漁ったが、何もない。普段はばらばらと無造作に落ちている小銭の類も全く見当たらなかった。

 部屋は荒れていて、母モニカの脱いだ服が散乱していた。何かを飲んだらしいカップが乱雑にテーブルに置かれている。レイチェルはしばらく考えたあと、ノーマに言われた言葉を半信半疑に思いながらも、空腹に負けて昼過ぎに店に行ってみることにした。

 遠目から伺って見ていると、ノーマの近くをチョロチョロと歩き回る幼い女の子がいる。あれが「チビ」と言われていた子か。やはり全然ノーマには似ていなかった。ノーマは明るい茶色の髪に白い肌、茶色の瞳だが、幼女は髪も目も黒色で、肌は日に焼けて浅黒かった。親戚とか孫だろうか。レイチェルはほんの少しだけ近づいた。

 店の横の、夜は立ち飲み場所になる小さな空き地を、幼女は行ったり来たりしていた。まるで親子のように付かず離れず、何かを拾ってきてはまたノーマの元に戻る。どうやらノーマの横でままごとをしているようだった。

 ノーマは夜の仕込みをしながら肉屋に来る客をさばいていて、幼女の世話はろくにできず忙しそうだった。レイチェルは幼女のそばに寄った。

 幼女は肩で切りそろえた髪を結わえもせず、小さな石を木のボウルに入れたものを枝で混ぜていた。

「これはねえ、おいしいスープ。キワとくせいの、たまごと、セロリと、ブロッコリ入りですよ」

 そんなことを言いながらご機嫌で混ぜている。レイチェルがそばに立つと、幼女はキョトンとして見上げた。レイチェルに向かって弱く笑いかけたが、レイチェルが戸惑ってしかめっ面のままでいるのを見ると、立ち上がって後退り、ノーマのスカートにしがみついた。

「ママ」

「どうしたの、ちょっと今忙しいのよ」

 ノーマは幼女を振り返り、キワの先にレイチェルを見つけた。忙しく動かす手を止めると、

「ああ、来てくれたのかい。今日は来ないかと思ってたから良かった。ご覧の通りさ。一番忙しい時間帯でね。この子、キワって言うんだけど、一緒に遊んでやってくれないかい。うちの中でも外でもいいからさ」

 レイチェルは頷いた。不安そうに見上げるキワに、ノーマはにっこり笑いかけ、諭すように言った。

「お姉ちゃんが遊んでくれるってさ」

 キワはパッと顔を輝かせて、レイチェルを見た。

「いっしょにあそぶの? じゃあ、まずおみせやさんごっこね?」

 花が開くように笑う。レイチェルはキワの笑顔が眩しくて、思わず目を細めた。ぎこちなく笑顔を返す。そうだ、名前を。

「私はレイチェル。よろしくね」

 ためらいがちに手を差し伸べると、キワはレイチェルの手を掴んで引っ張った。こっちに、たくさんお野菜があるんだよ、と言いながらぐいぐいと空き地に引っ張っていく。ノーマはホッとしたように遠ざかる二人に声をかけた。

「この子昼ごはんまだなんだ。ひと段落したら、二人でうちの中の棚にあるもんを何か適当に食べとくれ。この子が食べたがるものをなんでも食わせてやって。夕飯時刻まで手が離せないんだよ。あんまり遠くにはいかないようにね、頼んだよ!」

 レイチェルは引っ張られながら、聞こえるように大声で

「はい」

 と答えた。ノーマは手を振る。キワは小さな体の割に力が強く、ぐいぐいとレイチェルの手を引っ張って空き地の中を走る。でこぼこの空き地は走りづらい。土の凹みに足を取られてよろけ、隣のビルにぶつかりかけたキワを、レイチェルは後ろから抱きとめた。

「待って、キワ、そんなに急いだら転ぶよ」

「こっち! こっちだよ」

 抱えられて振り返ったキワの顔は、生き生きとしていた。レイチェルは、その屈託のない笑顔を見て、なんだかおかしくなってくすりと笑った。レイチェルの笑顔を見たキワは、一層顔を輝かせてするりとレイチェルの腕からすり抜ける。

「ねえ、追いかけっこしよう!」

 そういうと脇をすり抜けて走り出した。レイチェルも走って追いかける。天気が良い。空は抜けるように青く、冬なのに走ると汗ばむくらいの陽気だ。小さな空き地を、これでもかと言うほどぐるぐる回った。

 誰かから逃げるわけでもなく、天気の良い昼間、ただ走るためだけに走る。盗んだお金を隠さなくても良く、捕まってもしらばっくれる必要もなく、誰かに殴られることを心配するわけでもなく。

 レイチェルの心の中を、急激に羨ましさが渦巻いた。

「どうしたの?」

 立ち止まったレイチェルにぶつかるようにして止まったキワは、不思議そうに聞いた。レイチェルは頬をゆがめる。子ども心に、その羨ましさを口に出すのが憚られた。

「ううん。……えーと、キワは良いなあと思って」

「うん、キワは良いよ!」

 勢い込んで返すキワ。でも全然話がかみ合っていない。キワの語彙力ではまだうまく意味が掴めないようだった。レイチェルはうまく言葉が継げず黙ってしまった。キワは、あれ、何か間違ったかな、というような不安げな顔でレイチェルを見上げる。

 レイチェルは眉をしかめて自分を見上げるキワの様子がおかしくなって、吹きだした。レイチェルが笑い出すと、キワも笑顔になって声を上げて笑い返す。レイチェルはキワをくすぐった。キワはきゃーっと笑うとレイチェルをくすぐり返してくる。くすぐったくて絶えきれず、体を二つに折って地面に転がった。キワは転がったレイチェルにさらにつかみかかってくる。負けずにキワをくすぐり返す。二人で絡まりながら地面を転がると、レイチェルの目の前をキワの黒髪と、ビルの隙間に切り取られた青い空と、太陽が流れていった。

 しばらくそうして砂まみれになり二人で転げ回ったあとで、笑いつかれたレイチェルは空を見上げて転がった。キワは膝で立ったままレイチェルの顔を見たあと、真似して横にぴったりとくっついて寝そべった。

 キワの弾む息が聞こえる。横のレイチェルを転がったまま見上げているのが、そちらを見なくても分かる。レイチェルは息をついてキワを見た。キワはキラキラした目で、レイチェルを見上げていた。

 キワに自分の気持ちをぶつけても、何の意味もないことがレイチェルには分かった。その瞬間、キワという小さな生命に対しての愛しさだけが、レイチェルの胸に押し寄せた。

「ねえ、おなか空かない?」

 キワに向かって口を開くと、キワはがばっと身を起こしてレイチェルを見た。

「おなかすいた! いっしょにごはん食べよ!」

 レイチェルも身を起こすと、砂を払いながら立ち上がる。キワは立ち上がったレイチェルに自然な様子で手を伸ばし、レイチェルはその手をしばらく見て、そっと手を差し伸べた。キワはレイチェルの手を躊躇なく掴む。キワの手のひらは小さかったが、力強く、ほのかに汗ばんでいた。

 それから、だいたい毎日レイチェルはノーマの店に通った。母モニカにはうまく言えず、どこに行くかは黙っていたが、モニカはレイチェルが家にいない時間が増えたことを訝るわけでもなく、常にイライラしていた。なんだか仕事がうまく行かない、とか、そんな話を聞かせるでもなくすることが増えていたように思う。イライラして怒鳴られるのはレイチェルも好きではなかったので、積極的に家を空けた。モニカは気づいていたのかいなかったのか、何も言わなかった。

 ノーマの店はいつも忙しく賑やかだった。最初にレイチェルの襟首を捕まえたおじさんも、二ヶ月も経つ頃にはすっかり顔なじみになり、今では時折駄賃をくれるようにすらなっていた。レイチェルはキワの子守だけではなく、ノーマの手伝いも暇を見つけてはやった。ノーマが手伝うように言ったわけではなかったが、なにもせずにただ良くしてもらうことにレイチェルが慣れていなかった。ノーマはいつもサバサバとしていて、レイチェルが手伝おうが手伝うまいが、まるで気にしていないように見えた。

 春が近づくしとしとと雨の降る日、肉屋の二階でレイチェルと遊んでいたキワは、昼ご飯のあとに遊び疲れて眠ってしまった。少し風邪気味のようで、すぴすぴと鼻を鳴らしている。レイチェルはキワが寒くないようにひざかけをかけてやった。

 キワが寝てしまったことを告げるためと、何か手伝う事がないかを聞きに、レイチェルは階下に降りようとした。まだ仕込みの時間前のノーマは店先で、椅子に座って馴染みの女客とお茶を飲みながら何かを話しているようだった。

「なんだかあの子、レイチェルだっけ? すっかり居着いちゃって、あんた大丈夫なのかい。うっかりした頃になんか盗られたりするかもよ」

 そう重々しく忠告する客の声が聞こえて、レイチェルは階段の上で身を固くした。階段から身をかがめて階下を覗くと、ノーマの背中が見えた。ノーマはさもおかしそうに笑う。

「あの子はそんなことはしないだろうさ」

「そうかねえ、ここいらの悪ガキはみんなうっかりできないよ。こないだもうちの玄関にぶら下げてたニンジンがいつの間にかなくなっててね。内側だよ玄関の。さっと開けてひゅって盗ってくんだよ」

 いまいましい調子の声が響く。レイチェルは座り込んでうつむいた。自分もノーマの家に通うまでは、餓えに絶えかねてあちこちでちょっとしたものを盗ってしまったことを思い出した。

 ノーマのため息が聞こえた。

「そりゃみんな、腹が減ってんのさ。死にたくなけりゃなんでも盗るよ。あの子にはちゃんと食わしてるから、それ以上のものを盗ってったりはしないよ」

 女の怪訝な声が続く。

「そこさ、あんたは一体、あの子に何の見返りを期待して、ああやって飯を施してるんだい? 母親を見りゃそのうち良い女になりそうではあるけどさ。売り払った金で老後でも見据えてんのかい」

 意地の悪い声に、レイチェルの胸をすっと水のような冷たさがさした。

「ははは、そりゃいいね」

 とノーマはあっけらかんと笑う。笑いながらカップを置いて、ため息まじりに

「そんなに長生きできりゃいいけどね」

 と言うと、さてそろそろ仕込みの時間だ、また夜来ておくれよ、と明るく女に告げた。女は何かをぶつぶつ言いながら去っていった。

 降りるに降りられなくなったレイチェルは、もう一度、足音を忍ばせて二階に上がって何も聞かなかったことにするか、迷っていた。しばらく女を見送って店の外を見ていたノーマは、レイチェルが座り込んでいる階段の上に視線を上げる。まるで最初からレイチェルがそこにいるのに気づいていたかのように。レイチェルは、ノーマの変わらない優しい視線を見て、泣きそうになった。

「レイチェル、そこで聞いてたんだろ。こっちに来て、仕込み手伝っとくれ」

「はい」

 レイチェルは知らない振りをするのをあきらめ、観念して降りた。レイチェルが横に立つと、ノーマは人参を数本渡して洗うように言い、自分は大きな肉切り包丁を出して、傷みそうな肉をいくつかショーケースから出すと、手早く切り分け始めた。

「キワは」

「寝てます。なんかちょっと、風邪っぽくて。鼻が詰まってる」

「そうかい」

 ノーマは何でもなさそうにガスガスと肉を切り分ける。レイチェルは黙って人参を洗いながら、さっきの話をもう一度聞いたほうがいいのか迷っていた。

 でも、もし、「そうだよ、売るためにお前に飯を食わしてるんだ」と言われたら。いや、どこかでずっとそう言われるかもしれないと思っていた。そうしたら、もうここに来なくなるまでだ。

 でも。だけど。

 そしたら、キワと、ノーマと、この穏やかな日々がなくなってしまう。レイチェルはそうなら諦めをつけなくてはと、黙ったまま頭の中で忙しく思いながら、諦めきれない気持ちが大きく膨らみすぎて、どうしたら良いのかわからなくなり、ついに涙が溢れ出てきた。手で拭うと泣いているのが分かってしまいそうで、手は人参から動かせない。涙は頬を伝ってはたはたと手元に落ちた。

 ノーマがしばらくして、黙って手を動かしながらも泣いているレイチェルに気がついた。

「おやどうしたい、泣いてんのかい」

「……泣いてません。ちょっと、あの、水が目に入っただけ」

 我ながら下手な言い訳だと思ったが、他に何とも言いようがなかった。

 ノーマは少し眉を上げて肉を鍋に入れると、水をザバザバと流し込み、レイチェルから受け取った人参を切ると無造作に鍋に放り込んで火をつけた。レイチェルはなるべく鼻をすする音がしないように注意深く袖で涙をぬぐう。何度も何度も繰り返し気持ちを落ち着けようとしたが、悲しくて悲しくて涙は止まらなかった。

「レイチェル」

 鍋に目をやっていたノーマが、レイチェルを振り返り、布巾を手渡した。

「いろいろ考えてたんだけどね。やっぱり何の見返りも期待してないかって言われると、全然ないわけじゃない」

 レイチェルの胸がギュッとした。黙ったまま、差し出された布巾に手を伸ばした。もう泣かない。明日から、ここには来ないことが、これで決まったのだ。優しさには裏があった。それはこれまでもずっとそうで、別にショックを受けるようなことじゃない。もしかしたら、そうじゃないこともあるのかもしれないと、勝手に信じかけてただけ。やっぱりそんなことはなかった。

 レイチェルは布巾を受け取り、顔をごしごしと拭いた。きっ、とノーマを見返す。

 ノーマは、寂しそうな、それでいてとても優しい顔で、レイチェルの方を見ていた。

「私は見ての通り、もうどっちかっていうと五十に近い。キワはまだ四歳だ。あんたの二つ下。なんで私の子どもになったかは……まあ話すと長いんだけど、いろいろあってね。たまたま近所にいた私が、拾ったんだよ」

 レイチェルはノーマが何を言いたいのか、良く飲み込めずにそのまま話を聞いていた。

「あの子の両親は、二人で海を渡ってこのコーラルシティにたどり着いたのさ。漂流移民ってやつだよ。この近所に住み着いてね。奥さんはおなか大きいけど大丈夫かねって思ってたら、そのうち無事に生まれたみたいで、まあ二人して頑張って育ててたよ。移民だとあんまり仕事もないし、だけどまあ旦那さんは割と器用なタチだったみたいで、細々とね……。

 でもちょっと良くない仕事に手を出しちゃったみたいで、二人とも見せしめにやられちまった。あの子はたまたまぐっすり寝てたんだろうさ、私が気にかけて総菜を届けに行ったときに、ちょうど泣き始めたのが聞こえて、でも奥さんの声がいつまでもしないから、ドアを開けて様子を見たら、二人とも床に倒れてた。

 この辺りのいい加減なところで、赤ん坊は見つけた私が育てるか、児童施設に入れるかって言われて、私もちょいちょい会ってた子だし、まあこう見えて食い物扱ってる商売だから食うにはそんなに困らないし、旦那はとうに死んで独り身だし……。寂しさもあったんだろうけど、ついほだされて引き取っちゃったのさ」

 ノーマは棚の上から小さな古い布を出してきた。あまり見たことがない細かい模様がついている。

「これは刺繍っていうんだよ。古い縫い物の技術。海の向こうでは、大事な人を護るために布につける模様なんだって。……これにくるまれて、キワは寝てたんだよ。本当に、護られてね」

 レイチェルが布を受け取ると、布の端には文字のような縫い取りが見えた。

「キワ・ノミヤマ。これがキワの名前さ。ここらじゃあんまり聞かない名前だろ」

 レイチェルは頷く。見知らぬ文字のそれがキワの名前なのかとぼんやり思った。

「……まあ引き取ったのはいいんだけど……。私は結構な年だろ。ここらで頑張ってやって行くにも、このあと何十年もってわけにはいかない。若かったとしても、キワの親みたいにあっさりおっちぬような土地柄だしね。キワがこれから……学校を卒業するまで果たして私が元気に見られるか。歳のせいか、不安でね。誰かが必要だと思ってたのさ。だから」

 ノーマは言葉を区切った。

「ごめんよ、レイチェル。あんたを姉妹みたいに仲良くさせたら、将来私がいなくなっても、キワをどこかで見ていてくれる人ができるって、そう打算したのさ。打算ってわかるかい。見返りを期待するってことだよ」

 レイチェルは理解しようと聞いていたが、どこで自分を売る話になるかだけを注意深く聞いていたので、うまく話が繋がらなかった。訝しげなレイチェルに、ノーマは少し笑った。

「あんたはキワと歳が近い。三つ子の魂百までってね。あんたをキワの身内にしときたかったのさ。あんたのためにもね」

 レイチェルはしかつめらしい顔のまま、頷こうかどうしようか迷っていた。

「まあまだまだ私も元気なつもりだし、とりあえずはこのまま仲良くやっていこうじゃないか。私があんたに期待してるってのはつまり、私に何かを返してくれなくても良くって、私があんたにやってやったことをキワに返してやってくれってことだよ」

 ノーマはそう言いながらレイチェルの頭をポンポンと叩くと、さて仕込みを続けるよ。そろそろお客さん達が来はじめちまう、と鍋の方を向いた。

 レイチェルはしばらくぼんやりしていたが、どうやらノーマには自分を売り払ったり自分を働かせて元を取ろうと考えているのではなく、キワの面倒見役として自分をあてにしてるのだと何となく理解した。

 急に安堵が押し寄せる。固く結ばれていた唇が緩み、ほうっとため息が漏れた。

 良かった。この居場所は、まだなくならない。

 幸せな気分のまま家に戻ると、珍しくモニカが自宅で酒を飲んでいた。レイチェルは気まずい気持ちで小さくただいまと言うと、そのまま通り過ぎようとした。

「どこに行ってたの」

 機嫌の悪そうな声が、冷えた家に響いた。レイチェルはだまってやり過ごそうとしたが、母がじっとこちらを見ていることに気づいて足を止めて俯く。

「あんた、ちょっと先の肉屋に入り浸ってるんだって?」

 レイチェルは母をちらと見た。美しいブロンドだった髪には白髪が交じり始めていて、細い手足には血管がうっすらと浮いて見えた。レイチェルが黙ったままなのにイライラしたように、モニカはレイチェルを見据えたまま口を開いた。

「何よ、その目。あんたも私をバカにしてるの。どうせあんた、美味しいもので釣られてあの店主にダマされてるのよ。ちっさいからそんなことも分からないんでしょう」

 レイチェルは、違う、と口を開きかけて、何も言わずに閉じた。どうせ言っても分からない。余計怒らせるだけだ。

「何か言いなさいよ、鬱陶しい。いっつもむっつり黙ってるだけ。心の中で私のことを笑ってるんでしょう。肉屋の婆さんだってどうせこんなかわいげのない子、すぐ飽きて捨てるわよ」

 今日はひどく酔っているようだった。レイチェルは部屋に逃げようか迷って、結局黙ったままあきらめてその辺に座った。家は散らかっていて、物が多くてもそれなりに納まっているノーマの家に比べると、かなり居心地が悪く感じた。レイチェルが座ったことに少し気を良くしたのか、モニカは続ける。

「ああやっぱり、家を出るんじゃなかった。そしたらこんなことにはなってなかったのよ。ママの言うことを聞くべきだった。わかる? あんたも私の言うことをちゃんと聞いてなかったらどんどん転落するのよ。このコーラルシティではね、ちゃんと身分を持った大人しか働けないの。自分の力で何でも出来るなんて、思い上がりなのよ。あんたもそのうち身に染みるわ」

 レイチェルは黙って聞いていた。ノーマのくれた古いストールが首元から柔らかくノーマの家の匂いを立ちのぼらせていた。この家の、冷たくかびたような匂いとは違う、温かな匂い。キワの明るく幼い空気も首元にほのかに閉じこめてきているようで、レイチェルはモニカに気づかれないように冷たい鼻先をストールに埋める。モニカはもはやレイチェルに向かって話してはいなかった。

「どうしてこんな暮らしになっちゃったのかしら。あのとき、そうだわ、あのときあの人に出会わなければ。ちょっと社会勉強して、それですぐ家に戻るつもりだったから、そうよ、あのときにあの人に出会わなかったら。あんたを産もうなんて思わなければ」

 レイチェルはどきりとする。耳をふさぎたかった。

「ちょっと、何か話しなさいよ。辛気くさい顔して、ああもう本当に、なんでこんなことになったの。あんたなんか産まなければよかった」

 モニカのその言葉がレイチェルの心に氷の楔を打ち込んだ。レイチェルはその痛みに気づかないふりをする。みしみしと音を立てて、楔から広がった氷はレイチェルの体を冷たく凍りつかせていくようだった。

 寒い。この家は、寒い。

 レイチェルは目を伏せた。


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