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天体観測

4月アンケート 少女と男のスペースファンタジー篇
大変お待たせいたしました…。

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 その銀色の大きな筒は、いつもと同じように床の暗い空に向かって伸びていた。ひと抱え以上もある太い筒は、鉄の鈍い輝きを放っている。

 カナメはその筒にそっと手のひらを当てた。黙ったまま冷たい筒を撫でる。

「……すまないけど、今日はそれに触れないでくれるかな」

 はっとした様子でカナメは振り返った。お下げにした黒髪が長く揺れる。

「ごめんなさい」

 まだ幼さの残る顔立ちは、すまなそうにそう詫びた。

「怒ってるわけじゃないんだ。今夜は大事な観測があって、既にプログラム済みなものだから。なんでもない日は好きに見てもいい」

 しゅんとした様子のカナメに、ヤンは慌てたように付け加えた。困ったように頭に手をやる。そのまま窓に目を向けた。大きな窓の外には無数の星がきらめいている。

 しばらく宙を見ていたが、目をもう一度少女に向けると、少しためらいながら口を開いた。

「星を見たいなら、もう一つ小さな観測望遠鏡があるから、そっちを使ってみるかい」

 カナメはぱっと明るい顔になって、こくんと頷いた。

 やれやれ。

 ヤンは小さい補助の望遠鏡をセットしてやりながら、少女に時々目を向ける。黒い髪に黒い瞳。賢しげな鼻筋の通った顔立ち。控えめに見ても綺麗な少女だった。大人びた印象だが、物静かで、昼間は書架で本を読んだりして過ごしていたようだった。

 ヤンは昨日のことをまるで何日も前のことのように思い出した。一日がひどく長い。

 昨日の夕方、久しぶりに義弟が訪ねてきた。三年前に亡くなった妻ナタリアの弟だ。三年前の葬儀以来に会うアランは、少し疲れた表情でこの少女、カナメを連れてきた。

「義兄(にい)さん、突然で本当にすまないんだが、この娘を一週間……いや十日ほど預かってほしいんだ」

 どういうことかと訝るヤンに、アランは詳しいことはまたゆっくり話すけど、と前置きしてから、

「彼女は、ちょっと追われていてね……。安全な場所にかくまう必要があるんだが、ここにちょうど興味があったようだから」

 と言った。アランの仕事は警察官だったことを、その言葉で思い出す。突然のことにヤンは驚き、

「そんな理由で少女なんて預かれないよ。ナタリアが生きていた頃ならまだしも、男やもめで一人暮らしの観測所に、こんな女の子を預けたなんてご両親に知れたら、そっちの方が問題だろう? だいたい、そういう時は警察で預かるのが普通じゃないのか」

 と答えた。アランはすがるような目で

「どうしてもここじゃないと駄目な理由があるんだよ」

 と重ねる。ヤンは渋面のまま、亡き妻によく似た義弟を見つめた。困った顔になると余計妻に似ている。その困った顔を見ているのが辛くなり、目を地面にうろつかせた。何を言っても帰りそうにない。

 ため息をついて少女を見ると、少女は心ここに在らずといった様子で観測所の地上施設を見上げていた。長く編んだおさげが風に揺れる。ヤンはしばらく迷った後、少女に声をかけてみた。

「君も、どこの誰だか知らない男性の家に預けられるのなんて困るだろう?」

 少女は、その言葉に初めてびっくりしたように、あ、と言ってヤンを見た。ヤンのことは眼中になかったようだった。

「あの、私は……大丈夫です」

 ヤンの思惑に反して、少女はおずおずとそう答えた。

「必ずわけは話すから」

 少女の答えにかぶせるようにアランが言う。ヤンは大げさにため息をつくと、わかった、と言って両手を上げた。

「必ず十日だぞ」

 その言葉に、恩に着るよ、と言って、義弟は去っていった。

 残されたヤンと少女は、アランの背中を見送り、その姿が小さくなるとお互いにお互いをじろじろと見た。ひとしきりそうしていたあと、少女は意を決したように右手を差し出すと、極めて儀礼的な微笑み(とヤンは感じた)を浮かべて

「名前はカナメ、十三歳。自分のことは何でも自分でできます」

 と言った。ヤンは少女の手を握り返しながら、

「それはありがたい。君のことは、ほんの少しの間部屋を貸すことにした姪だと思って接するよ。残念ながら子供がいなかったので、君くらいの年頃の子にどうやって接すれば良いのか、僕にはちょっとわからなくてね。失礼があったらその都度指摘してくれないか」

 と返した。実際、自分が子供の頃に学校で会っていた時以来、こんな年代の少女と接する機会はなかった。遠い昔のことを思い返しても、その年頃の少女たちは少女だけのグループで固まってクスクスと何かを話していたくらいの印象しか残っていない。時折子供のように騒がしく、時折ひどく大人びた調子で話し、くるくると表情が変わっていた。笑っていたかと思えば突然怒ったり泣いたりしていたようにも思う。

 どちらにしろ苦手な印象を持った思い出しかない。

 かといって、あまり本人の前で憂鬱な顔を見せるのも失礼だろうと思い、ヤンは大人の女性を案内するように、できるだけ親切で丁寧な態度でいることにした。

 一通りの部屋の案内をし、客間に荷物を置かせると、夕食まで好きにしていていいと言い残し、ヤンはそそくさと観測室に戻ろうとした。

「あの、ここは天体観測所でしょう?」

 カナメはそう言って、そばを離れようとしたヤンを呼び止めた。ヤンは振り返り、

「そうだが」

 と訝しげに答える。

「あの、私、天体観測が好きなんです。もし良かったら、邪魔はしませんので、観測の様子を見ていても良いでしょうか」

 ヤンは言葉に詰まった。彼女が興味を持ったというのは、そういう意味か。

 しかし、集中力や計算が必要な仕事に、このような少女が同席してうまく普段通りに進められるかどうかを不安に思った。しばしの間考え込む。カナメはヤンの気持ちをはかろうとするように、ヤンの顔を見たり床に目を落としたり落ち着かない様子を見せている。ヤンはためらいながら口を開いた。

「そうだな、仕事なので、解説などはできないが……それでも良ければ」

 カナメはぱっと顔を輝かせ、静かにしていると約束します、と明るく答えた。

 観測室に向かいながら、カナメは興奮を抑えきれないように、自分が学校の天文クラブに所属していて、本当は三年生になったらみんなで天体観測センターに合宿に行く予定だったのに、行けなくなってしまったのを残念に思っていたこと、でも火星コロニーの一つを訪れることは夢だったこと、を、ヤンに矢継ぎ早に話した。

「本当に残念に思っていたんです。だから、こんな有名な観測チームに所属している観測所に来られるなんて、思いもしていなかったので、あの……」

 そう言ったきり黙って、ごめんなさい、と唐突に呟いた。

 ヤンはむしろ微笑ましく話を聞いていたし、突然落ち込んだ様子で謝るカナメに面食らった。ヤンが振り返ると、カナメは

「静かにしているって言ったのに、早速うるさくしてしまって、ごめんなさい……」

 と消え入りそうな声で再度謝る。

「いや、別に怒っていない。そうなんだと思いながら聞いていただけだ。聞いているときに僕が黙っているのは性分だ。君が謝らなくていい」

 そうヤンが言うと、ホッとした様子だったが、そのあとは終始黙って付いてきた。

 やはりこの年頃の女の子はよくわからないな。

 ヤンは少女に聞こえないように軽く溜息をついた。階段を下りながら、ナタリアにも、あなたは話を聞いているのかいないのか本当に分からないわ、と呆れたように笑われたのを思い出した。

 それが昨日のことだ。結局その夕刻は、本当にヤンの仕事を側のカウチに腰掛けてずっと見ていただけだった。一言も話さずに夕飯の時刻まで大人しく見ていて、夕飯後は素直に寝たようだった。朝起きると彼女が作ったらしい朝食があり、礼儀正しく朝の挨拶を交わした。その後は、書架の場所を教えたらずっとそこで宿題と勉強と読書をしていたようだった。

 変わった子だ。

 ヤンはそんなことを思い出しながら小さな補助用の望遠鏡をセットしてやった。カナメに使って良いと勧めると、手馴れた様子で設定をいじり始めた。自分の端末を取り出すと、星図を立ち上げる。それは鈍い赤色で全ての情報が表示され、天体観測専用のツールだということが分かった。天文クラブに所属しているというのは本当らしい。

「何を見るんだい」

「地球です。今、最接近してるから」

 位置の座標を表示すると、手で合わせ始める。

「反射式を使ったことがあるんだね。コンピュータ、繋がってるけど。数値を入れたら座標に合わせて自動で表示されるタイプだよ」

 カナメはヤンを見て恥ずかしそうに笑った。

「うちの学校の望遠鏡も、古くてこれよりは小さいんですが反射式。でも壊れてて手で合わせるしかないから、こっちの方が慣れてるんです」

 その言葉を聞いて、そうかい、とヤンも笑う。ふと時計を見て、自分の観測までの時間を計った。まだ一時間近くも先だ。休憩しながら待つことにしよう。

「コーヒーか、お茶でも?」

 声をかけたが、カナメは一心に望遠鏡を覗いていて、答えない。ヤンの言葉は聞こえていないようだった。ヤンはとりあえず自分のコーヒーを観測室のミニキッチンで淹れる。カップを口に運んだタイミングで、

「見えました!」

 という興奮したカナメの声が観測室に響いた。

「すごい! 学校の望遠鏡より、すごく綺麗に見えます!」

 目を離さずにカナメは嬉しそうに言う。

 そりゃあそうだろう。ヤンは苦笑した。補助用とはいえ、そこらへんの望遠鏡とは比べ物にならない大きさだ。火星の軌道を回っているこのスペースコロニーからでも、最接近時であれば地球から月を覗くくらいの精度で地球の観測が可能なタイプだった。

 とはいえ、ヤンはたまにしか使わなかった。席の近くに昔から使っている比較的小さな望遠鏡が据えてあり、わざわざ席を立つよりそれを使ったほうが早かったからだ。

 ヤンはコーヒーに口をつけた。ナタリアはあまり星を見たがらなかった。地球は中でも特に。なんだか帰りたくなるからだと言っていた。生まれてから一度も住んだことがないのに、無性に帰りたくなるからだ、と。

 地球から見る月くらいの大きさ、というのは、本当はどのくらいの大きさなんだろうな。体感として。

 ヤンはコーヒーをすすりながら、しきりに望遠鏡で地球を追いかけるカナメを見ていた。カナメは飽きずにずっと地球を見ていた。

 そんな風にして数日が過ぎた。礼儀正しく起き、礼儀正しく日中は別々に過ごし、夕刻は観測室に集まって天体観測を行う。ヤン達が住んでいる火星衛星型スペースコロニーでは、日没とみなす照明オフは午後四時半からと決まっているため、だいぶ暗くなる五時頃から観測は始まった。

 ヤンはスペースコロニーの観測チームで取り組んでいる観測がないときには、大望遠鏡をカナメのために合わせてやった。こちらは重すぎるために手で動かしたりはできない。しかも仕事用なので、コンピュータにはヤンがログインする必要があった。

 カナメは地球ひとしきり観測したあとは、太陽系の惑星を一つずつ見ていった。惑星が終わると、それぞれの惑星の小惑星を。そのあとは太陽系に関わる彗星を。

 ヤンはカナメが見たいという星に座標を合わせてやりながら、何気なく聞いた。

「遠くの星はあまり興味がないのかい」

 カナメは少し考えて、

「……姿形が詳細に見える方が、親近感が湧くんです」

 という答えを返した。ヤンにはさっぱりその気持ちが分からなかったが、まだ幼い(とヤンは思った)少女にとってはそういうもんなのかもしれないな、とぼんやり思った。

 夕方の観測が終わって二人で夕食を食べていると、突然ヤンの端末が鳴った。

「失礼するよ」

 そうヤンは断って立ち上がると端末を取り上げた。アランからの通信だった。

「はい」

「義兄さん」

 少し切羽詰まったようなアランの声が耳に響く。

「今、家にいるかな」

 ヤンは、訝しげに返した。

「ああ、今、カナメと夕飯を食べていたところだよ」

「それは良かった。ところで、しばらくしたら客が向かうと思う。カナメを迎えに来たと話すだろうが、そいつには彼女を渡さないようにして欲しいんだ。できれば、もう帰ったと伝えてくれ。彼女は今すぐ安全で窓のない部屋に」

 早口でそう告げるアランの声に、ヤンは少しだけ口をつぐんでから、ゆっくり聞き返す。

「どういうことだ?」

 アランはやや苛立ったように重ねる。

「彼女を誘拐しようとしている奴がそちらに向かっている、という事だよ。僕達もすぐに向かうから。それまで彼女を頼む」

 それだけ告げると通信は切れた。ヤンは端末を手に持ったまましばらく考え込み、それから端末を操作して全ての扉と窓を施錠した。カナメを振り返る。

「アランから……君は窓のない部屋に隠れるように、と」

 困惑しながら話すヤンとは裏腹に、ヤンの電話中も食事を続けていたカナメは大人しく頷き、空の食器を手にして立ち上がった。そのまま立って食器をキッチンに下げると、

「書庫にいても?」

 と訊く。ヤンが、ああ、と言うと、片付けお願いします、と告げてさっと階段に向かって行った。おさげの黒髪がひるがえって廊下の向こうに消えるのを見送って、ヤンは残された自分の食事と、空っぽの席を見た。カナメの食器は片付けた方が良い気がして、先に食器を洗い、拭いて棚にしまった。それからゆっくり自分の席に着く。

 食事の続きに手をつけ始めたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 ヤンは口を拭くと、端末を手に取り、インターフォンに応対する。

「はい」

「警察です」

 そうモニタ越しに名乗る男達は、そろいの制服を着ているように見えた。

「はい。どうされましたか」

「こちらに、誘拐された少女がいるという通報がありまして」

「誘拐?」

 ヤンが驚いて聞き返すと、男たちは帽子を少しだけあげて、いかめしくカメラを睨みつける。一人が低い声で話しかけた。

「ええ、隠し事はためにならないと思いますよ、スターゼフ博士」

 ヤンは少し考えてから、

「確かに今朝まで少女を預かっていましたが、他の預かり先が見つかったと、昼前にはここを出て行きましたよ」

 と静かに答えた。男たちは二人でひそひそと会話し、カメラに向き直る。

「詳しくお話をお伺いしても? 開けてくださいませんか、長居はしませんから」

 ヤンはため息をついた。

「これから観測が始まるので、明日の朝に出直していただけないだろうか」

 そう答えると、男たちは矢継ぎ早に

「何かやましいことでも?」

「少女が本当はいるとか」

「ほんの数分です、お手間は取らせません」

「あまり抵抗するならそれなりの手段をとらせてもらいますが」

 と次々に言った。ヤンは二人に気のすむまでしゃべらせた後に、口を開いた。

「ではNASCAに確認していただいて構わない。本日二〇時より全スペースコロニーをまたいだ観測チームにより、我が天の川銀河中心のブラックホール観測会が予定されている。もし、君たちがNASCAに確認し、それよりも捜査が優先だというのなら、この第3天文観測所が観測を中断する許可を取ってくれたまえ。その許可がおりたらいくらでも付き合おう。しかしこの観測を私が欠席することを、しかるべき機関に許可を取れないのであれば、私は責務を全うしなくてはならない。本当の捜査なのであればそれくらいの確認は造作もないことではないのかね」

 ヤンの言葉を聞いた男たちは怒りで顔を歪めながら、そんなことを言って少女を隠しだてするとは、やましいことがあるんだろう、というような主旨の言葉を口々に言い募った。

 ヤンは時計を見た。二〇時まであと十五分。あまり時間稼ぎはできなさそうだ。アランはいつ頃くるのだろうか。先ほど電話があってからゆうに十分は経っている。男達よりもあとにこちらに向かったとなれば、まあそれなりに時間がかかるということなのだろう。ふと、端末の向こう側が少し静かになったのに気づき、ヤンは時間稼ぎに口を開いた。

「そろそろ観測の準備に入りたいのだが、用件はそれだけかね?」

 男達の言葉をまるで聞いていなかったかのような口ぶりに、男達は激昂し、口汚く罵り始めた。ヤンはうんざりしたように端末に向かって告げる。

「ところで今までの内容は全て録画させてもらっているんだが、所属はどちらかな。あまり感心できる捜査ではなさそうなので、一度こちらの録画を警察署に提出しようと思うのだが。それとも所属は名乗らない主義かな? そうすると、まず一般的な捜査とは言えないようなので、詐欺なども見据えて緊急コールセンターに」

 そこまで言ったところで男達は乱暴にインターフォンを殴りつけ、映像は途絶えた。

「……これは、あとで弁済してもらえるんだろうか……。観測所の備品なんだが」

 ヤンは端末を見つめた。軽くため息をつく。こんな面倒ごとに巻き込まれることになるとは、アランももう少し言っておいてくれれば心構えもできたのに。

 端末の表示を外部カメラに切り換えた。男達は手分けして手当たり次第に窓をのぞき込んでいる。窓のない部屋に、と告げたアランの言葉も、あながち的外れではなかったのだな、と思いながら、カメラを切ってアランに通信をつなげる。

「義兄さん、何かあったか?」

「そうだな、あまり風体のよくない男が二人きて、さっそく観測所のインターフォンが壊されたようだ」

「それは申し訳ないことをした。カナメのことは?」

「今朝帰ったと言ったよ。信じてはいなさそうだが」

 ヤンはちらと階段の方を見た。あとで見に行った方が良いか、それとも、あの部屋に念のためにカナメを移すか……。

「そちらに向かっているのだが、少し手間取っていてね。あと三十分はゆうにかかりそうだ。その間、なんとかしのいで欲しい」

 無茶を言う義弟だ。この一般市民の僕にどうしろというのだ。

「立てこもるくらいしかできないが、その間に観測所の設備に何かされたら困るんだがね……」

 渋々と言葉をつなげるヤンに、アランは

「すまない義兄さん、恩にきるよ」

 と、いつか聞いたのと同じセリフを告げ、ヤンが口を再び開く前に通信を切った。

 彼が本当に恩を感じているのかは甚だ疑問だな。

 ヤンはため息をつきながら端末を置き、食器を手に立ち上がると、キッチンに下げた。洗うのはあとでも良いか、ともう一度端末を取り上げ、ひとまず外の様子を確認すると、どうやら施設の周りにはさらに人が増えている。警察官らしい格好はしていなかった。銃器の類は見えないが、携帯している可能性は高い。

 あまり素行の良さそうな感じではないな。

 ヤンは念のため観測所のロックを確認した。カナメのところに行こうと階段を下りかけて、手にしている端末から小さく爆発音が響く。見ると、観測所の入り口を破壊しようとしているのが分かった。

 観測所は、コロニーの地下にある。地下に深く潜ると、宇宙側。入り口は最上階だ。

「素行は予想通りだな」

 そう呟きながら、ヤンはアランに、連中は待ちきれないみたいだから、急いで頼むよ、とだけメッセージを送り、足早に書庫に向かった。

 書庫の扉を開けると、はじかれたようにカナメが顔を上げて扉を見るのが見えた。手に本を持っている。

「ちょっと移動するから、何冊か読みたい本を持っておいで」

 そう言うと、カナメは近くの棚から数冊の本を抜き取った。すぐにヤンのもとに駆け寄ってくる。ヤンがちらとみると、昔ヤンが好んで読んでいたSF小説だった。

「懐かしいな」

 そう言いながら書庫をしめる。カナメを促し、急いで階段を下りる。端末からは、幾度も爆発音が響いた。さっき二重ロックをかけておいたから、そう簡単に壊れないとは思ったが、いささかの不安が胸をよぎる。

「ここへ」

 ヤンが指し示したのは、観測室の隣にある扉だった。窓がなく、いかにも重厚そうな扉は、重い見た目とはうらはらにヤンが手をかざすと即座に開いた。中は観測室と同じくらいの広さだが、どちらかというと居住性に重きを置いたような作りになっている。

 カナメは一瞬ためらったあと、中に入った。ヤンはすぐに扉を閉めると、端末に素早く指を動かした。

 がしゃん、がしゃん、という重い音が遠くからかすかに響く。

「何の音?」

「全ての防火扉を閉めておいた。アランが来るまでもつことを祈るよ」

 端末からは更に大きな音が響いていた。ついに入り口は破壊され、リビングに数人が入り込んできたのが見える。手当たり次第に物色しているのがわかり、ヤンはため息をついた。

「あんまり壊さないで欲しいなあ……」

 そう独りごちるヤンに、カナメは控えめに話しかけた。

「あの、私のせいで、ごめんなさい」

「ああ、そういう意味ではないんだよ。いやまあ、そういう意味なのかな」

 困ったように話すヤンに、カナメは曖昧に笑う。

「この部屋は?」

 不安そうに尋ねるカナメに、ヤンは

「ああ、そうだね、この部屋はうーん、なんて言ったら良いんだろう、宇宙への脱出ポットを兼ねたパニックルームとでも説明したら良いかな。あまり準備なく宇宙に飛び出したり火星に避難したりはしたくないんだけど」

 ぶつぶつ言うヤンから視線をそらすと、カナメは辺りを見回した。ヤンもつられて視線を動かす。

「ああそうだ、こうしたらいいかな」

 ヤンが端末を操作すると、床の一部が透明になった。足下に大きく火星の赤い地面が見える。

「火星」

「うん。残念ながら窓ではなくてモニターだけどね。窓がないから閉め切ると圧迫感があるし。こういうこともできる」

 ヤンが端末を操作すると、カナメが今立っている場所を含め、部屋の床全体がまるで消え失せたかのように透明になり、火星の上空に二人はポツンと浮かんだ。

 カナメは身じろいだ。

「ちょっと怖いかも」

 ヤンは端末を操作して、投影を床の一部だけに戻した。

「どうしてこんな部屋が?」

 ヤンは眉を上げた。

「法律だからね。安全を確保するためのシェルターは。きみの学校にもあっただろう?」

 当然のようなヤンの問いかけにカナメは答えに詰まり、訝しげな顔をしたヤンに、小さな声で返した。

「私、地球育ちだから」

 カナメの答えにヤンはしばらくぽかんと口を開けた。

「まさか、アーシアンなのか」

 あっけにとられたように言うヤンから、カナメは半歩退いて、目を伏せながら答える。

「そう」

「じゃあきみの両親って言うのは」

「今、火星を往訪している地球からの使節団のメンバー」

 ヤンは開いた口を閉じ、また開け、そうか、と言って頭に手をやった。

「なるほど。そりゃあ、大変だったな」

 そう言うと、しばらく顎に手を当てたままカナメをじろじろと眺める。カナメが居心地悪そうに身じろぎするのに気づいてから、急にきまりが悪くなった。手をあげ、視線をそらす。

「失礼、初めてお会いするのでつい。どうぞ、かけて」

 カナメは部屋を見回すと、小さな白いクッション型のスツールをえらび、腰掛けた。

 ヤンも、足元のモニタが映し出す火星の大地を挟んだ向かい側で椅子に腰をおろす。二人は少し離れた場所で、赤い砂色の水のプールのへりに座って、赤い水に足をさらしているような形になった。

 まだヤンの端末からは防火扉を壊そうとする音が響いている。ヤンはちらと端末を見ると、アランにだけ、不穏な連中に玄関扉を突破されたことと、二人は脱出ポットに避難して無事なことを送っておいた。そのまま端末はスリープ状態にする。端末から鳴り続けていた不穏な音は消えた。カナメはじっとヤンの操作する端末を見つめている。ヤンはその視線に気づいて、笑ってみせた。

「つぶさに見ていてもしょうがない。助けを待とう」

 ヤンがそう言うと、カナメは頷いた。

 足元の火星がゆっくりと回る。いや、このコロニーが火星を周回している。沈黙が二人の間をしばらく満たした。

「事故からのこと……いや、そうだな、すまない、地球の暮らしのことを聞いても?」

 ヤンが控えめに切り出した。カナメは火星の様子を熱心に見るようなそぶりをしながら、何を言おうか考えているようだった。

「ここと違って、空は地下ではなくて屋上のさらに上にありますね」

 ようやくカナメがしかつめらしい顔で言った。ヤンはしばらくカナメの言葉を考えていたが、ふっと笑った。

「そうだろうな。僕も見たことはないが、知識としては知っている」

 カナメは少し頬を染めて、そうですよね、と小声で言った。

「だが、見たことがあるのとないのとでは大違いだ。他に、地球とこのコロニーが違っているところはどこだろう」

 カナメは少し紅潮した顔のまま、いくつか違いをあげた。

 曰く、地球の重力はここよりもだいぶん重かった気がすること(長旅ではっきりと覚えているわけではなく、こんなもんだと言われたらそうかもしれないとも思う、と付け足した上で)、緑が豊かで、虫がここの何倍もいること、海があること、海はしょっぱいこと。

 ヤンは、地球のことを懐かしそうな表情でつぎつぎと思い出すまま話すカナメを、失礼に感じなければいいがと思いながらしげしげと眺めた。

 自分で毎日編んでいるらしい髪は、いつもと同じようにきちりとおさげにゆわれ、時折顔を傾けるのに合わせて揺れる。色づいた頰は生き生きとしていて、黒く賢そうな瞳は楽しげな光を宿して輝いていた。

 ヤンの視線に気づいたカナメは、戸惑ったように口ごもる。

「すまない、娘がいたらこんな感じだったのかなと思ってね」

 ヤンは素直に思っていたことを語った。実際、ナタリアとの子を夢見ていた時期もあった。

「そうですか」

「君はナチュラルボーンだろう? 火星コロニーの出生システムは知ってるかな」

 カナメは頷こうかどうしようか悩むように、曖昧に首を振った。ヤンはそれを肯定ととらえる。

「君らの巻き込まれた事故……事件も、そのせいといってもいいくらいだから、まあ知ってるか」

 そう言って弱く笑う。カナメはつられて笑っても良いのかどうか迷ったような困り顔で、視線をさまよわせた。足下の火星はゆっくりと見えなくなり、今は暗い星空の中で太陽が光っている様子が、偽物の窓に映っている。

「火星ではもうずっと、遺伝子検査の結果、残すべきと思われるカップルの子しか、作ってもらえない。我々は、重力の関係なのかどうか分からないが、男性も女性も生殖機能が極端に衰えてしまって、自然妊娠はほぼできない。仮にできても、診断の結果諦めないといけないこともある」

 ま、違法に産む人も後を絶たないけどね、とヤンは笑った。その笑いには苦いものが混じる。カナメが後を引き継いで言った。

「種は多様性を保たなければいずれ途絶えることが、これまでの計算で明らかとなった。だから、火星コロニーでは種の多様性を《管理》されている」

 そう、習いました、と、カナメは語る。

 ヤンは頷いた。そのことが、火星コロニー群全体に暗い影を落としている。火星コロニーに住まう人たちがどんなにか「ナチュラルボーン」という存在に憧れているか、カナメには分かるまい。我らのうちの誰が、好き好んでこのような社会に産まれたというのか。自由に暮らし、自由に生み育て、自由に生きたい。同じ人間という種族で、何故このような違いが産まれているのか。これは人種差別ではないのか。

 否。

 そうではなかった。我々の祖先は、五〇〇年前に自ら望んでこの火星と周辺のコロニーに移住してきたのだ。夢や希望を持って。でも。

「おまえたちに、我らの血を汚させない、と、先日言われました」

 カナメはそう言ってうつむいた。ヤンはため息をついた。

「羨ましいのだよ。君たちが」

 正直に述べる。カナメは太陽を見ながら黙っている。その方角には、地球が見えるはずだった。

「私はずっと火星コロニーを訪ねてみたかったのです。学校の屋上から見える火星を、ここから地球を見るのと同じように、私はずっと憧れを持ってみていました。こんな……こんな風に思われているなんて知らなかった」

 カナメの言葉には静かで深い絶望が漂っている。ヤンは、同じように窓の外を覗き込んだ。ビロードのように黒い宇宙に、ダイヤモンドのように輝く太陽と、星たち。いつでも見えている、大気のない空。

「僕の妻はね、逆だったよ」

 かつてナタリアがそうして何時間も宇宙を、地球を眺めていたことを思い出しながらヤンは言葉を紡いだ。

「彼女、ナタリアという僕の妻は、君と同じように地球にずっと焦がれていた。帰りたいと、彼女は一度も地球には行ったことがないのに、そう言いながら」

 カナメはヤンに視線を移した。

「彼女は……彼女は、子供がとても欲しかった。欲しかった、らしい。僕には正直、その気持ちはあんまり分からなかった。分かっていたつもりだったけど、結果的に彼女には僕が彼女のことを分かっているとは思えなかったんだと思う。

 僕たちの子が、遺伝子確率的にこのコロニーに存続させる意義がないという通知が届いて、子供を諦めなきゃいけないと分かった二年後に、彼女は絶望のあまり病気になった」

 カナメはその黒い瞳で、じっとヤンを見つめている。ヤンは、皮肉だよね、と笑う。

「僕たちは、僕たちのもつ遺伝子が、残す価値があると思われたから産まれてきた。なのに、僕たちの子供は価値がないと言われる。僕たちの存在意義ってなんだったんだろう。僕はまだいい。僕は研究に没頭して過ごすことができた。でも彼女は、彼女は仕事を生きがいとするよりも母親になりたかったんだ。彼女は」

 そのとき、爆発音とともに大きな振動が床に伝わった。咄嗟にヤンとカナメは扉を見る。固く閉ざされた扉の向こう側をうかがい知ることはできなかったが、その振動は確かに扉の向こうからだった。

 ヤンは端末を見た。扉近くのカメラを確認するが、白く煙っていて状況がよく分からない。カナメに向かってつい話しすぎた。

「ナタリアさんは、その悲しみを持ったまま亡くなったんですか」

 カナメの言葉にヤンが顔を上げると、カナメはいつのまにか立ち上がり、怒ったような顔でヤンを見つめていた。

「……そうだ」

「どうして」

「だから、病気で」

「違います。……ひどいです」

 ヤンは驚いた。カナメの瞳にはみるみる涙がせり上がってきた。透き通るような肌の上を、銀色のしずくが滑り落ちていく。

「どうして火星コロニーは、そんなひどい出生システムを改善しないままなのですか。理屈は分かります。でも、私は学校で「それは皆が望んでいる素晴らしいシステムだ」って習いました」

 それは、僕に言われても。ヤンはそう言って言葉に詰まる。唐突に泣き出したカナメに、なんと言えば良いのか分からない。

「それを改善するために、君たち使節団が来たんじゃないのかい」

 迷ったあげく、そんな責任転嫁を口にしたヤンは、自分に失望めいたものを感じた。

「自分たちが変わろうとしなければ、絶対に人は変わりません。他人がいくら、何を言ったって。だって辛いのは、みなさんじゃないですか」

 カナメは胸に手を当て、自分を落ち着かせようとしているようだった。涙はまだ、はたはたと足下の窓に向かって落ちて行く。カナメの涙は太陽に向かって落ちていく間に驚くほど輝き、宇宙に出て行けばそのまま星になれるのではないかと思えるくらい、キラキラと光を反射した。

 扉の外で、また大きな爆発音が響いた。二人の足下が揺れる。こんな緊急事態なのに思いもよらず少女に責められている状況に、ヤンはどうしてこうなってしまったのかを必死に考え続けた。

 ヤンの端末が震える。アランからの着信だった。

 天の助けだ。

 ヤンはホッとした気持ちで通話に応じる。カナメはそれを見ると、下を向いて大きく息を吸い込み、また腰掛けた。胸に手を当てたまま、目を瞬いている。ヤンは横目でその様子を見て、胸が痛んだ。

「義兄さん」

 アランの声が耳に響く。

「ついたか」

 ヤンの言葉に、アランはしばらく何も答えない。ヤンが、通信が切れたかと思ったタイミングで、

「彼女は」

 くぐもったような押し殺した声。

「無事だよ」

 ヤンはそのアランの様子に眉をひそめながら答える。

「すまない、行けそうにない。緊急脱出装置を使ってくれ」

「どういうことだ」

「彼女の母船が間も無く発進する。秘密裏に彼女以外を乗船させた。彼女は無事に回収されるはずだ。このコロニーはもうだめだ義兄さん。思った以上……」

 通信はそこで途切れた。

「アラン」

 ヤンは慌てたように何度も通信を繋げなおそうとするが、まったく通じない。ヤンのただ事ではない様子に、カナメがヤンに視線を向ける。もう涙は止まっていて、訝しそうな顔をしていた。

「緊急脱出装置を使ってくれって……」

 ヤンがカナメに向き直ってそこまで言いかけたときに、また爆発音が響いた。扉の外の連中と交渉するような余地はなさそうだ。ヤンは端末を操作しながら、口早に告げる。

「このコロニーを脱出する。端にある、あのシート、そうだあの赤いシートに座って、シートベルトをつけてくれ」

 カナメは頷くと、振動でよろけながら走って行く。カナメがシートに座るのを確認しながら、ヤンも近くのシートに腰掛け、ベルトを着けた。端末からは、本当に良いですか? の確認音声が響いている。ヤンは叫ぶように「いい!」と答えた。

 音声認識。緊急脱出装置排出。

 やわらかな女性の声が耳を打った。その瞬間、ものすごい衝撃を体に感じて、ヤンは体を硬くした。

 一瞬後、足下の窓の外にコロニーが見えた。自分たちが離れてきた場所が縁中型に切り取られたような形に凹んでいる。扉は固く閉まっていて、その向こうにいるだろうもの達がどうなったのかはよく分からない。

「あっ、あそこ、見てください」

 カナメが指さした。離れていくコロニーの一部に、穴が空いているように見えた。

「どういうことだ……」

「コロニーが……」

 すごい勢いで中の空気を噴出するその穴からは、小さな何かがたくさん散らばっている。あまりの光景に、ヤンはただ呆然と見ているしかなかった。シートベルトを外して、床に張りつく。

「壊れるのか。コロニーが」

「……なんてこと……」

 カナメの顔が歪む。ヤンは目の前の光景が全く信じられず、穴から徐々に崩壊していくコロニーを見つめていた。

 あそこで暮らしていたのだ。産まれ、育ち、ナタリアと出会い、結婚し、死別し、それでも僕は生きていた。僕の生きていた場所が。

 はっと気がついて、端末を操作する。アランに通信を繋げようとしたが、繋がらなかった。

「まさかここまでのことになるなんて……」

 カナメもシートベルトを外していた。窓からコロニーを見ながら、呆然とした顔で呟いている。ヤンは、最後にアランから言われた言葉を思い出した。

「君の母船は出港したらしいんだが、どうすればいいんだろうか」

「あ、私連絡取れるかもしれません。端末だと届かないかもしれないから、端末を繋げられる通信機器はありますか」

 そう言って見回すカナメを、ヤンは通信エリアに案内した。カナメは自分の端末を繋げると、母船を呼び出す。果たして母船はアランの言うとおり、出港してカナメの脱出を待っていた。

「連絡はとれたかい」

「ええ。おそらく、脱出が間に合った多くの人たちを、回収して他のコロニーに移送する手伝いをしてから帰ることになるでしょう」

「そうか」

 そういうとヤンはまた窓の外を見る。自分が住んでいたコロニーは大きく歪み、その形を崩壊させつつあった。ただ、戻りたいとはあまり思わなかった。親も兄弟ももういない。妻も亡くした。妻の弟のアランは気になるが、気になる程度だった。子供は許されなかったのでいない。強く執着していたものなど、もう何も残っていない。

「戻っても、観測装置は持ってこられないしなあ……」

 昔から使っていた、ナタリアも手にしたことがある、あの小さな望遠鏡だけは少し未練があった。窓に手を置いてコロニーを見つめるヤンに、カナメが話しかける。

「地球に一緒に行きませんか」

「なんだって?」

 驚いて振り返る。

「私がこのコロニーに来たのは、あなたを見つけるためでもあったのです」

 ヤンは口を開いたまま、言うべき言葉が見つからなかった。全く想定していなかったカナメの台詞だった。

「これを……」

 そう言うと、カナメは首からネックレスを引っ張り出した。ペンダントヘッドには、小さな銀色のチップがついている。

 見覚えがあった。ナタリアの棺に入れて、地球へ向けて送り出したものだ。

 地球に帰りたい。行ったことはないけれど、私の心が帰りたいって言うの。

 そう、熱に浮かされながらうわごとのように言っていたナタリアの、最後の願いを聞き入れてあげたかった。地球に向けて巡航する棺に入れて故人を送り出すという地球葬は、高額ではあったが、ヤンはナタリアに「かならず君を地球に送るよ」と約束していた。

 地球に向かって巡航する間に、その棺は徐々に劣化し、ちょうど地球のあたりでその役割を終えるように作られている。大気圏でばらばらになって燃え尽き、太平洋の上空で跡形もなくなる。

 センチメンタリズムに彩られた、地球回帰の葬送。それでも、彼女の心を地球に送る事ができる気がした。

「このチップの中にあった彼女の日記が、地球で大きな話題になったんです。私が海で拾ったの。本当に偶然だったと思うんだけど」

 ああ、だから。

「私は、普通の中学生でした。でも、この日記を読んで、教科書に書いてあることが本当はきれい事だったことが分かってしまった。コロニーの人達は、自ら選択して産まない種として生きているのではなく、それを強いられて悩んでいる事、大きな衝撃でした。 遺伝子選択の施設が恣意的にその生殖能力の衰えを選択していたんだと分かってしまったの。

 私、この日記を公開したんです。地球で。ごめんなさい……。でもしまっておけなかったんです」

 カナメは右手でチップをいじった。ヤンは、彼女と一緒に大気圏で燃え尽きるだろうと思っていたそのチップを眺めた。

「燃えたか、海に沈んだと思っていたよ」

 ヤンの言葉に、カナメは小さく笑った。

「そうでしょうね……。これが何故砂浜にあったのかは分かりません。魚が食べて、その魚を鳥が食べて……みたいな、偶然があったのかもしれないです。私はこれを海で見つけて、キレイだけれど、何かのチップだなって思って、本当に気まぐれに中を解析してみようと思ったの。彼女の日記が読めたときには、本当に驚きました。そしてたまたま私の両親が、政府関係者だった。これはもう、運命だと思ったの。

 でも、私がしたことは余計な事だったのかもしれません。 地球でこれが問題になって、 だから使節団が結成されて、協議のためにこのコロニーを訪れることになった。

 私の発見が解決する鍵になったんだって思って、それで喜んでこの旅に参加したけれど、着いたら全く歓迎されていなかった。そりゃあ、そうですよね、外から政治に介入するようなものです。今の政府を、私は犯罪者として弾劾したのと同じ。不満を持っていた人は確かにたくさんいたけれど、その人たちにコンタクトしようとした私達は、このコロニーで追われる身となってしまった。特に私は……このチップごと邪魔者だと。そして、このコロニーを結果的に崩壊させるようなことに」

 そう言って目を伏せる。浅はかでした、と消え入るような声で言う。手で顔を覆った。

 ヤンは窓の外をもう一度見た。

「いずれ崩壊するさだめだったのかもしれないよ。僕はそう思う」

 ヤンはそう呟いた。カナメの顔は見えない。

 目の前で銀色の破片を振りまきながらゆっくりと崩れていくコロニーを見ながら、諦めに似た気持ちを抱えていた。

「多様性というのは、人がコントロールできるものではないんだ。元来。思いもよらない多様性が生じるのが遺伝子だろう。こうなる可能性がある、というので排除してしまったら、それは多様性ではなくて選択だ。コントロールしようと思ったときから、この火星と火星コロニーでの人類は、緩やかに衰退や滅亡に向かっていたんだろう。おそらく。ナタリアの日記はその引き金になっただけだ。みな、本当はこんな世界を壊したいと思っていたのだろう。でなければ、こんなことにはならない」

 そう言うと、ヤンはカナメを振り返った。カナメは顔を覆っていた手を下ろした。涙に濡れたその瞳は、ひどく美しく見えた。

「君の母船が見えてきたよ」

 そう言って外を指さした。白く輝く地球からの船は、ゆっくりとこちらに向かっている。

「……地球に行きませんか」

 カナメはもう一度言った。

 ヤンは、その船を見ながら、しばらく考えていたが、そうだな、と呟いた。

「ナタリアが最後に行き着いた星を、冥土の土産に僕も見てみるか」

 ナタリアが呼んでいる気がした。カナメは少しだけ、笑ったように見えた。


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