見出し画像

密告者を炙り出す術


 鬼神も成す術無く退散するであろう酷寒の雪景色すら、今の佐吉の昂りを抑えるまでには至らなかった。
 むしろ一面を覆う白雪が、降りそそぐ陽光の悉くを反射し、これでは目が潰れてしまうのではないかと気に掛けてしまうほどの眩さが、佐吉の興奮をさらに掻き立てている。
 聳え立つ樺の大木の枝上に立ちながら、それまで首に巻いていた鳶色の襟巻をぐるぐると顔に重ね巻きし、僅かな隙間から白銀の雪景色を眺望する。
 この豪雪の中に埋められようとも爆発し、周辺を吹き飛ばすほどの破壊力を有する新たな火薬の実験に勤しんでいた佐吉にとって、待ち焦がれていた絶好の舞台が遂に訪れたのである。
 佐吉の母は、彼を生む時に側にいた夫の左腕をあらん限りの力で握り続けていた。
 その「左」と「人」を合わせて、お前は佐吉と名付けられたのだよと、母は幼い佐吉に良く語ってくれたものである。
 その母は、佐吉の妹ゆきを生んだ際に亡くなり、父もその後を追うように流行り病であっけなく世を去った。
 江戸の花火職人でありながら江戸を捨て、世間の喧騒から逃れるかのように里に入り住み着いた父が残した書物の数々は、佐吉に他の子どもたちより優れた読み書きと火薬の知識を与えてくれた。忍びとして稼ぐことが出来る可能性が僅かにでも残っていた子供たちは、修行に明け暮れながらも簡単な読み書きを習っていたが、佐吉はその時点で頭一つ抜きん出た存在となっていた。
 試行錯誤と実験を繰り返してきた集大成となるであろう最後の実験に心躍らせる佐吉の足下で、何かが軋むような音が聞こえた。
 音の正体は、佐吉が思考を巡らせるより先に、知覚となって露見した。
 それまで体重を掛けていた枝が、一瞬にして折れたのだ。
 あっという声を上げる遑も与えられず、真下の積雪めがけて落下する佐吉の肉体。
 だが、その精神は異様なまでに冷静だった。
 普段なら大怪我は免れないであろうが、今日は降り積もった雪が受け止めてくれる。
 それより、それらしい予兆も見せずに折れた枝の方が気になる。
 あの時は折れなかったのだから。
(あの時とは?)
 胸中から湧き出た疑問に自ら問い返そうとした刹那、左源堂魔巻の上半身がぐらりと揺れた。


「ほれ見ろ、やっぱり折れなかった」
 煎餅布団から半身が投げ出されたことで夢から醒めた魔巻は、まず己の顎に掛かる重みを実感し、垂れ下がる一尺余りの顎髭を撫でた。
 この髭は、左源堂魔巻がまだ佐吉と名乗っていた頃には蓄えていなかった最大の相違点であり、その髭の存在で魔巻はようやく夢と現の違いを確信したのである。
 如月の早暁という時間が有する、独特の冷気に身を震わせながら、魔巻は買い置きの酒徳利に手を伸ばす。
 江戸に流れ込んでから伸ばし始めた髭も、暖を取るには役立たない。
 部屋にいる時分はほぼ必ず綿入りの寝間着だが、これからはもう一枚重ね着する必要がありそうだと思いながら、徳利の中の酒を口内に注ぎ込む。
 
 左源堂魔巻の職業は易者である。
 
 仕事の前には身を清め、宗匠さながらの一張羅を身に纏い、威厳をもって易占やら手相やら観相やらで荒稼ぎしているが、仕事をしないと決めた日は裏長屋の自室で一日中酒浸りという日々を送っている。
 適当にやっているように疑われがちであるが、定期的に店を構えていると、一度でも占いが的中した者は足繁く訪れるようになり、次第に占いの結果に依存する。
 一見すると繁盛しているように見えるかもしれないが、魔巻のように占う側からすれば、占いというものは本人に行動を促すための道標であり切欠に過ぎず、何でも占いに頼るようでは自ら悩み考える力を逸失し堕落することになる。
 また占いというものは外れることもある、というのが易者にとっての前提なのだが、それで易者を逆恨みする輩も稀にいるという。
 そのような輩からの身勝手な報復から逃れるためにも、魔巻は不定期且つ場所を一定させずに店を構えているのである。
 悩みごとの相談を受け易占で解決に導く左源堂魔巻は、的中する易者という伝手から香具師にも顔が効き、また不定期とはいえ一度商売に出ればたっぷりと稼いでくるため、大家の献残屋伝次郎も彼の出不精を已む無し、と認めている。
 尤も、いくら稼いだところで家賃と最低限の衣食以外は軒並み酒に変え、吞み潰してしまうのが左源堂魔巻という男ではあるのだが。
 嚥下した酒が次第に身体を温め、羽目板から吹きつけてくる隙間風を何かで塞ぐべきかとしばし悩み、結局は何も手を打たずに煎餅布団に潜り込んだ魔巻の耳に、早暁には似つかわしくない喧噪が飛び込んでくる。
 次いで荒々しく雨戸を開けて転がり込んできた男が一人。
 手拭いを頬被りしているせいで顔は見えないが、上着と股引には見覚えがある。
「丁助か」
 同じ裏長屋の住人、博打狂いの丁助である。
「先生」
 応えるように、丁助は頬被りを解いて顔を上げる。
 中肉中背、若干やさぐれてはいるが、江戸ならばどこにでもいそうな容貌の男である。
 唯一つ他の男と異なる点は、賽の目などを凝視する時に力み過ぎるあまり、白のまなこに血の筋が浮かび上がることであろう。本人もそれを気にしているのか、普段は亀裂と見間違えそうなほどに目を細めている。
「朝っぱらから騒がしい奴だ。部屋を間違えたのなら、とっとと出ていけ。それとも儂に用があるのか。ならば雨戸を閉めろ、寒い」
「すまねぇ」
 謝りながら雨戸を閉めた丁助は、解いた手拭いで顔を吹く。
 冬だというのに、顔だけではなく首筋や胸元からも珠のような汗を拭き出している。
 丁助もそうだが、手拭いは博徒や破落戸とっては必需品である。普段は首に巻いて襟巻代わりに出来るし、後ろ暗いことを実行する時には素顔を隠す頬被りになる。
「賭場に手入れが入ったんで、逃げてきた」
「また博打か」
 煎餅布団から上半身を起こした魔巻は、酒臭い息を吐いてから再び徳利に手を伸ばす。
 左源堂魔巻と同郷であり、里にいた頃から博打好きで知られていた丁助は、江戸でピンゾロの丁助なる有り難くない二つ名を頂戴した。
 江戸に入ってから初の賭場に潜り込んだ丁助は、胴元と一対一の丁半三回勝負を行い、三回とも賽の目が全て「一」、即ちピンのゾロ目で負け越したことから付けられたものである。
 その賭場は町方役人の手入れにより潰れてしまったが、間もなく新しい遊侠の場として入り浸っているのが今の賭場だと、酒の肴で聞いたことがある。
「博打はともかく、賭場に行くのは控えろと言ったであろう。儂らのように見張られている人間が賭場に入り浸ったのでは町方の良い餌食、博打仲間にも迷惑が掛かるとも言っておいた筈。こうなったのは自業自得だな」
「いや、隠密連中には見つかってねぇよ」
 魔巻と丁助は、幼少期から江戸に入るまでの間、里で忍びとしての修行を続けていた過去がある。
 太平を謳い、戦国の世と比べれば忍びという存在が必要とされなくなったご時世に加え、壮絶な生き地獄を招いた飢饉に対する口減らしの一環として、里を追い出されるように江戸へと流れ込んできたのが、この裏長屋に住み着いた連中である。
 勿論、公儀は受け入れを拒否した。培った忍びの技術を悪用しかねない連中が汚泥の如く江戸に流れ込んできたのでは、只でさえ悪化している江戸の治安が増々酷くなるばかりである。
 そこで里は若者を放り出す前に公儀と交渉し、公儀隠密による監視を容認したうえで、同時に里側からも徹底した管理を行い、さらに江戸に送る人間を厳選した。
 選考の基準は、忍びとして肉体的ないし能力的に劣っている者、若しくは里にとっても度を越さぬ程度の厄介者。
 魔巻は前者にあたり、丁助は後者にあたる。
 裏長屋の大家である献残屋伝次郎は里から派遣された監視役でもあり、厄介者が江戸で不始末を起こした際の粛清係でもある。
「連中を軽く見るつもりはねぇが、今回だって隠密の監視は潜り抜けて来た筈だぜ。彼奴らが奉行所にたれ込んだ筈がねぇ」
「では、単に運が無かったのであろう。同郷の好として何度も忠告してきたが、これを潮時と見て博打から足を洗うことだな。そうすれば、もう少しましな暮らしができるぞ」
「有り得ねぇな」
 上半身を拭き終えた手拭いを首に巻き、開いた両目に血の筋を走らせながら、丁助は言葉を続ける。
「誰が止めるもんかよ。博打は俺にとって血肉みてぇなもんだ。たとえ博打が元で地獄に墜ちたとしても、俺ぁ獄卒相手に打ち続けるぜ」
 丁助の本業は扇作りである。
 部品ごとに職人が分担されている精巧な京扇子とは異なり、江戸の扇子は職人一人の手で作り上げる。
 里にいた頃から手先の器用さでは群を抜いていただけに、丁助の作り上げる扇子はそれなりに出来が良いと魔巻は評価しているのだが、如何せん本人に堪え性が無い。
 作った扇子を自ら売り歩き、小銭を稼いでは博打を決め込む。
 銭が尽きてから、ぶつくさと文句を言いつつ新たな扇子を作る。
 博打に費やす時間と集中力を扇子作りに使えば、江戸でも指折りの職人になれるであろうが、残念ながら丁助本人にそこまでの向上心が無い。
 尤も、いくら気に掛けたところで所詮は同郷という程度の繋がりしかないのだから、魔巻としても無理に博打を辞めさせるつもりは無い。
 只、勿体ないと嘆息するだけである。
「先生こそ、酒を止めて寺子屋の先生にでもなったらどうだい。学もあるし、幾ら稼げたところで所詮は辻占だ、長続きする商売とは思えねぇ。酒さえ断ってしまえば、もっと真っ当な仕事に就けるんじゃないかね」
「李太白謳う、ただ長酔を願いて醒むるを願わず、だ。それに世説新語にもあるだろう。三日酒を飲まざれば形神また相親しまず。酒は正に人々をして自ずから遠からしむ、と。古人ですら酒を止められなかったのだ、儂が止められよう筈がない」
 その「世説新語」には、酒好きだった晋の元帝が王朝復興のために断酒した話も載っているのだが、小賢しい魔巻は敢えて触れない。
「しかし、隠密の手も借りぬ手入れとは珍しいな。何処の賭場だ?」
「鬼六だよ」
 鬼六といっても、当然本名は別にある。「鬼」というのはその形相か言動から付けられたものであろう。「六」が名前に因んだものなのか、それとも住所に掛かっているものなのか迄は、わからない。
 魔巻も江戸の顔役についてはそれなりに把握しているつもりではあるが、それでも聞き覚えの無い名である。
「鬼六の賭場は必ず丁半をやるから、好んでいたんだがなあ。しばらく遊んで小便に立ったところで、外に大勢の気配がしたもんで、こっそり探りに行ってみたら捕り方と手下の群れだ。こりゃいけねぇと大慌てで賭場に戻って伝えたんだが、一歩遅かった」
「そのまま、お前だけ逃げれば良かったのだ」
「そうもいかねぇ。これでも鬼六親分には一目置かれてるんだ。身体を張って客だけでも逃がさにゃいかん。捕り方が押し寄せているのに俺だけ逃げた、なんて噂が広まってみろ。この先何処の賭場も出入り禁止にされちまう」
「仁義というやつか」
「先生が得意とするところなら、士は己を知る者の為に死す、というやつだ。俺は、鬼六の賭場で初めて打った博打にゃ負けたが、客が全て帰った後で奴のイカサマを暴いてやった。客の前では何も気づかなかったふりをして、鬼六の前でだけ同じイカサマの手口を披露してやったんだが、そうしたのは手口を知った他の客まで賭場に来なくなるからであって、鬼六の賭場には二度と足を踏み入れないつもりだった。ところが鬼六は俺に金を返してくれただけでなく一目置くようになり、それからは俺を相手にした勝負にはイカサマを使わなくなったのさ」
「上手く利用されているだけかもしれんぞ」
「こちらも上手く利用して博打をうたせてもらっているんだから、お互い様だよ。胴元あっての賭場だからな。まあそれで、鬼六の手下と客の殆どは、どうにか無事に逃がすことは出来たんだがな」
「暴れたのか」
「派手に立ち回ったわけじゃない。物陰から、取り押さえようとしている奴らの頭を、こいつでピシャリ、ピシャリとやっただけさ」
 そう言いながら、丁助は懐から愛用の鉄扇を取り出して弄ぶ。護身用で、本物の扇のように開くことはない鉄の塊だが、その分重く威力がある。丁助はこれを自在に振り回し、時には武辺者の豪刀を受け流し、時には相手の急所を小突いて昏倒させる。
 また丁助は、特殊な紋様が描かれた扇子を広げ、それを直視した相手を幻覚に陥れる術を使う。幻覚は真夏の桜吹雪であったり、無明の暗黒であったりと、その都度変化するものらしい。
「危ういことをする。下手をすれば儂らまで巻き添えを喰らっていたのかもしれぬのだぞ」
 鉄扇を懐に仕舞い込んだ丁助を叱責しつつ、徳利を呷る魔巻。

 殺めず。
 盗まず。
 右袒せず。

 忍びとしての技術を有しながら江戸に流れ込んできた者は、必ずこの三つの掟を遵守するという誓いを立てさせられ、何れかを破った時点で粛清の対象となる。
 逆に考えれば、これらを破らない限り、多少の逸脱行為は認められるという詭弁も成り立つのであろうが、それが原因で悪事が露見し役人に捕らわれようものなら、隠密からの監視と追及が今以上に厳しくなるのは明白である。
「そんなヘマはしねぇ……と言いてぇところだが、ちっとばかしやらかしちまってな」
「正体を晒したか」
「そうじゃねぇ。佐吉って奴が捕まっちまったんだ」
「佐吉?」
「ああ。鬼六の一の乾分こぶんなんだが、風邪を引いた鬼六の代替えで賭場を仕切っていたんだ。俺以上に義理堅い奴で、乾分と客を逃がすために最後まで立ち回っていたのが裏目に出ちまったらしい」
 丁助より義理堅い男なら、江戸には掃いて捨てるほどいるだろう。
「今頃は、奉行所で責め苦を受けているに違ぇねぇ」
「おい、そいつはお前のことを喋ったりはしないだろうな?」
「口は割らねぇだろう。口の堅さを見込んだと鬼六が言うくらいだったからな。ところで、その鬼六に頼まれたことがある」
「まさか、奉行所に忍び込んでその男を助け出せ、と言われたわけではあるまいな」
「鬼六は、俺が元忍びとまでは知らねぇよ」
 丁助は、里にいた頃に忍びとしての依頼を受け完遂した、今では数少ない忍術の実践者である。しかしその仕事を境に、それまでは真面目に取り組んでいた修行を捨て、博打にのめり込むようになったことでも知られている。
 仕事の内容は誰も語らず、また問おうともしない。
「それでは、何を頼まれたというのだ?」
「いや、手入れが入ったことと佐吉が取り方に捕まったことを伝えるために、逃げ切った他の乾分と一緒に鬼六の処へ行ったんだがよ、そこで俺だけこいつを渡されたんだよ。奴の屋敷を出てから読んでくれってさ」
 丁助は、角帯に差した一枚の半紙を取り出した。四つに折られた紙面を開くと、一両小判と共に書き記された一文が、魔巻の眼に映る。
「誰や密告者足らん」
 ふん、と鼻を鳴らしてから、左源堂魔巻は空の徳利に、べっと酒臭い唾を吐いた。
「裏切り者の炙り出しを儂にやらせたくて、転がり込んだのか」
「そういうことだ」
「裏切り者など、最初からおらぬのかもしれんぞ。単に役人か十手持ちが、鬼六らの警戒を掻い潜って見つけ出した可能性もあるだろう」
「それならそれで、鬼六の落ち度と言えば済む話だな」
「それを、今言うわけにはいかんのか?」
「俺としても気になるところではあるんだよ。だからこうして、あんたに分け前をちらつかせて手伝ってもらおうとしているんじゃねぇか」
 腹立ち紛れか、土間に転がる酒徳利の一つを蹴り飛ばす丁助。
 割れたとしても中身は空なので、魔巻にとっては痛くも痒くもない。
「ふむ」
 博打の胴元と乾分がどうなろうと、左源堂魔巻の人生には一切影響を及ぼさない。
 しかし、引き受けてみたいと思うだけの理由はある。
 一つは、酒の蓄えをたった今切らしたことだ。
 酒無しで酷寒を乗り切れというのは、魔巻にとって火の海を裸足で歩いて渡れと告げられたようなものである。
 もう一つの理由は。
「よかろう、手伝ってやる」
「ありがてぇ」
「佐吉か。同じ名を持つ者を死地に追いやった輩の顔、拝んでみたくなったわい」

 
 
 しがみつくようにして樺の大樹から滑り降りた佐吉は、根元に置いておいた麻袋に右手を突っ込んだ。
 袋の中から取り出したのは、手足を縛った小狸。
 この実験のために捕らえ飼い続けていた禽獣である。
 妹は、兄がこの獣を番犬代わりにするつもりで飼っているものだと勝手に思い込んでいたようであるが、佐吉からすれば格好の生け贄という程度の存在でしかない。
 それを妹に伝えるのは控えた。
 昔から、佐吉は泣き出した妹には弱い。
 七寸ほどの竹筒に薄紙を入れ、内側を覆うように敷くような形にしてから、その中にさらさらと火薬を注ぎ込む。
 この薄紙こそが佐吉の編み出した火術の種であり、染み込ませた様々な薬液が反応して、これまでの火薬を使った爆発とは比べものにならない威力を生み出す筈である。
 雪中に浅く穴を掘り、導火線付きの栓をした竹筒を埋める。
 練り上げた火薬に麻糸を巻き付けて作り上げた導火線であれば、雪で多少濡れたところで鎮火には至らないだろう。
 竹筒を埋めた土饅頭ならぬ雪饅頭の上に、口と手足を縛りつけた小狸を置く。
 竹筒の中で着火し爆発した火薬が、周囲の雪もろとも小狸の身体を粉微塵に吹き飛ばしてしまえば成功である。
 しかし、佐吉は既に勝利を確信していた。
 己の作り上げた製法が認められ、忍びとしての任務に用いられるようになれば、堅固な城壁であろうと砂山のように容易く崩せるだろうし、天守閣すら守りの本陣としての機能を果たさなくなるだろう。
 否、争乱を招くためだけに使われるのではない。
 川の水を引き入れるための用水路を作る時に使えば、必要とされる労力も減るだろうし、次ら次へと流れついては徐々に積み重なり川を堰き止めてしまう流木も容易く排除できる。身の丈よりも高く降り積もった雪が人の往来を妨げる地方もあると言われているが、そういう場所でも活用できるはずである。
 人々の暮らしが、今よりもずっと楽になるのだ。狸一匹の犠牲など対価にすらならない。
 十間ほど離れた辺りで、佐吉は導火線に点火した。
 微小な火花を撒き散らしつつ、導火線を灰に変え、火種は雪中に埋められた竹筒へと迫る。
 その上では、己が置かれた状況を理解できない小狸が、ただ縛めから逃れようと哀れにもがき続けていた。

 
「先生、調べて来たぜ」
 夕暮れ。
 寝間着に着替えた左源堂魔巻が一張羅を行李に仕舞い込んだ直後に、腰高障子をがらりと開け乍らピンゾロの丁助が躍り込んできた。
 丁助が朝から情報集めに奔走している間に、魔巻は外で本業を営んでいた。
 さすがに連日休んでいられるほど裕福ではないが、しかし店を構えたところでたいした儲けになるとは期待しておらず、実際その通りになった。
 幾ら左源堂魔巻の易占が当たるとしても、酷寒の往来で立ちん坊のまま易者と長話をしたがる客は、そうそういない。
 寒風が左足に染みることもあり、早々に店を畳んで裏長屋に帰り、途中で買った徳利酒で温まろうとした矢先のことである。
 集られては困ると酒徳利まで行李に仕舞い込んだ魔巻であるが、その動揺を見抜けぬ丁助は、腰高障子を背後で閉め乍ら愚痴を零す。
「まったく、こういうのは俺じゃなくて猪松あたりがやることだろうに」
「何を言うか。お前が抱え込んだ問題なのだから、お前が動くのは当然であろう。それに、日頃から賭場に入り浸るような灰汁あくの強い連中が相手だ、猪松では荷が重かろう。そういう悪辣な連中と馬が合うのは、同じ博打狂いのお前ぐらいしかおるまい」
「そりゃあそうだが」
 鬼六の乾分と、手入れがあった時に賭場にいた客。
 その日だけは来なかった常連客。
 彼らの中で特に丁助自身が怪しいと感じた者を厳選して調べ上げる。
 密告者を炙り出す下準備として、まずはこれだけのことを行ってこいと魔巻に言われた丁助は、ぶつくさと文句を言いながらも江戸中を駆けずり回って集められるだけの情報を集めて来たらしい。
 たった一日で情報収集を済ませてしまうあたりは、忍びの任務経験者の面目躍如と言えるのかもしれない。
「まずは鬼六の乾分だが、一の乾分だった佐吉の下には寅安と鹿蔵がいる。佐吉が消えちまえば二人のうちどちらかが一の乾分になり、待遇や懐具合も良くなるだろうな」
「二人共、手入れが入る直前まで賭場にいたのか?」
「いいや。寅安は代替えで賭場を仕切ることになった佐吉の代わりとして、寝込んでいた鬼六の身辺警護をしていたらしい。鬼六だって、言うなれば裏の顔役だ。寝込んでいるところを襲ってきそうな敵ぐらいはいるだろうし、それに対する用心として腕の立つ乾分を手元に置いておく位はするだろうさ」
「つまり、賭場に捕り方が乗り込んだ時も、寅安だけは絶対に捕まることは無かった、というわけだな?」
「まあ、そうなるな。もっとも、そいつぁ寝込んでいた鬼六にも言えるんだろうけどよ」
「もう一人、鹿蔵という男は賭場にいたのか?」
「ああ、俺も奴が賭場の見張りをやっているところを見かけているし、俺が捕り方を見つけた時も、まずは鹿蔵に取り次いたんだが、奴がそれを佐吉に伝えようとしたところで捕り方が乗り込んできやがったんだ。ところが鹿蔵の奴、慌てて逃げ出そうとする客に揉みくちゃにされながら出口まで押し流されちまって、戻ったら戻ったで、蹴破られた戸板の下敷きになるわ、さらにその上を踏んで逃げる奴らの重みで失神するわで、散々だったらしい。それで、気がついて戸板の下から這い出てみたら、騒動も終わって賭場には誰もいなくなっていたんだとさ」
「本人の弁であろう。事後の言い繕いは幾らでも出来る。丁助、お前は客を全員逃すまで頑張っていたのであろう。その時には鹿蔵を見かけなかったのか?」
「俺は俺で忙しかったから、手前から戸板の下を覗き込む余裕なんてありゃしなかったよ。勿論頭から信じるわけにゃいかねぇが、そうかといって全部が嘘だと決めつけるだけの証拠もねぇ」
「ふむぅ」
 目撃者がいるかもしれない状況で嘘を吐くとは考えにくい。
 しかも、嘘にしては少々手が込んでいる。
「ただ、鹿蔵が土壇場で佐吉を裏切るだけの理由はあるんだ。他の乾分共から聞き出したんだが、鹿蔵は佐吉に四両の貸しがある」
「四両」
 博徒や破落戸風情が証文も無しに貸し借りできるような額ではない。
「佐吉というのは、随分と豪気な男だな。弟分相手に四両も貸していたのか」
「佐吉も、貸したくて貸していたわけじゃねぇらしい。ただ、鹿蔵は手前ぇン処の賭場でも賭けちまうような博打狂いでな。負けてばかりいるうちに賭場の金勘定が合わなくなってきたが、鹿蔵に負け分を払えるだけの手持ちが無ぇ。仕方ねぇから、鬼六には言わないまま自分が立て替えてやったという形で、渋々埋め合わせていたんだそうだ」
「馬鹿だな。自分の処の賭場で張る奴がいるか」
 賭場の博打というものは、基本的に胴元が有利になる。
 カモが紛れ込んできた時には平気でイカサマを使う。
 それを理解していなければならない立場で、それでも金を賭けてしまうのでは、周囲からの評価が上がる筈がない。
「それで、流石に貸しが三両を超えた辺りから佐吉に催促されていたそうなんだが、それでも返さないどころか博打を止めねぇもんだから、三日くらい前に脅しを入れられたそうだ」
 身勝手ではあるが、土壇場で兄貴分を裏切る理由としては十分である。
「そういうわけで鹿蔵は佐吉に頭が上がらねぇんだが、もう一方の寅安も、これはこれで厄介な奴でな。佐吉は持て余していたらしい」
「と、言うと?」
「鬼六の女房はおなつって名なんだが、そのおなつの腹違いの弟なんだよ。子供がいねぇ鬼六からはそれなりに可愛がられているそうなんだが、佐吉や鹿蔵に比べりゃ仕えてきた年季が違う。ごく最近になって侠客を名乗りだしたようなもんだが、新参のくせに義兄の権威を笠に着て威張っているらしい。佐吉の命令であろうと、手前が気に入らなければ首を縦に振らねぇってくらい我が強ぇんで、腹に据えかねて鬼六に直談判したところ、御前の器が小せぇからだと逆に佐吉が叱られるって有り様だ。尤も佐吉の方が世間慣れしているから、寅安は寅安で頭を押さえつけられたままあしらわれて好き勝手出来ねえ」
「だから賭場開帳を役人に吹き込んで、自分は高みの見物を決め込んだ、と?」
 こちらも、佐吉を裏切る理由としては在り得る話である。
 しかし、それが鬼六の賭場を犠牲にするほどの理由になるのかと尋ねられると、首を捻らざるを得ない。
「客にも、怪しい奴は二人いた」
「客と言っても所詮は博徒、怪しい奴ばかりではないか」
 その中には、当然ピンゾロの丁助も含まれている。
「そうじゃねぇよ。賭場の御開帳前後に怪しい動きをしていた奴のことだよ。伊三次って名の破落戸がいるんだが、いつもなら賭場に顔を出して、蛞蝓なめくじの目玉程度の種銭ではしゃいでいる奴だ。そいつが、昨夜に限って顔を出してねぇ」
「鬼六同様、風邪にでも罹ったのではないか?」
「ところが同じ長屋の住人に聞いてみたところ、伊三次は昨日も今日も表をほっつき歩いていたと、口を揃えて言うじゃねぇか。おまけに昨日は正兵衛と手前の部屋で話し込んでいたんだとよ」
「正兵衛?」
「目明しだよ。伊三次は、置き引きやかっぱらいで暮らしているんだが、それでとっ捕まりそうになっては正兵衛に見逃してもらっているんだそうだ。奴の住んでいる長屋じゃ、同じように見逃してもらって恩人と拝めている連中が山ほどいるぜ」
 やれやれ、と魔巻は嘆息した。
「それは日頃から恩を売っておいて、いざという時にその恩を盾に汚い仕事を押し付ける、目明しの常套手段ではないか。何故誰も気づかんのだ」
「後々の毒になるとわかっていても、今は目の前の助け舟なんだろうよ。それはともかく、伊三次が正兵衛に賭場の開帳をたれ込んだんじゃねぇか、と俺は考えている」
「どうだろうな」
 左の脛を摩りながらぼんやりと否定する魔巻に、丁助は顔を向ける。
 開いた彼の両目には、うっすらと血の筋が浮かび上がっていた。
「なんだよ。それなら辻褄が合うじゃねぇか」
「辻褄が合うというだけなら、お前が密告の下手人という考え方だって突飛ではあるまい」
 丁助の両目に浮かぶ血の筋が次第に濃さを増す。
「先生……手前の遊び場を手前で潰すほど、俺ぁ馬鹿じゃねぇよ」
「同じことが伊三次にも言えるであろう。それにお前の場合は、意図せずにばらしてしまったのかもしれぬ。本当に隠密を撒いたのか? 嗅ぎ付けられたのではあるまいな?」
「それならそれで、俺がこの長屋に逃げ帰ってきた事も嗅ぎ付けられている筈じゃねぇか。俺が帰って来たところで隠密と捕り方が一緒くたで俺を捕まえて、牢屋送りにしてねぇとおかしいだろう?」
「そうかもしれんな」
 適当に言葉を濁した魔巻であるが、隠密が丁助を泳がせて新たな賭場を探ろうとしている可能性もあるということについては言及しなかった。それは丁助自身の問題であり、有料で密告者の炙り出しを手伝っている魔巻には関係ない話である。
「伊三次とは逆に、手入れがあった時に怪しい動きをした奴もいたぜ。源四郎という、ぱっと見たところで三十手前の浪人だ」
「姓は?」
「知らねぇ。鬼六も乾分連中も源四郎さんとしか呼ばねぇんだ。その源四郎なんだが、やたらと身綺麗にしているんで賭場でも普段から目立っている男なんだ」
 真面目な侍ならば、浪人であろうと平常は身綺麗にしているものだが、そもそも真面目な侍は賭場に入り浸ったりはしない。
 賭場に入り浸るのは精々が中間までであり、主人がそのような場所で従者と顔を合わせようものならば、末代までの恥となる。
「この源四郎先生、いかにも侍でございという雰囲気をぷんぷんさせていやがったのに、いざ手入れが入った途端に我先にと逃げ出しちまった。そのくせ鹿蔵がそれを鬼六に告げ口しても、当の鬼六はそれで良いんだと気に掛けねぇし、まったく正体が読めねぇ御仁だ」
 確かに不思議な人物と言えなくもないが、魔巻にはその男が密告者である可能性は低いように思える。
 陽が沈みかけ室内が薄暗くなってきたので、行灯に火を入れるよう丁助に伝えた魔巻は、髭の奥からぷぅと息を吐いた。煙草も好む性質ではあるが、髭を焦がしてからは煙管も酒代に変えてしまった。
「逃げた源四郎を咎めなかったということであれば……仮に源四郎が密告者であった場合、鬼六が裏で糸を引いておるのかもしれぬ、というところまで考えなければならんな」
「先生、そいつぁ無理があるぜ」
 ほのかに室内を照らす行灯から離れつつ、丁助は魔巻の仮説を鼻で笑い飛ばした。
「鬼六は、俺たちに銭を出してまで下手人を見つけ出そうとしているんだぜ。何より、鬼六が手前の賭場を手前で潰すわけがねぇ」
「己の賭場を引き替えにしてでも役人に引き渡したい仇が、客の中にいたのかもしれないであろう。だから当日は仮病を使い、佐吉に賭場を任せて己は安全な自宅にいたのではないかな」
 うぅむと唸りはしたものの、すぐに丁助は被りを振った。
「いや、それこそ在り得ねぇ。仇がいたとしても手前で秘かに始末すれば済む話だ。それに、こいつは鬼六と手下の若い衆に聞いたんだが、鬼六が風邪で寝込んだのは一昨日の話で、それでも賭場を仕切ろうとしたところで無理をするなと佐吉に窘められたらしい。独りじゃ厠にも行けねぇくらい弱っていたんじゃ、賭場に顔を出したところで見くびられるだけだとまで言われて、じゃあどうするんだと頭を抱えたところで、おなつが代替えを立ててはどうかと言い出したんだ。鬼六が客の誰かを貶めるために仮病を使ったってぇんなら、代替えの話は鬼六の口から出てこねぇとおかしいだろう?」
「そうか」
 納得したかのような言葉とは裏腹に、丁助の血走りにも劣らぬ輝きを両の眼から発した魔巻は、己の顎髭を撫で下ろす。
「明日だな」
「何が?」
「明日の晩、お前が調べ上げた連中……鬼六、おなつ、寅安、鹿蔵、伊三次に源四郎で六人か。その六人を一部屋に集めてもらいたい。部屋であれば何処でも構わん」
「何か考えがあるのかい、先生?」
「在ると言えば在る。無いと言えば無い。真を口頭に尽くせば儚く消えてしまうのが、運命の妙というやつよ」
 答えながら、魔巻は行李の蓋を開けて中に右手を突っ込んだ。中から取り出したのは酒でも仕事着でもなく、襤褸ぼろ同然になった一冊の書物である。
「儂は明日の朝から夕方まで、易占の髄を尽くして事の玄妙を探ってみるとしよう」
 珍しく素面に興奮の色を見せながら書物を開こうとした、左源堂魔巻の手が止まる。
「それで、佐吉はどうなったのだ?」
 羽目板の隙間から吹き込んだ一陣の冷風が、届かぬ筈の行灯の灯火を吹き消した。
一瞬にして暗闇と化した室内で、丁助は低く呟く。
「死んだよ」
「責め殺されたのか」
「死んでも口を割ることはねぇだろうって、鬼吉が言っていた通りだったぜ。佐吉の奴、このままじゃ鬼六や俺たちのことを吐いちまうと覚悟したらしい。手前から何度も柱に頭を打ち付けて、頭と首の骨をぐしゃぐしゃに砕いちまったんだとよ」
「馬鹿な」
 魔巻の瞳から発せられた輝きは、それまでの興奮からくるものとは明らかに違っていた。
「そこまで義理立てするのか、たかが博徒に」
「先生、佐吉は義理立てだけで死を選んだんじゃねぇよ。ここで自分が口を割れば、自分の面倒を見てくれた鬼六や、今まで付き合ってくれた連中に迷惑が掛かっちまう。彼奴には、それがどうしても許せなかったんだろうさ」
「しかし」
「命を懸ける理由、命を捨てる理由なんて人それぞれさ……だろう?」
「しかし」
 左源堂魔巻には、その先へと繋げるべき言葉が思いつかなかった。

 
 
「ゆき!」
 飛び出してきたのは、佐吉の妹ゆきであった。
 兄と同じくつぎはぎだらけの袷を着ていながらも、唯一兄とは異なる柄物の襟巻を顔に重ね巻きしている姿は、妹のゆきに他ならない。特徴あるその巻き方を教えたのは、佐吉本人である。
 まだ幼く、また兄とは違い忍びとしての修行を行っているわけでもないゆきは、雪饅頭の周囲に人影が無いことにも、その中から伸びた導火線が爆散の火種を導いていることにもまるで気付かず、ただ口と手足を縛られてもがいている小狸を救い出さんとして雪饅頭に近づく。
 何故ここに来たのか。
 どうやって自分に気付かれず後を追うことが出来たのか。
 ゆきの前でそれを問い質す余裕など、この時の佐吉は持ち合わせておらず、自らの手で作り出してしまった肉親の窮地を救わねばならぬ、という使命感を感じる暇すらなく自然に体が動いた。
 雪饅頭の上に転がる小狸の縛めを解かんとして悪戦苦闘している己の妹を、奇声に等しい怒声を上げながら突き飛ばした佐吉が次の瞬間に垣間見た光景は、兄に突き飛ばされたことに驚き呆然としながら遠ざかる妹の顔と、それを遮るかのように足下から噴き上がった純白の雪景色であった。

 
 ピンゾロの丁助の呼びかけに応じた鬼六一家と二人の博徒は、お互いの顔を見合わせて頓狂な声を上げた。
「源四郎坊ちゃん、何故ここに!」
「鬼六ではないか、貴様も呼ばれたのか」
「ひいっ、鬼六の旦那!」
 泰然自若とする源四郎とは対照的に、伊三次は身を竦め震え上がった。
 集められたのは、あばら屋と見間違えそうなほどの荒れ寺である。密告者を炙り出すための舞台が必要であるとの相談を受けた鬼六が、それならばと一夜限りの条件で提供してくれたのだ。
 鬼六の菩提寺というわけではないが、この寺の住職と鬼六とは表沙汰にはできない繋がりがあり、法事で寺を開けなければならない住職の頼みで留守番を引き受けた、ということになっているらしい。
 法事というのは方便で、大方何処ぞの後家を口説きにでも行ったのだろうと、丁助は踏んでいる。
 寅安と鹿蔵は着物の上に褞袍どてらを重ね、三尺帯に紺の股引。首には染みの残る手拭いを襟巻代わりに巻いている。
 流石に鬼六は、乾分二人に比べれば真面な格好で、褞袍ではなく媚茶の羽織であるが、病み上がりのせいか賭場で睨みを利かせている時に比べると覇気がない。
 丁助が初めて寅安と顔を合わせた時は、痩せ細って柳のような風貌と掠れがちな声に、の名にそぐわない弱々しい印象を抱いたものである。しかし実際は、の身なりでも内面は荒っぽく、かっとなると見境なしに虎の如く相手に飛び掛かるという。また、掠れがちな声で脅しを入れられた博徒も賭場で何度か見かけている。
 一方の鹿蔵だが、こちらは六尺を優に超える巨漢である。其の見た目通りの怪力で、一旦暴れ出したら手が付けられない乱暴者であるが、相手が強気に出た途端に委縮する。其の容貌から佐吉以外にも脅しに近い形で金を借り、殆どを踏み倒しているようだが、鹿蔵の性格を知り尽くしている佐吉には頭が上がらず、彼からの督促には平身低頭だったらしい。
「親分、ようこそお越しくださいました」
「なんだよ、丁の字。いつもなら俺のこたぁ鬼六と呼び捨てじゃねぇか。番頭みてぇな言葉遣いしてんじゃねぇよ、気持ちわりぃ」
 中腰で頭を下げる丁助相手に、鬼六は罵声を浴びせる。
 寺の本堂は照明に乏しく、光源といえば来訪者の持つ提灯と中央に据えられた燭台のみであるが、前に立つ鹿蔵の持つ提灯の輝きに照らされた鬼六の表情は、侮蔑した丁助に対する嫌悪よりも、密告者の正体を知りたいという興奮の方が強いように見える。
 どうやら、風邪はすっかり抜けきったらしい。
 先導した鬼六一家を伊三次と源四郎の前に座らせ、自分は燭台の隣に立った丁助は、懐から一本の白扇子を取り出した。
 開いて軽く仰いだ途端に、おなつが「あら」と声を上げる。
 扇子の骨に使っている、香木の香りに気付いたらしい。
 一拍遅れて、残り五人の男勢もその香りに気付いたのか、しかしこちらは嗅ぎ慣れていないせいか、揃いも揃って怪訝な顔をする。
 否。
 どうやらある程度は嗅ぎ慣れているらしく、源四郎だけは直ぐに平静を取り戻した。
 ともあれ、お互いに疑惑の眼差しを向け合う前に、こちらへと関心を寄せることには成功したらしい。
 後は、左源堂魔巻に座を任せるのみである。
 扇子を閉じた丁助は、教えられた通りの口上を述べる。
「ええ、本日はようこそおいでくださいました。先日、役人どもの手入れにより甚大な被害を蒙った鬼六親分の賭場でございますが、親分が仰せのところでは、賭場の情報を役人に売り渡した、所謂密告者がいるのではないかということで、こちらの……」
「丁の字、いいからさっさと始めろ」
「最後まで言わせてくれよ、親分」
 白扇子を懐に仕舞い込んだ丁助は、燭台を持ち上座へと移動した。
 油を吸った灯心が明々と照らしだしたのは、いつの間にか据えられていた黒の見台。
 最近になって浄瑠璃で使われるようになった、手本を斜めに置く形式のものである。
 その前に鎮座するは、宗匠姿の左源堂魔巻。
「左源堂魔巻先生でございます。易占の達人で、密告者の正体を暴き出して御覧にいれると仰っておりまして……それでは先生、よろしくお願いします」
「うむ」
 鷹揚に頷いた左源堂魔巻は、やおら立ち上がると、両手に抱えた筮筒をじゃらじゃらと鳴らしながらゆっくり前へと歩き出す。
「易について、詳しい方はおられますかな?」
 誰も声を上げる者はいない。
「諸君。万物は絶えず流転する。これを変易という。されど本質は変わらず常に不変である。これを不易という。変易、不易が陰陽の法則を作り上げ、それは八卦、六四卦と称される。易における八卦とは、大昊伏羲たいこうふつぎがその大系を編み出したものであり、それを周の文王と息子の周公旦が書に収め残したと伝えられている」
 易占の起源を解説しながら、魔巻はゆっくりと静かに丁助の前を通り過ぎ、気圧されている鬼六たちの方へと向かう。
「易には基幹おおもととなる太極が存在し、これが両儀即ち陰陽を生ずる。陽は老陽と小陰を、陰は小陽と大陰を生じ、これを四象と呼ぶ。四象はそれぞれ二つの卦を生じ、其々をけんしんそんかんごんこんと呼ぶ。この八卦の組み合わせにより天道陰陽の道を推し量るのが易占である」
 前列に坐する鬼六の脇を通り、後列に坐する伊三次と源四郎の背後を巡り、ぐるりと一周してから魔巻は再び見台の前に腰を下ろす。
それがしは観相学を極めてもいる。顔を見れば、其奴の人となり、近況、経歴に抱えている問題の悉くを見抜くことが出来る。易占と観相、この二種の組み合わせで、常人が見出せぬことが許されぬ真相を暴き立てて御覧にいれよう」
 反応は、声ではなかった。
 下品な音と臭気が辺り一面に充満し、同時者以外のその場に居た全員が一斉に顔を顰めて立ち上がった。
「寅!」
 鬼六が犯人を叱りつけたものの、当の寅安は平気の平左である。
「へっへっ。あんまりつまらねぇもんだから、尻から欠伸が出ちまったぜ」
「そんなことだから、惚れた女が佐吉に色目を使うようになってしまったのだ」
 魔巻の言葉に、薄笑いを浮かべていた寅安の表情が凍りつく。
「それをやっかみ佐吉に正面から楯突いたところで、女の好みが易々と変わるわけがない。貴様の惚れた女は、始終威張り散らして偉そうに踏ん反り返る男より、そういう輩を相手に一歩も引かぬ気概を見せる男の方が好みであるのだから、まずは己がそういう男になれるよう精進すべきではないかな?」
 暗闇に魔巻の顔を照らし出す燭台の灯火が、音を立てて揺らめいた。
「他人を嗤っていられるような立場ではあるまい、鹿蔵。貴様は賭場の負け分で佐吉に四両の借りがあるばかりか、その佐吉が町方の責め苦を受けて自害したと聞き、実は佐吉が鬼六に打ち明け庇っていたとは知らず、返済を誤魔化そうとして鬼六親分の勘気に触れたことも、某は重々に承知である。着物で隠しているが、肩と脇腹を足蹴にされたときに残った痣は、まだ消えてはおらぬであろう」
 ひっ、と小さな悲鳴を上げ、鹿蔵はその場にひれ伏した。
「後方に控えておる伊三次ととて、申し開きがあろう。あの日、賭場へと向かう道中で先回りしていた正兵衛に足止めをくらい、手入れによる捕縛を免れた。正兵衛が手入れの予定を知っておったからであるが、今日になってその正兵衛から恩を着せられ、そこの丁助が乗り込んでおらなんだら、胴元が鬼六であると口を割っておったであろう、違うか?」
「あっ!」
 虎の如く伊三次に飛び掛かろうとした寅安は、しかし次の瞬間には、止めに入った源四郎に左腕を捻り上げられていた。
「腕達者であるな、易者」
 呟いた源四郎は、掴んでいた寅安の左腕を離す。どっと後方に倒れ込んだ寅安の身体を受け止め押さえつけたのは、鬼六と鹿蔵だった。
「だが、其の程度の見識は聞き回ればわかるもの。易占とは呼べぬ。違うか?」
「ならば、御覧にいれよう」
 聞き込みを見抜かれたことにも動揺の色を見せず、魔巻は見台の下に置いてあった筮筒の中から筮竹を全て引き抜き、やにわに一本を抜き取ると、それを筮筒に戻した。次いでむにゃむにゃと何やら口訣こうけつを唱えながら、残りの束を右手と左手に分け、指先で選り分けた数本を右から左へと移し、残りを筮筒の中へと手早く戻す。
 左手に残した筮竹を本堂の床板にばら撒くや否や、上下を逆さにした筮筒から引き抜いた筮竹を、の子を広げるかのように片手で見台の上に並べる。
「源四郎殿」
「なんだ」
「鬼門、即ち陸奥の方から来られたのですな」
「それがどうした」
「お父上は御高名でありながら、今のご時世には珍しく下々の者にも人望がおありなさる。源四郎殿は世子としてその後をお継ぎなさる立場におられるものの、それにふさわしい資質を求められ、不安になっておられる」
 初めて、源四郎の顔に焦りの色が浮かんだ。
「お父上が目付や城代家老であれば、個人の資質などというものは、さほど気に掛けるようなものではないし、気に掛けられるようなものでもない。ところが、お父上は江戸詰藩医という、並ならぬ知識と経験とを求められる役職だ。故に医学を学び研鑽を続けているものの、周囲の期待に応えられるのかと不安が募り、憂さを晴らさんがために賭場通いを続ける。顔役の鬼六親分は、過去に病で苦しんでいたところをお父上に助けられた男だ。大恩人の息子の頼みを断るわけにもいかず、源四郎殿御自身もこれではいかんと思いながら……」
「先生!」
 声を張り上げたのは、源四郎ではなく鬼六だった。
「もういい。お手並みは拝見させていただきやした。これ以上、源四郎坊ちゃんを苛めないでおくんなせぇ。仰る通り、あっしにとっては大恩人の御子息だし、気の毒なところもある御方なんだ」
「ならば、次は鬼六殿を占ってしんぜよう」
 源四郎殿を占ったときと同様に筮竹を束ね、分け、床板に撒き散らした魔巻は、ふぅむと髭の奥から陰陰滅滅とした唸り声を上げた。
「坤、坎……親分、患ったのは風邪ではなく下であると出たが、如何かな?」
 おう、と声を上げたのは鬼六のみであったが、傍らに控えるおなつもまた、血相を変えていた。
「見事だ、先生。いや恐れ入った。あっしについては、まったく先生の仰る通りだ。あっしが腹を下したのを知っているのは、あっしとおなつだけだ。あんまりみっともねぇから風邪で誤魔化していたのに」
 驚いたのは鬼六一家だけではない。
 源四郎の素性と鬼六の件は、丁助すら知らなかった情報である。
「これもすべて、易占によるものよ。さて、それでは本題に入るとしよう」
 左源堂魔巻は、髭の中から扇子を取り出して己の顔を仰いだ。勿論、本当に髭の中に隠していたわけではなく、顎髭の奥に隠れた懐から取り出しただけである。
「密告者の炙り出しであるが、人に過ぎぬ某が此処で易占の秘術を尽くして誰々であると告げるより、いっそ直接天魔の裁きに委ねようと思うのであるが、如何であろう?」
「それで下手人が見つかるのであれば、如何様にも」
 鬼六が頷き同意する。
 易占でぴたりと見抜くという脅しが効いているのだろう。意を唱える者はいなかった。
「それでは、手筈の通りに」
 予め言いつけられていた通り、鬼六一家と伊三次、そして源四郎を立ち上がらせた丁助は、魔巻を中心にした車座になるよう六人を配置し座らせた。
 そのまま元の位置へと戻ろうとする丁助を、魔巻が呼び止める。
「何処へ行くのだ」
「えっ?」
「お前は源四郎殿の隣だ」
「俺も?」
「これで八方に一人分が抜けて七方。空いているのは鬼門即ち艮の方角だ。そこから入ってきた佐吉の魂魄が姿を変え、某と此処にいる全員の顔を改める。冥府で閻魔の浄玻璃鏡を見せられ、真実を知った佐吉だ。密告者は此奴であるという証しを残してくれるであろう」
 筮竹を筮筒に戻し押し退けた左源堂魔巻は、不意に両眼を閉じて髭の前で印字を組み、またしてもむにゃむにゃと丁助にも意味の分からぬ口訣を唱え始めた。
 どれ程の刻が経ったのであろう。
 気圧されるままに車座になった面々の表から、次第に疑念の色が現れ始めた頃。
 誰かが、あっと声を上げた。
 何処からか風が吹きこんだわけでもないのに、左源堂魔巻の隣に立っていた燭台の灯火が、ふっと掻き消えた。
 入れ替わるように彼の眼前、それも中空に新たな灯火が浮かび上がる。
 誰の手によるものでもなく、其の灯火は宛ら一個の生き物のようにすぅ、と滑らかに動き始める。
 丁助は気付いた。
 これは、左源堂魔巻の幻術ではないか。
 彼の周囲を、円を描くように滑り続けながら次第に膨張する炎の塊。
 一見すると人の頭ほどの大きさにまで膨れ上がっているが、それでいて中央に坐したまま口訣を唱え続ける魔巻の衣服や髭、また彼の前に据えられた見台には炎が燃え移らない。
 次第に業炎に妨げられ姿が捉え辛くなりつつある魔巻。其の周囲をぐるぐると駆け巡る炎は次第にその速度を増し、遂には前後が連結して一個の炎輪と化した。燃え盛る勢いは凄まじく、ごうごうという唸り声を上げながら今にも襲い掛からんとする魔獣のようである。
 魔巻の素性を知っており、幻術ではないかと訝しんでいる丁助ですら、煉獄の如き光景に圧倒されているのである。他の面々は言うまでもない。
 最も弱腰であろう伊三次は縮み上がりガタガタと震え、おなつに至っては昏倒寸前。鬼六や源四郎ですら燃え盛る獣の如き炎の渦に、時季外れの汗をだらだらと流すのみである。
「門!」
 魔巻の大喝に応じ、炎の渦がそれまでとは異なった動きを見せた。
 連結していた一端が外れ、渦から巨体な炎の蛇へと姿を変える。
 其れの頭は、丁助と鬼六の間に存在する空間に突入し、車座の内側から外側へと、うねり乍ら回る位置を変える。
 移動を済ませた炎の蛇は、再び一個の連結した輪と化して、ぐるぐると回り始める。
 真に、地獄から呼び招いたかのような業火。
 其の間、俯きながらずっと心の中で「これは幻覚である」と念仏の如く繰り返していた丁助であるが、ならば首筋と背中に感じるこの強烈な熱気はなんなのだ――という己の問いに対する答えを知らない。
「浄!」
 魔巻の言葉で、背面に感じていた熱気が瞬時に焼失した。
 丁助が顔を上げると、それまで狂ったように回転しながら燃え盛っていた炎は、まるで最初から存在しなかったかのように姿を消し、ただ燭台の灯火だけが周囲を弱々しく照らし出すのみであった。
 あの業火が一瞬にして掻き消えるなどあり得ない。
 幻覚であろう。
 幻覚であることはほぼ確実なのだが。
 それでもほっと安堵の息を吐く丁助であった。
「炎による浄化が終了した」
 両手の印を解いた左源堂魔巻は、厳かに宣言した。
「某がこれから口にする質問は、各々方の魂魄への問いかけである。従って、言葉や態度で誤魔化そうとしたところで誤魔化しきれぬ。それでも知らぬ存ぜぬを通そうとすれば、浄玻璃鏡によって真実を知った佐吉の霊魂が、其の者の頭上に鮮明たる証拠を残すであろう」
 其れまで丁助らの耳を突き破らんばかりの轟音とは打って変わった、深淵の如き静寂。
「鬼六が賭場の詳細を役人に伝え、佐吉を死に追いやった咎人よ。もはや逃れる術は無い。一刻も早く名乗り出られい」
 本堂内に、左源堂魔巻の声が響き渡ってからしばし。
 寅安が、あっと声を上げた。
 鬼六の頭上で、炎が輝いているように見えたからだ。
 次いで鬼六の隣に座っていたおなつが、ひぃっと小さな悲鳴を上げた。
 灯は、彼女の頭上で煌々と輝いていた。
 
 

 失ったのは左足だけだと、誰もが言った。
 確かに、佐吉の想定よりは控えめであったものの、七寸の竹筒一つで小屋一棟を吹き飛ばすには十分なだけの威力を持った爆発に巻き込まれて、それでも火傷を負ったのが左足の膝から下のみというのは奇跡に近いのだろう。
 しかし癒えぬ火傷を左足に負ったことで常人程度の運動しか出来なくなり、また得意であると日頃から吹聴していた火術に失敗し自滅したという汚名が、将来を期待されていた佐吉の評判を底の底まで落とし込めた。
 逃げた小狸には目もくれず、失神した兄を泣き喚きながらも健気に里まで負ぶってくれた妹に罪は無い。火術の完成に浮き足立ち、妹の拙い尾行に気付かなかったが故の自業自得であると佐吉は割り切っていたが、この日を境に火術の修行は未練なく捨てた。
 それからは自宅に籠り切り、父の遺品である書物を読みふける日々が続いた。
 半年が経ち、夏のある晩に外出した佐吉は星空を眺め
「明日は雪が降る」
と呟いた。半年ぶりに彼の姿を見た里の人間は笑っていたが、翌日の夕暮れには本当に雪が降りだし、夜が明けると外は一面の雪景色と化していた。
 幸いにも、その日のうちに夏本来の気温に戻り、雪は全て溶け消えたが、佐吉が火術に代わる新たな術を会得したという噂は、しばらく消えることが無かった。
 佐吉からすれば、覚えたての占術を試してみただけに過ぎない。
 占ったのは一度きりで、その日以降は普通の農民と変わり映えのしない生活を送るうちに月日が経ち、後ろめたさが消えぬおゆきが嫁に行くのを見届けた佐吉は、他の若者に遅れて江戸へと旅立ち、酒浸りの左源堂魔巻となった。

 
「先生、いるかい?」
 たまには喋らず入ってこい。
 居らなんだら返事も出来ぬわ。
 色々と言いたいことはあるが、ピンゾロの丁助がぶら提げた酒徳利を見た途端、口から出る筈の言葉は生唾となって飲み込まれてしまった。
「丁助、その酒はなんだ」
「鬼六からの謝礼だよ。末代までの語り草、お代がたったの一両ぽっちじゃ安すぎるってさ」
 酒が切れた憂さ晴らしに、煎餅布団で不貞寝を決め込んでいた左源堂魔巻は、半身を起こして酒徳利を受け取るなり栓を開け、髭の上にある鼻を近づけた。
「毒や薬は入っておらぬようだな」
「疑り深いな、先生。鬼六は先生をべた褒めしていたぜ。あっしらみてぇな木っ端にゃ見抜けねぇことをぴたりと見抜いちまう、先生はまるで神農鍾馗のような御方だ――ってな」
「神農相手の供物がこれっぽっちとは、器が小さい」
 そもそも医学と農耕を司る炎帝神農と疫鬼を追い払う役目の鍾馗とでは、まるで異なるではないか。儂を一体何と心得ておるのかと、散々に皮肉と愚痴を繰り返しながら、それでも酒徳利には口を付ける魔巻。
「しかし、先生の知識と解説には恐れ入ったぜ。賭場じゃ偉そうな顔して踏ん反り返っていた鬼六や、お前らとは違うんだよっていつも見下しているようなツラぁしてた源四郎が、黙りっぱなしの頷きまくりだったもんな。やっぱり易者なんてぇもんは、一本立ちするのに相当な勉強を……」
「一知半解、極みに至らず」
 注ぎ口から離れた魔巻の、髭に覆われた口から出た言葉に、思わず丁助は誉め言葉の羅列を止めた。
「生噛りの中途半端な知識に過ぎず、あんなものは易学の初歩にもならんという意味だ」
 間に大きなゲップを入れてから、魔巻は言葉を続ける。
「半分くらいは口から出まかせ、残り半分も、儂が易を学び始めた頃に読んだ教書のうろ覚えに過ぎぬ。鬼六や源四郎が緘黙かんもくして一切異を唱えなかったのは、中途半端な知識しか持たぬ儂より無学であったからに他ならぬ。つまり、たいしたことではない」
「それでも自信満々で押し通したんだから、たいしたことじゃねぇか。賭場でも、胴元相手にそこまでの糞度胸を見せる奴はそうそう居ねぇよ。先生、いっぺん賭場に行ってみねぇか? 鬼六も、一度遊びに来てくれって言ってたぜ」
 賭場の胴元が気に入って勧めているのである。
 一度くらいならイカサマを使ってでも勝たせましょうという誘いなのだろう。
 だが、左源堂魔巻は大きく被りを振った。
「儂まで馬鹿の仲間入りをさせるつもりか。源四郎の二の舞ではないか。それより、儂がこの長屋に住んでいることを鬼六に教えたりはしておらぬであろうな?」
「言ってねぇが、本当にそれで良いのかい? 鬼六ぁ、あんたを高く買っていたぜ? 仲良くしていりゃ、何かと面倒見てくれる親分だと思うがね」
「今は、そうであろう。しかし儂の機嫌を取ろうとしておる鬼六の魂胆は、儂を利用することだ。そして儂を手懐けられぬと悟った時、他者に利用されて己に害が及ばぬよう始末する手段を探り始める。鬼六はそういう類の男だ。居場所を知らせず窮地にも借りを作らず、相手が次第に存在を忘れてしまう程度の薄い付き合いをしなければならぬ」
「そうかね?」
「今までは、佐吉が桶の箍のような働きをしていたのであろう。しかしその佐吉が世を去った今、箍が外れた桶のように、鬼六と乾分どもは纏まりが付かなくなるかもしれぬ。お前も、これからは鬼六との付き合いを控えておいた方が良いぞ」
「まあ、考えておくさ」
 あまり考えそうにない返答をしてから、丁助は手製の扇子を開いてぱたぱたと顔を仰ぐ。
「しかし、先生は何時おなつがたれ込みの下手人だと気付いたんだい?」
「半分くらい目星はつけていた。残りの半分は、あの時のおなつの反応だな」
 佐吉の魂魄だの浄玻璃鏡だのというものは、流石に丁助も本気にはしない。
 大蛇の如き業火の渦も、左源堂魔巻の幻術であろう。
 そうであるならば。
 密告者はおなつであると断定したのは、左源堂魔巻に他ならない。
「目星をつけた最初の半分と、残りの半分ってのは何だい?」
「最初の半分というのは、お前が鬼六について調べた時だ。鬼六が賭場に出ようとしたのを止めた佐吉が言ったそうではないか。一人では厠にも行けぬ身体であると。風邪なのに熱でも咳でもなく厠が出てきたので、これは下痢であろうと儂は睨んだ」
「けど、それだけで」
「まだあるぞ」
 丁助の反論を遮ってから、魔巻は説明を続ける。
「その時、代替えを立てようと言い出したのは、おなつだとも言ったな。つまり、佐吉が必ず賭場に向かうよう仕向ける細工を施せたのは、おなつ以外におらぬ。手入れの場にいた鹿蔵と源四郎は、その場で佐吉を裏切ることなら出来たかもしれぬが、同じような細工を事前に施すのは不可能だ。おまけに鬼六の懐刀として付き合っていれば、その義理堅い性格もお見通し、不意の手入れでは自らを犠牲にしてでも知人を逃がす男だと知り尽くしていた筈。よって、儂の疑いの目はおなつに向けられたわけだ」
「鬼六の下痢とは関係ねぇ話じゃねぇか」
「その鬼六に薬や薬湯を飲ませていたのは誰だ?」
「あっ」
 その言わんとするところを悟った丁助が、声を上げた。
「お前も忍びの修行をした男なら、腹を下す程度の弱い毒を持つ草ぐらいは知っておろう。昨日のうちにおなつの足取りを調べ上げて、ある薬種問屋から下しの薬として購入していたのを突き止めたのだ」
「おう、それだ。先生、俺も知らなかった情報を、どうやって突き止めたんだ?」
「儂には儂なりの調べ方があるのでな。お前には鬼六たちを呼び集める役目を与えておったから、自分で調べたのだ。大まかなところはお前が調べていたから、それに比べれば随分楽だったと思うぞ」
「一日掛けて占うと言ってなかったか?」
「勿論、嘘だ」
 もはや怒る気にもならない。
「寅安が女絡みで佐吉に突っかかっていたことも、その女の好みも、鹿蔵が借金を誤魔化そうとしていたことも源四郎の素性も、軒並み儂が調べ上げた。伊達に路上で筮竹を鳴らしておるのではない。これぐらいのことが調べ上げられぬようでは、当たる易者にはなれんぞ」
「易者になる気は無ぇし、ならねぇ方が身のためだと今知ったよ」
 下拵えは万端だった、ということか。
「さて、そこまで見当が付けば、後は鬼六のご希望通り、たとえどのような結末を迎えるのであろうとしても炙り出すのみ。そこで、儂は幻術を使った」
「使う必要があったのかね、あれは」
「儂がいくら弁舌を尽くしたところで、おなつは巧みに言い逃れておったであろう。鬼六に飲ませた下し薬も、佐吉を代替えにすると決まった直後に棄て去ってしまえば証拠は残らない。おなつに薬を売った男を証人に立てようかとも考えたが、こちらは公儀でも十手持ちでもないのであるから、権力を笠に引っ立ててくるわけにもいかぬし、おなつに誤魔化されてしまっては此方が不利になる。何より、おなつ自らが白状しない限り、誰も彼女が密告者であるとは信じようとせぬであろう。だからこそ、あの手を使ったのだ」
「まさか俺にまで使ってくるとは思わなかったよ。里にいた頃のあんたは火術にばかり没頭していたから、まさか幻術まで使えるとは考えていなかった。お陰でこちとらあの光景に、心底肝を冷やしたぜ」
「炎に囲まれて肝を冷やす馬鹿がいるとは思わなんだ」
 髭を震わせ嘲笑してから、また酒を呷る魔巻。
「まあ、最後のあれだけは本物の火だ。あのまま逃げ出そうとして立ち上がろうものなら、忽ち髪や衣服に燃え移る。そういう高さに調節して、逃げ出せないようにしたのだ」
「寅安は、鬼六の頭上で点いたように見間違えたと言っていたな。自分より若くて頭も切れる佐吉に縄張りを乗っ取られるんじゃねぇかと不安になった鬼六が、賭場を開帳した責任まで佐吉に擦り付けて陥れようとしたんじゃねぇかと疑っていたそうだが」
「寅安が何かと佐吉に突っかかっていたのも、女だけが原因とは限らなかったのかもしれぬな。まあ腹違いとはいえ、己の姉が密告者とは信じたくない気持ちの方が強かったのかもしれぬが」
 酔いが回ってきたのだろう。左源堂魔巻の視線が、ぼんやりと宙を漂い始めた。
「似たような感情は、儂も持っておった。いや、同情や親愛などといった安っぽいものではないぞ。儂が言うのもおかしな話だが、おなつが賭場の情報を役人に密告した理由が、未だにわからんのだ。それ故に、おなつが自らあの場で白状するように舞台を用意したというのに、肝心なところは聞き損ねてしもうた」
 佐吉の魂魄による証しと称された灯火が、己の頭上に瞬いたことで度を失いひれ伏すおなつを取り囲んだ鬼六一家は、灯火が消えるや否や錯乱する彼女を三人で抱え上げ、魔巻への礼も早々に寺から逃げるように立ち去ってしまった。
 舞台の後片付けをしなければならず、また住職が帰って来るまでの留守番という手前もあり、残された四人は鬼六一家の後を追うわけにもいかず、また幻覚を見た三名には彼らを追う気力も残されてはいなかった。
「それについては、ちゃんと鬼六から聞いて来たぜ」
「どうだった?」
「おなつと佐吉はな、よんどころ無い仲になっていたんだとよ。それを鬼六に感づかれるのを恐れたおなつが、腹下しの薬を鬼六に飲ませて薬を買いに行くふりをしながら、途中で男の身なりに着替えて岡っ引に密告したらしい。着替えは寅安の女の処でやっていたっていうんだから、まったくたいした肝っ玉だぜ」
「拠無い仲か。それが見抜けなかったとは、この左源堂魔巻もまだまだ未熟よのう」
 自らを未熟と卑下しながら、それでも魔巻の表情には不思議な納得と会心の色が浮かんでいた。
「おなつをどうするかについては、鬼六と乾分らが話し合って決めることになったそうだ。まあ、やったことがやったことだ。良い仲になった情夫を秘かに葬らんがために亭主に毒を盛り、賭場の御開帳を捕り方に密告して客に迷惑を掛け、鬼六の面子を丸潰れにしたんだからな。間違いなく、これよ」
 言いながら、丁助は己の首筋に手刀を当てた。
「果たしてそうかな?」
「先生、他に何があるってんだい?」
「佐吉が死んで基盤が脆くなっておるのだぞ。まあ、男女の秘めたる愛憎を見抜けなかった儂が、とやかく言うことではないな。仮にこれで鬼六一家が総崩れになったとしても、それはそれで儂にとっては万々歳だ」
 左源堂魔巻の推理は、その詳細を語れば理路整然としている。
 しかし、結論にたどり着くまでの経緯を筋立てて説明するには膨大な時間と聞き手の根気を必要とするため、普段はその経緯をすべて端折って結論のみを相手に語ってしまう。結果として、魔巻の言動は突飛なものと誤解されがちである。
 例えるならば一を聞いて十を知り、二か三までしか把握していない相手に九と十のみを説明しているようなもので、相手の理解が追い付かなくなってしまうのである。
「まあ、女房というものが油断ならないのは昔からだ。明という国の陶宗儀という男が編纂した、輟耕録てつこうろくという書を知っておるか?」
「知っている筈がねぇ」
「こんな話が載っている。検視官が、とある男の死について疑いを抱いておった。死んだ男の弟から、男の嫁が奸夫と共謀し毒を盛って殺したのだという訴えを聞いてはいたのだが、死体にはそれらしい証拠が出なかったという。仕事の悩みを聞いた検視官の女房は、それなら死体の脳天に太釘が打ち込まれていないか確かめてみれば良い、その釘が毒抜きの方法であり証拠になると教えられ、言われた通りに死体を検めてみたところ、果たして頭蓋骨の頭頂部には太釘が打たれていた」
「悪事が暴かれて、めでたい終わり方じゃねぇか」
「恐ろしいのはここからだ。検視官の手柄話を聞いた上司は、彼の女房が後添えと聞いて、すぐさま前夫の墓を暴かせた」
「おい、まさか」
「前夫の頭蓋骨にも、太釘が打ち込まれていたそうだ」
 魔巻は己の顎髭を何度も撫で下ろしながら言葉を続ける。
「女房などというものは、一見おとなしいようで腹の内は何を考えているのか、わかったようなものではない。女房を娶るつもりであれば、その旨覚悟しておいた方が良いぞ」
「俺に、そこまでの甲斐性は無ぇよ」
 ピンゾロの丁助は、己の家財道具一式を丸ごと付け馬に差し押さえられてしまうほどの博打狂いである。娶った翌日には女房を質に出してしまいかねない。
「まあ俺としちゃ、鬼六ン処が潰れちまったら博打する場所に困るからな。そうならないよう、稲荷大明神にでもお祈りしてくるかね」
 立ち上がり長屋を出ようとする丁助を、魔巻は呼び止めた。
「おう、待て待て丁助。外出するならついでに頼みたいことがある」
「なんだよ?」
「これをな、大家の伝次郎に渡してもらいたいのだ。儂は寒さで左足が痛むのでな。駄賃も呉れてやるぞ、ほれ」
 行李の中から一通の封書を取り出し、空いている方の手で掴み取った文銭を丁助の方へとばら撒く。
 その銭すべてを空中で受け止めた丁助は、ゆっくりとした足取りで魔巻に近づき封書を受け取った。
「伝次郎ン処なら行きがけのついでになるから構わねぇが、奴に此奴こいつを渡してどうなるってんだ? 飛脚に任せた方が良くないか?」
「そろそろ、儂らの近況報告を里に送るであろうからな。一緒に送り届けてもらう。なに、伝次郎が断ることはあるまいよ」
「誰宛てなんだ?」
「たいしたものではない」
 答えながらも、左源堂魔巻は破顔した。
「里長の息子の嫁に宛てた文だ。妹よ、息災でやっているか、とな」
 
 
                                   (了)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?