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由宇子の「天秤」が大きく傾いた後の話

ネタバレはされる以上に、するのが嫌なんですよ。
むずかしいお年頃であるティーンエイジ女子と基本的にはウマが合う父娘をやっていますが、ネタバレに関してはまるで意見が合わない昨今(「結局どうなるんすか? ってすぐ言うよね」「ダルいじゃん」)父さんな、映画『由宇子の天秤』(2020)感想をどこまでネタバレ無しでいえるか企画に挑もうと思ってな。

いろんな見方を許容する懐の深い作品でしたが、なかでも誰もが唸らされるのがエンディング。ここで切ったらハードボイルドだけど……って文字通り固唾を飲んでいたら「絶対こっちが正解だわ」って着地になるんだもの、あれは絶賛するしかないよね。
ただ、そこに至るまでの数分間の主人公の動きに納得していない自分がいるのも確かで。そして私に似た感想のひとがちらほらいるようでもあり、その話をしたいんです。

主人公に見えている世界と同じく、観客であるわれわれにも神視点は提供されない、という指摘は町山智浩がしていますね。

普通、映画とかってそうなんですけども、こっちで何かの事件があると「その裏では別のところでこの人はこういうことをしてました」って見せちゃうじゃないですか ... それをやっていないんです。
だから、この由宇子さんが次々と彼女自身の天秤を揺るがされていくのを観客は全く同じように体験していくというところで、非常にジェットコースター感覚の強い映画になってますね

「あなたはAかBのどっちかだと思っていたけど、Aなのね」
と主人公に断定され、ショックを受ける登場人物がいるのですが、観客であるわれわれは、そこでは主人公ではなくもう一方の登場人物に感情を移して同じ衝撃を味わうことになります。え、なんでそんなこと言うの?

Aと判断する材料
・同級生の発言
・「そういえば」物語前半、塾教室シークエンスはA説を示唆していたようにも思える
・主人公父とのなりゆきも、Aなら納得できる気がする
・(時系列的には後だけど)当該人物の父親発言

Bと判断する材料
……こっちの材料がないんですよね。
主人公にも、観客にも提示されていない。じゃあなぜもっと早くわれわれはA説に天秤を傾けなかったのか。
それは主人公が本能的におこなってきた「天秤のバランスを取る」行為、すなわちAと決めつけるのではなくBの可能性を考えたい。観客のわれわれも、それをなぞっていたから。(大なり小なり、われわれの日常がそういうバランスを取る行為の連続である、という意味でもありますね)

ところが、主人公の身に起きた事象によってAB両論の可能性を検討するゆとりが主人公からは失われてしまう。
結果、完全一致だと思っていた主人公だけが「勝手に」観客の自分たちを置き去りにして、A説を採ってしまうことで受ける衝撃。
この作品の最大の見どころはそこだと思ったんですよ。

主人公の行動は一貫して粘り強く、「天秤のバランス」をなんとか取っていた。それが遂に崩れるに至った理由は十分すぎるほど描かれる。
だから「天秤が傾いたこと」にわれわれは驚くわけではない。
ギリギリの局面に至ればヒトは他者を慮った視点には立てない、自分が正だと思う選択肢を採ることで、天秤は大きく傾いてしまう。
……という詠嘆。

それを「弱さ」だって指摘されても困るよねえ。
じゃあアンタはいつだって正しいんですか本当ですかへーそうなんだー友達にはなれそうにないっすねー。みたいな。

以下は、オチの無いまま終わらせ方が分からなくなった元業界関係お父さんによるテレビ局まめ知識です。
・「テレビ局のえらいひと」として出ているのはおそらく制作局のプロデューサー(若いほう)と総務の法務担当(イヤな奴のほう)
・彼らのセリフ「報道がうるさいぞ」が意味するのは、報道局枠ではなく制作局特番として放送予定の番組説を唱えたい
・スポンサー意向って話が出てこないのは、報道番組において営業局の影響は可能なかぎり抑えられるものだから、その余韻
・編成に見せてしまったせいで云々、というセリフがあった通りオンエアを決める権限は作品に出てこない編成局が握っていて、つまり放送局には放送局のピラミッドがあるんですがその全部を描く時間はありません
・なお、制作会社は制作局からの発注で動く下請けなのでピラミッドの下層ですが主人公は制作会社の従業員ですらなく、あくまでもフリーランスのディレクターなので、そういう意味ではピラミッドの「外」に居るのです

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