慮の時代

今の社会は遠慮と配慮に満ちていて、「どれだけ他者を慮ることができているのか」という点が、個人においても店においてもそれを表明、証明することがなんとなく重要な指標になっている。慮るとは、「用心して、考えをめぐらす」ことで、それは人と関わるうえで大切なことではある。しかし考えをめぐらせている間にも時間は過ぎ、目の前で起きている出来事は次々と過去のものになっていく。そして残るのは「何もしてない」という小さな無力感と昇華されなかった思考。それらが体と心に堆積し、重くなっていく。この重くなったものを成仏させる回路が重要で、その回路としてドナルド・トランプとか麻生太郎が使われる。「慮る」の対極にいる人々の言葉は軽くて、責任がない。そのため、人によっては堆積していたものが飛んでいくような快感を得られる。だから支持される。あるいは、「配慮がない」人間をネット上で吊し上げて袋叩きにすることもそれと同じことかもしれない。
別の回路を見つけること、あるいはつくること。それが今重要な気がしている。僕は先週福島で出会ったUさんにそれを見た。Uさんは双葉町で牛飼いをしていた方で、原発事故後は埼玉に暮らし続けている。未だに自宅には帰れずにいる。そのUさんが、先日能登半島にほうれん草を山積みにして向かった話しをしてくれた。能登で起きた地震の直後に発表された「ボランティアはまだ来ないで下さい」という声の影響は大きく、現地では人手や物資が不足しているにもかかわらず、助けに向かうこともできないという状況が生まれてしまっていたという。被災地では、福島でも能登でも食事は保存のきくインスタント食品がメインになる。Uさんはそのツラさを身に沁みて感じているので、ほうれん草を届けたいと思ったそうだ。現地では「4ヶ月ぶりの生野菜だ」と泣いて喜ばれたと言っていた。

僕は13年間福島県を訪れたいと思っていながら、訪れることがなにか暮らしている人に対して失礼なのではないかという、遠慮と配慮が混ざったような感情があり、ずっと行くことができずにいた。しかし行って感じたのは「ここで起きていることを見て、聞いて、そしてそれを多くの人に伝えて欲しい」と思いながら活動する多くの人の存在だった。もちろんそうではなく、ほうっておいて欲しい、わざわざ訪ねてきてこないで欲しいと考えている人々の存在もある。その人たちの元へズカズカと近付いていくのはもちろん良くない。でも、Uさんの話しと、実際に行って話しを聞かせてくれた方々との交流を経て、僕は「拒絶されるかもしれないという覚悟」を持つことも大事だと思った。慮ることを飛び越えて、体で反応すること。そのことが良い結果になることもあるし、衝突を生むこともある。でも、たとえ衝突が起きても、争いに発展させないように努めることもできる。
衝突することで人を傷つけるかもしれないということと、それと同じくらい「配慮ができない人間」と思われてしまうことを僕は恐れていた。自分が人にどう思われるかを気にして動けずにいる、我が身の可愛さ。そんなもの放りだして、「配慮ができない人間」と思われる覚悟を持つ。自分の口で言葉を語る。自分の足で歩く。その結果に対して覚悟を持つ。

(福島原発20キロ圏内ツアーの報告は今書いているところです。今年の8月くらいに島根、鳥取両県で報告会を開きたいと思っています。)

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