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日誌 2023 10.14~16

10月14日 マツクマ先生

晩御飯を食べてもまだ小腹が空いていて、冷蔵庫にあったみちくんのベビーダノンを食べたその時、時空が逆流して僕は「マツクマ先生〜!」と叫んだ。幼少期、通っていた北九州の病院の先生の名前がマツクマ先生だった。病院のキッズスペースは薄暗くて、自販機の明かりだけがやけに目立っていた。多分僕はそこで、ベビーダノンの味に似たジュースをよく飲ませてもらっていたのだと思う。それが記憶を一気に放出する引き金になった。
マツクマ先生は電話対応だけで症状を分析して「今すぐ病院行け!」と母に伝えたことがあるらしい。結果、僕は髄膜炎でしばらく入院することになった。今こうして元気でいるのはマツクマ先生のおかげだ。ベビーダノンを食べながらマツクマ先生に感謝の念を送る。当時でおじいちゃんだったから、今はもう現世にはいないだろう。

店には生ける伝説、庄司さんと永井さんが来てくれた。賢者にして戦士。活動は断片的にしか知らないけど、社会に対して身をなげうって活動してきた人たちだ。2人ともそれぞれに体験してきたことが無限にあり、伝え聞かれるべき経験を海のように湛えている。それら全てを数回の会話では到底聞ききれない。自伝を書いて欲しいと思うけど、一人の人間が経験してきたことを文字として受け取りたいと願うのは傲慢なことかもしれないとも思う。この生きている時間の中で、お互いが同じ空間の中で共に過ごすことでしか受け取ってはいけないようなものがある。

愉快で元気な新たなデザイナーチーム「一両編成」のメンバーも来てくれた。本当に楽しい人たち。デザインとおにぎり屋をやるかもと計画中とのこと。思いつくこと全部やってみて欲しい。全部うまくいきそうな気配がある。


10.15 むきばんだ遺跡

早起き。まずはローソンでホットコーヒーを買い、快晴の空の下むきばんだ遺跡を目指す。むきばんだ遺跡は弥生人たちが暮らした集落跡地で、竪穴式住居や高床式住居が再現してある海辺の丘の公園。背後には大山があり、丘からは海を見下ろせる。僕も弥生人として旅をしていたならここに住んだかもしれない。気持ちの良い場所だ。
会場に着くと同時ぐらいに突如として天気が変わり、1時間以上雨に降られた。しばらく車内で待機しながら雨が止むのを待つ。みちくんはシートベルトを限界まで伸ばして手を離すと一気に収縮するということを発見して、無限にそれを繰り返してむちゃくちゃ楽しそうにしていた。雨の車内で待機するって、確かに子どもの頃楽しかったなと思い出していた。
その後は快晴。竪穴式住居では喫茶ミラクルがミラーボールとDJブースを設置してディスコ空間をつくっている。飲食も豊富で、1日限りの良い村が出来ていた。
僕はみちくんと栗拾い、バッタとカエルの捕獲活動と店番をアキナと交互に繰り返した。
骨組みだけの竪穴式住居がこどもらに人気で、みちくんもずっとその場にいた。ゲジゲジとヤスデがフュージョンしたような巨大節足動物がいて、みちくんは葉っぱを使って間接的に触れたりして虫との交流をずっと続けていた。他の子は「きもちわるいいい」と慄きながらも遠目から興味深く覗き見ていた。僕はこの節足動物はヤスデの大親分的存在に思えてきて、あんまり構いすぎないようにした方がいい気がしてきた。というところで暴れん坊キッズが突如として登場。大親分を勢いよく踏みつけた足を何度か捻り、「はい死んだ~!」と雄たけびをあげた。その場にいた誰も彼もが突然の出来事に時が止まったように動かずにいた。防ぎようのない唐突な乱暴がある。子どもの世界にも大人の世界にもある。できるだけみちくんを唐突な乱暴から遠ざけたいと思うのは自分のエゴかどうかを竪穴式住居の中で考えていた。

楽しみにしていた東郷清丸さんのライブはみちくんとの大冒険で全然集中して聴けなかった。「バッタより清丸さん見たほうが良いぞ」とみちくんを誘うが、どうやってもバッタの魅力には抗うことができないようだった。

帰りはブックオフへ立ち寄る。壇蜜の日記が本になっていて、最初の日記を読む。テレビなどの大きなメディアで活動する人は好き放題に言われる。壇蜜はそれを「有名税として払っているにしては見返りがない」というような内容のことを綺麗な文章で綴っていた。素晴らしい。購入。
ツイッターを開くと沼田和也さんが「著書を読んで感激したと言って訪れた人が、現実のわたしと交流し「幻滅しました」と言って去る」みたいなことを呟いていた。女優も教会も店も好き放題に言われるものだなと独りごちる。人はファンの為に生きているのではない。その人がその人として生きている結果、誰かがその人のファンになったというだけだ。のびのび生きよう。

久々にOUランドへ行く。みちくんはおっさんの風格を持って湯船に座り、温泉の心地よさを堪能していた。かわいい小さなおっさん。脱衣所では同い年くらいの坊やがみちくんを不敵な笑みで誘い、共にロッカーの中へ入り、そこから勢いよく登場するという遊びを瞬時に流行らせた。

10.16 取材

朝10時の回で「大いなる自由」をjigへ観に行く。今日もフカPの上映前アナウンスは丁寧だ。
舞台は第二次世界大戦後のドイツで、同性愛が罪だった時代を生きたハンスの獄中生活を描いた映画。法を決めるのは権力だが、権力を持つものは政治家とは限らない。世間の側も権力を持つ。政治家だけが政治を行なう訳ではなく、世間の人々のふるまいも政治だ。
何が罪かは政治が決める。政治は世界の物事に罪のシールを貼ったり剥がしたり、勝手なものだ。映画を観ながらずっとそんなことを考えていた。現時点で、世界の物事に貼られたシールがどのような表記になっているかを的確に把握すること、それを今世間では「価値観のアップデート」と呼んでいる。アップデートできていない人間が叩かれているのもよく見る。その先に良い予感がない。
何が罪かは自分の心のディープインサイドに聞く。ディープインサイドに耳を澄ますその時間には沈黙がある。アップデートの通知は沈黙をいつも破ろうと更新を迫るが、腑に落ちるまで沈黙する間に耐える強さが大事だ。
映画に関係あるようなないような話しになった。

午後、店番しながらずっと取材を受けていた。いわゆる「成功物語」のような人生を生きていない人物が対象となるシリーズものの記事とのこと。何が「成功」なのかも時代が決める。今だったら高収入なのかな。でも高収入でも生きている時間を辛いと感じている人も多い。僕は生きている時間が生み出す味をできるだけ味わおうとしている。腑に落ちるまで歩き続けるのが人生だと思って生きている。壁に当たれば、その壁を乗り越えるのではなく、壁の素材を確かめようとする。それはとても効率の悪い無駄なことだ。でも自分はそう生きてしまうクセがある。クセを堂々と披露することで生きられる道ができることもある。現代社会で選択肢として提示されている様々な道は、元はといえばそれぞれの人が持つそれぞれの異様なクセが表現された結果できたものだ。
取材対象は数十人。まとめて一冊の本になるらしい。まだ見ぬ誰かがのびのび生きることに繋がると嬉しい。

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