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日誌 2023.9.8 雨森芳洲と庭文庫

一昔前の日本は世界で最も経済が潤っていた。明治以来「脱亜入欧」を唱えていた日本人の精神性は、経済のパワーにも後押しされアジア人で在りながら「アジア」を蔑視する不思議なカタチをとるようになった。
「欧米」も「アジア」も身体と環境がつくるある種のクセの総称だ。国は経済を合理的に動かす為だとか、一定の方向に誘導したい都合だとかでその「クセ」を矯正する。今の日本は、金も失い、「クセ」も失った。金が無くなれば身体と心しかないのに。身体と心をある程度快適に動かしていたのが「クセ」だ。
僕にとってその「クセ」は、例えばおもむろに路上で商売を始めることだったり、土地にあるもので小屋を建てることだったりする。身体と環境が図らずとも求めてしまう動き、つまり「人間」の動き。それがまだ自分の中には多少ある。でも今の日本の街は人間の動きを制限するような設計になっている。僕は活き活きとしたクセを残す国に惹かれるし、クセを失ってしまったのなら再び思い出すような動きをしていきたいと思う。
韓国も受験地獄や外見重視に苦しんでいる。中国は経済大国で爆進中と思いきやそれについていけない「寝そべり主義者(もう働きたくない!寝る!という主義者たち)」たちが密かに存在している。聞くところによると台湾も物価と家賃の高騰に喘いでいる。東アジアのどの国も「クセ」の矯正に苦しんでいるように見える。それでも、韓国へ行けば韓国にある風通しの良さを感じるし、台湾に行けば台湾の風通しの良さを感じる。そして恐らく、ずっと住んでるから気付けないだけで日本にも風通しの良い部分がある。それを東アジア、東南アジアとをお互いに行き来することで気付きたい。思い出したい。というようなことをいつも考えている。

朝、長野へ向けて長浜を運転していたら「東アジア交流ハウス」という看板を見かけた。我が家はテレビが無いから観てないけど、なんだかテレビに誘導されて中国批判が高まっていきそうな気配がするし、関東大震災朝鮮人虐殺事件は無かったと政治家が主張して不穏な空気をつくっていることなどが頭を過り、1度通り過ぎたあとにUターンして「東アジア交流ハウス」へ向かうことにした。
東アジア交流ハウスは、この地で生まれた江戸時代の外交官、雨森芳洲に関連した資料館兼交流スペースだった。「鳥取から来ました」というと受付のおじさんは「わたしがここに来て以来、鳥取からの人は初めてだ。」と驚いていた。雨森芳洲は医学と儒学を学び、中国語もハングルも話すことのできる江戸時代の国際人で、朝鮮通信使の使節団にも真文役として二度同行した人物なのだという。朝鮮通信使についてほぼ何も知らなかったけど、資料館には一団が釜山から対馬へ渡り江戸まで凄まじい人数の大行列をなして移動する様子が数十メートルの絵巻物として残されていた。朝鮮からの重役、楽器隊、曲芸師たちに加え、雨森芳洲等の外交官などの日本人たち。その数は数千人に及んだという。そうした大規模で賑やかな集団がピーヒャラドンドン楽器を鳴らし、曲芸師たちは馬の背でアクロバットを披露しながら数ヶ月かけて太平洋側を歩いて移動していく。そんなことが1618年から200年間の間に12回行われていたらしい。初めて知りましたというと、おじさんは「朝鮮通信使について教科書には詳しく載ってないからね。学校で教えてないんですよ。」と言った。こんなとてつもないパレードの歴史があったなんて。通りでは見物人がごった返し、川には即席の橋がかかる。毎食、すさまじい量のご馳走を振る舞う。一度のパレードには100万石の経費がかかったらしい。その国家予算以上の経費を賄う為に、各藩から少しずつ費用を捻出していたとのことだが、その皺寄せを喰らう農民たちは一揆を起こした。資料を目にしながらおじさんの解説を聞くと、当時の世の中の様子が在り在りと浮かんだ。
そのようなパレードの同行などを通じて外交官として働いてきた雨森芳洲は朝鮮や中国との付き合いの中で酸いも甘いも知ったのだろう。各地で地酒が振る舞われると朝鮮の重役は「美味い!これが一番美味い酒だ。」と言い、その土地土地の人間は「やっぱりうちの酒が一番美味いんだ」と調子づく。だが雨森芳洲は冷静に「そりゃ美味いと言うだろう。でも、本当のところは誰でも自分のとこの酒が本人にとっては一番美味いんだよ」と諭す。外交上の本音と建前を見抜きながらも、それでも彼の外交の信条は「互いに欺かず争わず」だった。中国が一番の大国として存在していた当時、アジアの二番手を主張する意識が日本と朝鮮の間にあったというが、雨森芳洲は文化自体に優劣をつくらず、それぞれが固有でユニークな文化を成熟させよと唱えていた。雨森芳洲という人はそのような人物だったのだという。高月町雨森は町全体で雨森芳洲を讃えている。こうした人物を讃える町では、きっとむやみな嫌韓嫌中が蔓延らないだろうなと感じた。田舎には色々な町があるものだ。来てよかった。朝鮮通信使も雨森芳洲のことも今日まで全然知らなかった。

滋賀を抜けて岐阜へ入る。今日は庭文庫へ寄ることにした。山道をどんどん登り、ぐるーっと谷の集落を通る。どの集落にも人の気配がする。こんな奥地の集落にもまだ活気があるということに驚く。鳥取の感覚だと、ここまで奥へ行くと人の気配が無く、朽ちかけた空き家が目立つようになると思う立地でさえ人がまだいる。朽ちているような家も少ない。そのうえ谷の道を中学生がたくさん歩いている。こんな奥地でも未だ中学校が存続している。過疎化の進行具合は地域によって如実に差があるということを実感する。
山道を進んで進んで、ようやく庭文庫に到着。袋から梨を一個取り出して、店に続く坂道を登ると、玄関には店主の百瀬さんらしき人が立ち、その奥にはもう一人の店主ミキティさんらしき人がいる。どう挨拶しようか。「あのー、梨です。」とアホのように梨を手渡し、鳥取から来たというと二人は喜んでくれた。汽水空港をやっていてよかった。
庭文庫には静かな時間が流れていた。なのに全然緊張しない。友だちの家のような雰囲気がある。プライベートとパブリックの狭間に様々な濃度があるとしたら、庭文庫は一番心地の良い濃度が広がるエリアだと思った。読んでみたい古本、新品の本がたくさん。近所の作家のグッズもある。来訪客が自由に書き込むことのできるノートもあって、そのかかわりしろに押し付けがましさのない友好の態度を感じる。次々とどこからともなくお客さんが現れるが、各々が自由に空間で過ごしている。やがてミキティさんがこども園から2歳の娘を連れて帰り、かわいい声が混ざり始める。最高に快適だった。もう少し滞在していたかったけど、17時頃に庭文庫を後にする。今夜はできるだけ距離を稼ぎたい。長野県に入った辺りで力尽き、道の駅で車中泊した。夜は急に寒くなり、被れるもの、巻けるもの全てを身体にはりつけて震えながら過ごした。温泉に入りたいと一晩中願った。

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