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”全力”を尽くすことでも”良”を選ぶことでもなく”最善”を目指す。 そして”すでに最善”である。

 「全力を尽くすことと、最善を尽くすこととは違うのだ」と、[統計学が最強の学問である(ダイヤモンド社刊)]の「おわりに」の項で著者 西内啓氏が述べている。
 西内氏は全力を尽くすのではなく、最善を尽くすべきであり、そのためには統計学リテラシーが必要なのだと語る。本の中では統計学について大変面白く、分かりやすく語られているので是非御一読いただきたいのだが、今回は本の内容ではなく、この言葉について考えてみたい。

 一般的には全力を尽くすことは素晴らしいといわれることが多いようだ。
 「全力を尽くすことが尊いのだ」「結果は考えずに全力を出すことができればそれで良いのだ」或いは「全力を出しきれなかったことが悔しい」とか「全力で当たってからモノを言え」とまで、世の中を見渡せば全力崇拝論者だらけだ。

 しかし本当にそうだろうか?

 そこで問われるのは、その全力でやっていることが「最善のこと」なのか、また、全力でやるということが果たして「最善の策」なのかということだ。
 それがどうなのかということを「統計リテラシー」をもって考えよと言うことなのだろう。

「七つの習慣」で、スティーブン・R・コヴィー博士は、「多くの場合”最良”の敵は”良”である」と語っている。
 ここでの”最良”は”最善”と同義と考えるのだが、そこそこやったつもりになってしまうことが”最善”を選ぶ気持ちを遠ざけてしまうということだろうか。

 「全力を出し切る」とか「頑張る」とかそういった、決して最良、最善ではないかもしれない事柄をすることによって自分の中で折り合いをつけ「最善」を追求することを諦めても自分を納得させているのではないか。

 西内氏は「全力を尽くす」という、なにやら感情的なニュアンスに流されることで本来の意味、目的が見えなくなることがないように、それが良なのか、最良なのか、”最善”は何なのかを統計リテラシーをもって冷静に見極めよと言われているのか、ただその違いを知っておけということを言われているのか。

私は、そうか、とにかく”最善”を求めなければ・・・
と、思っていたところで出会ったこの記事

 目指すは”最善”

  そして

 すでに”最善”


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