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エッセイ「月とうどん」

「月を見せてくれ」
かけうどんの食券と五十円玉を私に差し出しながら、そのお客は言った。
仕立てのいい和服をサラリと着こなした、整った白髪が上品な初老の男性だった。

二十年ほど前、私が、或る飲食店でアルバイトをしていた時の事である。

カウンター越しに、私は食券と五十円玉を受け取った。
思いがけない注文に、私はどうしていいか分からず、
咄嗟に「かしこまりました、少々お待ちください」と答えてしまった。

非常に困った。意味が分からない。
早朝、六時前。朝定食の時間帯に月が見たい、とは何事か。

厨房にいる同僚に、お客さんに「月を見せてくれ」と言われたんだが、どうしたものか、と相談した。しかし彼は日本語を学びに来て間もない外国人留学生だったため、私が何を言っているのか分からない様子だった。調理担当の彼はかけうどんを作り始めた。
まだ店長も出勤していない。相談できる人はいない。
本社に電話を掛けて聞こうか、しかしうどんは一分少々で茹で上がる。
私は焦り、混乱し始めた。

改めて、カウンター席に座っている和服紳士の様子を見た。
その姿、風流そのものだった。ただ座っているだけで粋を感じられた。
どっしりとした、画になっていたのだ。和服の効果もあろうか。

そうしている内に、うどんが茹で上がってしまった。
風流か、と一息ついた。
その時、私は気が付いた。五十円は卵一個分の料金と同額。
なるほど、和服紳士の注文の正体は「月見うどん」だ。
そう解釈した私は、同僚が作ったかけうどんに、卵を一個割入れた。
そして、イチかバチか、カウンター席に座っている和服紳士に持って行った。

お待たせしました、と和服紳士のカンター席に月見うどんを運んだ。
彼は私の眼を見て微笑み、「分かるねえ、あんちゃん。有難う」と言った。

私は「有難うございます、ごゆっくり」とだけ答え、和服紳士に一礼し、厨房へ戻った。

心の中ではフルオーケストラのファンファーレが鳴っていた。
私は、心臓を高鳴らせながら、静かにこぶしを握った。
和服紳士は無事に月見うどんを召し上がっている。
ともかく私は、粋な問いを切り抜けたのだった。

それから週に一度、決まった曜日、同じ時間帯に、和服紳士は同じ注文をしにやって来た。
「月を見せてくれ」の注文は、その後も何度か続いた。

人生には時として、予想もせぬ出会いがある。
和服紳士は、私を試したのだろうか。単なる遊びか、それとも粋というものか、

私はその後、引っ越しを機に店を辞める事になったのだが、
今でもあの時の思い出と胸の高鳴りは鮮明に覚えている。

これだから、まだまだ人生はやめられない。



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