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エッセイ「私 VS 山猿」

合宿で自動車免許を取りに行った時の事である。
私は、雪積もる二月、長野県の田舎町に宿を取り、
一か月ほど教習所に通っていた。

仮免許の試験に落ちてしまった翌日、再試験に向けて気分転換でもしようと、良く晴れた休みの日に宿から出掛けた。

冬の信州、まさに三百六十五度、めくるめく白銀の世界。
鼻から息を吸うと鼻水が凍りそうだ。
生まれが雪国である私は、豪快に積もる雪と張りつめた寒さに、懐かしさと親しみを覚えながら、気分に任せて歩いた。白雪の美に酔い、高ぶった気持ちのまま、雪輝く真冬の山道を散策した。

さらに奥に進むと、ゴツゴツとした肌が剝き出しになっている、五メートルほどの高さがある巨岩が見えてきた。道の傾斜も険しくなっている。
山では油断は無用。私は、明るく暖かいうちに宿へ引き返す事にした。

帰ろうと振り向くと、二匹の猿が私の後ろに立っていた。
それまで、猿は動物園の檻の中に入っている姿しか見た事がなかった。
いざ、目の前で遭遇すると、可愛らしさより不気味さが勝った。
猿の顔は、人間のそれに近いので表情らしきものが見え、余計に怖かった。

猿に道を通せんぼされ、どうしたものかと悩んでいると、巨岩の方に異様な気配を感じた。
そちらを見ると、四十頭ほどの野猿がいっせいに私を見ている事に気が付いた。そして明らかに猿の軍団は、私を威圧していた。肌で感じたのである。

私は命の危険を感じた。食われるとさえ思った。とは言え、道は塞がれ、その場から身動きができない。更にあろうことか、巨岩に集まっていた猿たちが、私の方ににじり寄ってきた。
ついに私は、猿に取り囲まれてしまった。猿が円を作り、私はその中心にいた。

体感にして十分ほど、静かなにらみ合いが続いた。猿たちの方も、私の動きを警戒しているらしい。彼らは何を仕掛けてくるわけでもなかったが、キャッキャと喚き声を立てながら、円陣を崩す事なく、私に逃げる隙を与えてくれなかった。

巨岩の方へ目をやると、岩のてっぺんに、他の猿より一回り大柄でいかつい顔をした猿がいた。一頭だけ、身にまとうゆとりが違う。別格である。あいつがボスだ、私は瞬時に悟った。
ボス猿を認識したはいいが、自分の置かれている状況は変わらない。
私を取り囲む猿の頭数も徐々に増えてきた。雪交じりの寒風も体にこたえる。

この場を切り抜けるにはどうしたらいいか。私は脳内で答えを探し回った。
雪の山である。周りに人家も人気もない。助けを呼び待つという選択肢は無い。
その時、ある探検家の言葉を思い出した。
「動物に襲われそうになった時は、出来る限り自分を大きく見せて、大声を出せ」

私は、両足を大きく開き、両手を天に掲げた。
そして、力任せに雄叫びを上げた。

次の瞬間、猿たちの表情が変わった。明らかに私の大声に怯んでいる。
猿の円陣が崩れた。

今しかない!
私は、猿の間を駆け抜け、振り向かずに一目散に山の麓、人家のある所まで走った。
走力で猿に勝てるとは思わなかったが、下り坂だった事と大声を出して脅かしたのが功を奏したらしい。猿たちは私を追いかけては来なかった。
宿に戻ると緊張が解け、熱いふろに入って倒れるように眠った。

次の教習があった日に、猿に囲まれ襲われそうになったと、仲良くなった同期生に一部始終を話した。猿に囲まれた時の恐怖は伝わらず、むしろ、猿に囲まれて必死になっている私が滑稽に思えたようで、かえって爆笑されてしまった。

自然の中には、我々の想像力や生物研究などでは及んでいない領域が、
まだまだ確実に存在するのだと思った。
我々が普段目にしている自然は、ほんの一部に過ぎないのかもしれない。
長野の山が教えてくれた事である。

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