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俺は骨の髄までありきたりだ! #7 歩きながら考えた(ので散漫)

これは他愛もない、格段特別なことは書いていないが、ちょっと考えたことを載せていくというシリーズです。
あと、日記のほうは現在カクヨムで大河連載中です!

一番自分に似合うもの(似たようなタイトル聞き覚えが)
結局みんなが欲しいのは、自分に似合うものなのだ。自分が「いい」と思っていて、他人にも「いい」と思われるもの。
他人が「変だよ」と言ったら、怒ったり傷ついたりする。自分の「いい」も自信がなくって揺らいでしまう。
本当は他人が「いい」と思わなくてもべつにどーでもいいというのに。
他人が「いい」と評価したものを自分も使ってみて、趣味でなかった、ちょっと違った、というとき、「まあでも許容範囲だな」と使うか「ぜんぜんよくねえよ!」とキレるべきか。正直、どっちでもいいことでもある。ただ、「やっぱこれじゃね〜な〜」というときの感じから、別のものを試そうか、とか戦略を練る、ということまで人はしない。なんとなーく使いづらいながらも、ちょっと我慢して使ったりする。「高かったし」とか。もうそんなこと考えると、買い物、「自分のもの」にすることって、戦いだよな〜。あ、これ吉本ばななさんの『違うことをしないこと』(名著)で書かれていることか。もうほとんど、違和感をなくすこと、しか世の中をうまく渡る術はないのかも。

お天道様とは民衆であるからして
その昔、「おてんとさまに顔向けできない生き方をしちゃいけない」なんて言われていたが、いまお天道様は神様でも偉い人でもなく、まわりなのだ。近所住民にではなく、不特定多数の今生で会うこともないネット上の人々にまで拡大された、まわり。
昔Twitterって、「大の大人が隠れて『うんこちんちん』とか言える(言えちゃう)場所」だったと認識してるんだが、つまりお天道様の見てないとこ(夜ね)だった、が、全然明るい。というか無機質な蛍光灯の下である。いくら匿名にしたって、結局書いた本人は本人なのだ。いや、なんか間抜けなこと書いてるけど、そうとしか。
お天道様はお見通しだってことか。
SNSが始まる前、公衆の面前で「うんこちんちん」って言葉を吐けるのがストレス解消できる場所、だったのだろうか。それすらもおぼろげである。昔はそうだった気がしなくもない。あのときはどんな気持ちで「うんこちんちん」と言ってたのか忘れた。
そしてなんでこんなに「うんこちんちん」と書いているのか、さっぱりわからなくなってきた。
きっと「うんこちんちん」と書きたかったのだろう。生真面目な文章とか、熱意ある文章とか、頭良さそうな文章がnoteには溢れてて、みんな得するために読み漁り、讃え合い、あるいは「頭よく思われたい」んだろうけど、そういうのがむしゃくしゃしていま、「うんこちんちん」と連呼しているのかも。
とりあえず6回書けたのでそろそろ満足していいと思う。

傘がない(わけでもないが)
せっかく関西にきたというのに雨だった。いくら事前に傘を用意していたとしても、結局のところ、観光は「晴れ」を想定して予定を立てるもの。というわけで、喫煙できる喫茶店でこれを書いている(七月一日)。家から遠ければ遠いほど筆は進む。これはつまり、住環境がごちゃついてて、頭もまた散漫になるが、旅の荷物だけしかいまないから、頭も連動してすっきりしている、ということだろうか。「なんで重いマックブック持ってきたんだよ〜全然使わねえし、次からは持ってくのやめよ」と思ってたというのに。いつもの場所でない、一人で行動している、そういうときこそわりと冴えた状態になるというか。
「自分ひとりの部屋」は望むべくもないが、慣れ親しんだものと少し距離を置くことは、やろうと思えばできるよな〜なんて思ってみたりする。

編集
もしかして、編集者の仕事って、「ひらかれたものにすること」なのではないか? と思えてきた。某おしゃれな本屋で手作りのリトルプレスとかZINEとか見ていて、思った。そこには書きたいことがある。しかし、どこか、「わかってくれる人だけ相手にしてる」という雰囲気がある。そこに怯む。
「自分のために書くのか、人のために書くのか」という問いがある。ある時期から、ぼくは「自分のために書く」ことはしない。いや、自分が他人みたいに思っている節があるので、あと本屋に入っても最近は読みたい本がまったく見つからないので、結局のところ自分のためにもかいているんだけど。自分が面白いと思うものが正義(って言い方してもいい?)。
自分のために書かれた文章は、力強かったり、独特の輝きがあって面白い。ただそれが売りものとして成立するのか、というはいつでも考えておいた方がいい。そこがなかったら、フリーペーパーを道端で配ってもいい。というかネットで書き殴ってもいい。なんとなく塩梅が悪い。自分がネットに載せている文もそうだけど、なんとなく生っぽい。でもそればかりだと面白くない。
その生々しさを商品、パッケージにする人、が編集ってものなのかも。いや、編集能力を磨くってのが何事も、誰でも大事なことなのかも。

ヒロスエンノスケ
もうすでに下火になっているが、某芸能人スキャンダル、やっぱり自分も『週刊○春』とか熟読してずいぶんと興味を持っていたわけだが。
「大きなスキャンダルが起きたとき、政府は重要な法案をしれっと可決している!」的なことをよくネットで言われているわけだが、そういうものを利用しているしていない云々は置いておいて、人って、自分と無関係な騒ぎが好きなんだと思う。ちょっと考えなくちゃいけないことって、苦手なのだ。人それぞれというよりは、もうこれは人間全般として。意識を逸らしたくてたまらないのだ。というか、スキャンダルって娯楽なんだな。この多様化かつ趣味もさまざまな社会で、共通で楽しめる娯楽。
もちろん僕もとってもとってもとってもとってもとってもとってもダイスキ!です。
ところで、どのエッセイか忘れたけど松尾スズキが、「井上ひ○しさんが奥さんを原稿が書けないと殴ってた、って話、なんとなく善悪のバランスがとれた感じ(うろ覚えですすみません)」みたいなことを言ってて、たしかに、と思ったんだが(なのにうろ覚え)。100パー善人はなかなかいない。たしかオコナーも言ってた。いやタイトルか。


祇園祭の季節ですね


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