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ないとてんぽ

 京都を歩く。

 学生時代、ほぼ自転車で過ごしてきたので、電車やバスにうとい。しかも学校、山のほうだったもんで。

 いまは海外の観光客も少ないので、極端に混雑したりはしていない。桜とか紅葉の時期はやはりえらいことになっているんだろうか。そのあたりのシーズンは時刻表を信用しない、と地元民が言っていた。バス通学のみんなはだいたい一限を遅刻していた。

 昼間取材だなんだとがしがし歩きまくるので、夕暮れにもなるとぐったりしてくる。

 寺社仏閣だ新しい店だ、人力車乗車だなんだと、気持ちもあげていかなくてはならない。なので、銭湯に入って突然リラックスしたりしたら、眠くなるし足も鈍くなるというものだ。

 鴨川を歩く。北のほうでも南のほうでも、遠くにあかりが灯っている。十年以上前に毎日見ていた。三条でも四条でも五条でも。とくに五条から見る鴨川は少しだけ寂しい。

 夜のほうが、京都は楽しい。

 酒を飲むとか友人と騒ぐということはない。学生時代、学校とアルバイトと家の往復で、まともに観光してこなかった。夕方に閉まるお寺や朝のイベントなんてまったく行っていない。

 いつだって夜、自転車を走らせていたのだ。鴨川沿いの道を転げ落ちたり真っ暗な道をひたすら走ったり(と書くと格好良いけど、交通費をケチった)していた。

 なので記憶は夜の京都ばかりだ。

 とりとめなく、よるべなく、将来の問題とか不安だらけで過ごしていた。年も年だったので余計にくるものがあった。

 とくに飲み屋に入ったりもしなかった。お金なかったんで。アパートの向かいにあったたこ焼き屋でビールとたこ焼きくらいがせいぜいだった。

 夜道を歩いていると、ふっと若返るのは、そういう奥底の記憶が少しだけ顔を出そうとしているのかもしれない。

 ああ、これから新幹線に乗らなくちゃなあ、すぐに東京に帰って寝て起きたら仕事だよ〜、そんなことを考えながら、昔住んでいた一乗寺のアパートに戻ってしまいそうになる。しかしここからは遠く、自転車もない、バス停を探すのは面倒だ。あの部屋で誰かが暮らしている。かつて過ごした部屋で。

 もう戻ることはない。

 ただなんとなく、とぼとぼと京都駅まで歩いているとき、あのアパートのことを思い出すのだ。

 こうやって、かつての気分を蘇らせながら、夜が深くなっていく。

 昔住んでいた街は、人を若返らせることはない。ただ、時間がすぎて、歳を撮っていくことを、さりげないふりをしながら決定的に告げてくる。

 なにはともあれ、京都の夜道を歩くのは楽しい。あかりが少なく、よるべなく。結局のところ、自分が何者でもなく、なにも成し遂げておらず、しかしそういう思い込みすら、どうでもいいものなのだとぼんやりと思わせる。

もしよろしければ!