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同じ香りを身にまとう。

恋人が私の家に来ると、物が増える。

関西に来るにあたって、もう恋人は小さなかばんしか持ってこない。着替えもあるし、ヘアアイロンもある。明日のコンタクトレンズと、充電器くらいしか持ってくる必要のあるものはもはやないのではないだろうか。

前回増えたのは、リンスだった。コンディショナーとか言われたりもするし、トリートメントとの区別はつかないけれど、とりあえずシャンプーの弟的なやつが仲間入りした。

「つけてみてもいい?」と、聞いてから、試しにつけてみる。すると、私の周りが全部恋人の匂いになった。やばい、自分の髪から恋人の匂いがする。首をふるたび動かすたびに、恋人が通り過ぎたあとみたいな状態になった。

なるほど、シャンプー変えた? みたいなのってこういうことか。シャンプーの違いなんかわかるわけねぇだろと思ったが、どちらかというとリンスの効能によるものが大きそうだ。だって私シャンプー変えてないからね。

「すごいこれ、すごい。動くたびにあなたの匂いになる」

「そんなに匂いしないよ」

自分の匂いなんてよほど気をつけていても分からないので、恋人の反論は却下した。楽しい。なるほど楽しい。これはあれだ。つまりこういうことだ。


ーーーしばらくお付き合いくださいーーー


「暑い……」

昼休み。太陽が一番高く登る時間。弁当を食べ終えた僕は、倉庫からジョウロを取って下駄箱のすぐ脇にある蛇口をひねった。ドドドドドと大きな音を立てて、見るからにぬるそうな水がじょうろに溜まっていく。

美化委員の主な仕事は、校舎裏にある花壇に水をやることだ。二日に一回、ということになっているけれど、僕も含め当番はサボりがちだった。たまたま昨日、生徒会が気まぐれに窓の外を覗き「そういえば、美化委員が水をやってるところを見たことがありませんね」的なことを言ったのがたまたまうちの委員の顧問でさえなければ、翌日当番だった僕が釘を刺された上に倉庫の鍵まで渡されることはなかっただろう。

じょうろに水が半分くらい満たされたところで、水を止めた。

適当に水をぶちまけて終わらせよう。しかし倉庫の鍵の場所を知らなかったことから、水をやっていなかったと断定するのはなかなかの名推理だったと思う。ぐうの音も出ない。

できるだけ日の当たらないところを進もうと思い校舎の脇の日陰を歩いたが、湿気と熱気に襲われる。涼しいどころか、かえって蒸し暑い。僕は水がはねないように両手で抱えたじょうろの機嫌を伺いながら歩く。

「うわ」

正面の角を、髪を銀に染めた男が曲がってきた。僕の声が聞こえたのか、彼は僕を睨みながら、肩を怒らせてこちらへ歩いてきた。慌てて校舎に背をもたれさせるように道を譲る。銀髪は舌打ちをして、僕の横を通り過ぎた。香水でもつけているのか、甘ったるいねっとりした臭いが銀髪が通ったあとに残る。

銀髪が去るのを身を固めて目で追う。幸いにも、こちらを振り返ることなく下駄箱へ続く角を曲がった。

道を開けるとき、少し水が袖にかかった。濡れないように気にしていたがもう無駄だ。それより、面倒なことを早く終わらせたい。僕は少し駆け足になって、花壇に向かった。しかし銀髪は随分虫の居場所が悪そうだったけれど、何があったのだろう。

原因は、花壇が見えたのと同時にわかった。

「八木くん!?」

花壇の脇で倒れ込んでいたのは、同じクラスの八木くんだった。

ブレザーやスラックスには泥がついていて、口の端に血が滲んでいた。僕はじょうろを地面に置くと、ゆっくりと彼に近づいた。

「だ、大丈夫……?」

「大丈夫、大丈夫。なんでもないよ」

そう言って僕を制する手の平は、人差し指が内出血して青黒くなっていた。

「保健室、行こう」

「あぁ、いや……本当に大したことないんだ」

八木くんはよろめきながら立ち上がってスラックスについた泥を払った。

「心配かけてごめんね、大丈夫だからさ」

そう言って、彼は僕なんか見えていないみたいに横を通り過ぎた。

その時、ふわりと、さっき嗅いだのと同じ甘ったるい香水の匂いがした。思わず、八木くんの背中を振り返りそうになったけど、なにか見てはいけないものがその先にあるような気がして僕はさっきまで八木くんが背を持たれていた壁に視線を落とした。

ねっとりと甘い、ドレスの裾を引きずるような残り香は、まだ僕の鼻先に留まっていた。


ーーーー


「みたいな」

思いついた話を一通り語り終えて、私は満足した。

「なるほど」

「おやおや? ってなるわけよ」

「勘ぐるモブ」

匂いなんかしないと言っていたときに比べて、恋人は私の感じたことを受け止めてくれたようだった。

「まぁ、そんな気分になったわけだよね」

当初伝えたかった気持ちとは随分違うものになったが、同じ香りの二人とか、いつもと違う匂いとか、想像と違う匂いというのは、物語を感じる。もしかしたら、私だってラブホ帰りの匂いに思われたかもしれないし、似たような匂いを感じたことがある人もいるかもしれない。いつもと違う匂いは、いつもどおりの日々を過ごすはずだった私の歩みを止める。私だったら、聞いて良いのか迷った上で何も聞かないだろう。シャンプー変えた? と男に聞くのはまぁまぁな勇気がいる。

翌日は、自分のシャンプーを使った。恋人の匂いはすっかり洗い落とされて、何も感じなくなった。恋人は私の匂いが好きだというけれど、私はそれを感じない。

「〇〇くん! 私のシャンプー、結構匂いするね!」

昨日の話を覚えていた恋人は、お風呂から出てからそんな報告をしてきた。私は自分の匂いが分からなかったのに、恋人は毎日つけているリンスでも意識すれば匂いがわかるらしい。

私は全くわからないので、なにか変化があるたびに思い出したように文章にまとめる。今回はそれがたまたま小説調で、このまま放置しておくのももったいないのでエッセイの中に組み込むことにした。書けた時点でだいたい満足、掲載できたらより満足である。

そういえば先日、枕元に恋人の使っているカラコンが置かれていた。同じものを使うのは無理だけれど、そのうち左目だけ赤いカラコンを一日入れて過ごしてみたい。誰か声をかけてくれるだろうか。

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