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舞台裏の仲間たち

演劇や舞台を見ている時、ここ一番の見せ場でセリフを言っている主人公よりも、その近くにいるスポットライトが当たっていない、2番目、3番目くらいのサブキャラを見ていることがある。手品を見ている時も、右手を見てくださいねというポーズを感じると左手を見てしまうことがある。

粗を探しているとか、種を見破ろうとしているという側面が無いわけでもないのだが「今は自分より注目される人がいる」という場面の時の、2番目、3番目の人であったり、裏で仕込みをしている場面を見ることができると、心臓が跳ねる。それは「仲間を見つけた」という表現がとても近い。

舞台裏とか、メイキングとか、そうした映像を見ている時も同じ気持ちになる。今まで積み上げた成果を表現する時間が流れた後、突如カットがかかって、力が抜ける。さっきまで見えなかった人たちが、たくさん集まってきて「さて、どうしようか」と迷ったり「うまくできてました?」と確認をしたりする場面にすごく興奮する。舞台に出ていって、今まで積み重ねてきたものを披露する一方、そこから舞台袖に一度出て「よし! うまくいった!」と、手ごたえを我慢できないその様子がたまらなく好きだ。

noteを見ていると、ここはステージでもあり、舞台裏でもあるのだと感じる。ここをステージとして、表現をする人たちもいれば、別のステージから降りてきて、手ごたえを吐露している人もいる。ステージと舞台裏の丁度間の、とてもとてもわずかな隙間を覗いているような気分だ。ある人は、今、ここまで磨いてきたことを披露している最中、ある人は別のところで終えた演技を振り返って、後日談を語っている、またある人は、これから始まるステージへの準備や告知をしている。

ステージに見立てて演技をし、楽屋に見立てて振り返り、キャンバスに見立てて絵を描く人々。そのメイキングが見られた瞬間私はグイッと引き寄せられる。本来、ステージ上で見せているものとは全く違う、よく似た、試作段階の作品。推敲され、精査され、消えてしまう表現までもが残ったままの作品。本来誰かに見られる予定ではなかった作品やそれを作る人が、うっかり人前に姿を現してしまった瞬間に居合わせたとき私は「仲間を見つけた」と思うのだ。

私にも舞台の表と裏がある。例えばエッセイは、日常の舞台裏だ。「あのときは見えなかったかもしれないけれど、実はこんなことを考えていたんだ」という内容を書くことがある。だから、その場に居合わせた人には時々ページのリンクを送って「君のことを書いたよ」と舞台裏をそっと見せる。でも、エッセイでしか私を知らない人たちも出てきたので、このエッセイが私にとっての表のステージになってしまうことも最近は増えてきた。そんな時は、やっぱり裏側を作って落ち着きを求めたくなる。今はラジオがその役割を担ってくれている。エッセイの後日談や、エッセイを書いたことでどんな出来事が生まれたかは、表のステージでは書きにくい。でも、裏側を作ってしまえば、そこではその後のお話を伝えることができる。

裏側は、日陰で目立たないけれど、確かに表の活動を支えている。ステージ上で叫べないことを、別の形で表現することで、表の活動をさらに豊かにする役割を担っている。誰しも裏側があって、それは本来見せないものなのだけど、その本来存在しないものがふと目の前に現れると私はグッと惹きつけられてしまうのだ。そして、今度はそんな自分が相手に気づかれてしまわないように息をひそめそっと見守る。もし気づかれてしまったらどうしよう。相手が私の存在を見つけた瞬間に今見ている光景はすっぱり消え去ってしまうかもしれない。

他の人の裏側を見つけてしまったときどうすればいいのかはまだわかっていない。やってはいけないことはだんだんわかってきた、例えば手品なら仕掛けやタネが見えたとき「あ、今それ、カードが」とか言ってはダメである。黙って、見なかったことにして最後に成功した時には「おー!」と喜ぶ。時々、タネがわざと見えるようにしてあって見えているぞと油断していると、土肝を抜かれるどんでん返しを見せつけられることもあるけれど、そのときは心から「おーー!」と叫ぶ「やられた!」と叫んでしまう。でも、わかってきたのはあくまで「やってはいけないこと」であって、やったほうが良いこととはまた別だ。なにより手品のタネは、必ずステージに現れて何かしらの驚きを残して、去っていく。ポケットからタネが見えていても、そのタネが活躍するステージがある。

でも、活躍しないタネもある。自分では未完成と分かっていて、これで終わりになるかもしれないけれどとりあえず作ってみて出してみた作品はそんな感じである。試作品として生まれた作品は脱皮したばかりで柔らかく、風が吹くだけでヒリヒリする。そっとそーっと、触れてもらわなくてはもろく崩れたり触れた部分から傷んだりしてしまう。ところが、触れなければいいというわけでもない。何もしなかったらそれはそれでサイトごと閉鎖されてしまうこともあるし、私も自分のステージをサイトごと閉じたこともある。そういうのは大体後悔するのだけれど、ステージ跡地の復興は思ったよりも大変で、それならまた新しく始めちゃおうと、別のところで、別のことを始めてしまったりもする。

ただそれはそれとして「もっと見たい」「すごく好き」そんな気持ちを感じる作品や試作品を目にしたとき、私はどうすればいいのだろう。

おそらく「見ていいよ」という部分を的確にとらえて、そこに注目しコメントをすればいいと思うのだが、しかし一方、わがままな私が見たいのはそっちではなく、本人が隠したくて仕方がないであろう未完成な部分である。

いろいろ考えてたどり着いたのは、ステージ袖で声をかけることだった。ステージが全て終わった後、降りてきた人に、こっそり「あの時のあれ、見てましたよ」と声をかける。でも、もう一つ私のわがままとして、それをたくさんの人に見てほしいとも思うのだ。ファンレターのように閉じられた空間ではなく、もう少しだけ広く、ただしステージの上でネタバラシをするほどの規模ではない程度に「あなたのことを見ていました」と伝えたい。

だから、試しにラジオで人の名前を読んでみた。ラジオは不便でちょうどいい。検索もできないし、自分の名前が呼ばれている場所を見つけることもできない。でも、だからこそ、他の人にむやみにみられることもないし、そのくらいの場所で「見てました」と表現するのがちょうどいい場合もある。メジャーでないからこそ、本番でないからこそ、メインコンテンツでないからこそ伝えられることがある。

そんなメインの脇にあるものにばかり注意を惹かれているから、本当に大切なことは大体おろそかになったままなのかもしれない。本質とは全く別の部分が気になるし、こういうことばかりしているとそのステージをすべて使って伝えたかったものはだいたい心に響いていない。しかし、「仲間だ」と思う瞬間を捉えられられるのが、私の才能だとするのなら、素敵な能力が与えられていると思う。

仲間がいるのに見つけられない世界は、孤独だ。

でも一人、仲間を見つけられたなら、ステージの表も裏も関係なく、一人では比にならないくらい充実したものが生まれていくのではないかと、根拠のない自信と経験則を手にして、私は今日も舞台裏で密かに文字を打ち込んでいる。

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