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昨日の夜に書いた私もずいぶん遠くへ行ってしまった

不登校や引きこもりについて、お話しさせてもらう機会が増えた。

両親との関係とか、勉強はどうだったとか、今はどうしてるかとか、そうした質問に一つ一つ答えていった。それはもう遠くに過ぎ去ってしまった出来事を語るようで、痛みも何も感じない。当時の状況を何度も何度も思い出すけれど、昔見た映画を紹介するような気分で話している。

学生に限らず、今現在引きこもっている人数は大体70万人くらいだと言われている。それはもう立派な社会問題で、私は被害者とも加害者とも分からない当事者としてただひたすら「問題だ」と言われる渦の中にいた。そして、まだ70万人もどこから手を着ければいいか分からない混沌の中にいて、さらにその70万人の両親も一緒に渦の中にいる。

自分の子供が社会問題の当事者として生きている間、自分自身を被害者か加害者かのような振る舞ってしまう方々を多く見てきた。不安で仕方がなくて「もしかしたら自分が原因なのかもしれない」と考え込み、もしくは目をそらしながら生きている。

「あなたは、何も悪くないんです。お子さんも、悪くないんです。ただお互いのコミュニケーション不全が、お互いへの信頼を削りあっているだけに、私には見えます」

何度も、何度も、このメッセージを伝えてきた。

私の場合、引きこもった理由と、引きこもり続けた理由は全く別だった。

逃げ帰ってきた理由と、頑なに外に出たくない理由は別だ。

友達なんていらない。関わりたくない。そう思って逃げ帰ってきたら、両親は私を外へ出そうとしたので、突風に吹き飛ばされるのを柱に捕まって拒むかのように私は自室にしがみつき続けた。

引きこもり続けた理由の方は、私の場合、間違いなくコミュニケーション不全だった。私は両親にうまく気持ちを伝えられず、両親も私の気持ちを受け取る準備ができていなかった。そして、準備ができるまでずっと「私は悪くない、私のせいじゃない」というメッセージをお互いに送り続けていた。

父は私が引きこもりであるということを長らく認められなかった。育ててきた自分の責任を強く感じていたからだと思う。

私は家から出るまで不登校という言葉を知らなかった。ただ、今の自分が気持ち悪くて、罪悪感をさらに深める気がして、相談も調べることもしなかった。

誰も悪くないんです。両親が育て方を間違ったわけでもない。学校に行かないあなたに、努力が足りないわけでもない。

人とのすれ違いで、傷ついて落ち込んだ。そして、家に帰った。誰にでもあることだ。でも、私はそれをうまく伝えられなかった。伝えられないこと、伝わらないこと、分からないことだらけだった。

私に関わった全員がそれぞれ自分自身から目をそらし続けた時間が、私が引きこもっていた3年間のうちのほとんどだった。私の引きこもりパターンの場合、誰も悪くなかった。それを心の底で理解するまでには、もっと時間がかかった。

ただ、私はそうして理解することを全て一人でやってしまった。一人でただ、痛みが遠く離れていくのをじっと待つことをずいぶん繰り返し続けてしまった。ふと、そんなことを考えたのは、こんなツイートを見つけたからだ。

いろいろなこと全てが終わり、片づき、自分の中で整理がついたとき。私はいつも一人だったし、一人であることに気がつくのと同時に悟ったようにモヤモヤしていた気持ちがサーッと引いていった。そんなとき、近くには誰もいない。

そして、涙を拭いてよいしょと立ち上がると、頼りにしていた人の存在が自分が思っていたよりずっとずっと遠くなっていることに気がつく。「ねぇ、あのさ」と気軽に声をかけられる距離にはもういない。いつもそうだ。

両親は、私の気持ちを受け止められる距離にはいなかった。頭の中では将棋盤を挟んで向かいにいるくらいの距離にいると思っていたのに、実際の距離はテレビ越しに見える両親の顔と、私の方を向くカメラと「ごめん、今は遠くにいるからすぐには行けないんだ」と繰り返すスピーカーと向かい合っているくらいの距離だった。

それ以降は私の周囲にいる人との距離を何度も何度も、今度こそはと計り直して、もうこれ以上近づいたり離れたりもせず、ただ適切な距離感をつかみ続けようとしては失敗し続けた。時には蜃気楼、時には私が力をかけすぎて、時には私の方から逃げてしまった。

何度も続けば慣れるかと思った痛みは、全然そんなことなくて、毎回毎回呻いている。いてててて、と思いながら涙がにじむ。

もうどうしようもなく気分が暗くなったときは、誰かに連絡したくもなるけれど、もしかしたら今、向こうも同じように呻いているかもしれないと思うと、手が止まる。自分のことで手一杯な私はきっとそれに気がつくことなく、自分の全てを預けてしまうだろう。それはあまりにも怖いことだった。結局何もしないまま布団を被って眠り、朝起きたときには苦しんでいた私はずいぶん遠くに行っている。

まるで、自分との距離を計り間違えたみたいに、あんなに泣いていた私はどこかに行ってしまって、先週見た映画みたいに誰かに話せるようになる。ただ、話す相手は残念ながらいない。先日、いててててっとなる少し前に話して良い距離に実はいなかったことに気がついてしまったばかりだった。

このあたりのお話をする機会は、まだあまりない。私の物語は「引きこもっていたけれど、無事大学生になれました」というところでいつも終わる。

その先にある人並みの苦しみとか楽しいこととかは、まだあまり話すことがない。

「人と違う生き方をするのは、それなりにしんどいぞ」

ジブリの映画、耳をすませばで勉強そっちのけで小説を書いている主人公に、父親がかけた言葉だ。

出版社でも働きたい、カフェもしたい、相談も聞いていたい、エッセイだって書きたい、会社も立ち上げつつある。そんな道の途中にいる。

「ねぇ、あのさ」

そう声をかけようとした相手が、本当にそこにいるのか、蜃気楼なのか、見えている景色が歪んでしまった私にはまだ分からない。そんなとき私の周りはすごく静かな世界が広がっている。

冷たくて静かな夜の世界。

午前3時は、時々そんな気分になる。

今日は、もう寝てしまおう。

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