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絶交と背中合わせ。

カレー沢薫さんのエッセイを読んでいる。

軽快な文体で、ディープなことに突っ込んでいくカレー沢さんのエッセイが好きだ。「カレー沢薫のワクワクお悩み相談室」というコラム形式の相談コーナーは、Twitterのタイムラインでハートとリツイートをガンガン増やしながら共感を集めたバーチャル世界の世論を踏まえて回答がなされている。Twitterの情報はまとめサイトで見る派の私は、何となくネタが分かるので笑いながら読んでいる。

私はTwitterに限らずSNS上を流れていくもっともらしい意見に共感して「私も前々からこれ思っていたし、そのまま使お」と、頭が良さそうに見える文章を保存しておくのが大好きだ。しかし、大体の場合コピペで止まっている。だからこそ、カレー沢さんの切れ味のいいエッセイを読むと「ここまでの意見や風潮を踏まえた上で、そうなるんだ!?」と驚いている。そして、私は本当に考えたふりしているだけのコピペ人間だな、と思って「もう意見のコピペはしないぞ!」と意気込むのだが、やっぱり気になる文章を見つけてしまう。

それは、カレー沢薫さんがペットとのお別れに関しての相談に乗る回の文章だ。カレー沢さんにも書けないほど辛い話があるらしい。

"常にネタ詰まりで自分のことはもちろん、家族や友人のプライバシーさえ勝手に切り売りし、もっとも裁判所に近いと言われる職業「エッセイスト」を無職の傍らやっている身でありながら、このおキャット様のことだけは書けませんし、未だに思い出すことすら辛いです。"
カレー沢薫のワクワクお悩み相談室,2019.02.01,カレー沢先生、おペット様との悔いのない別れ方をお教えください。より

思い出すのも辛くて猫との別れを書くことができない。という文の前置きになっている方の言葉が、私の心に刺さった。

「家族や友人のプライバシーさえ勝手に切り売りし、もっとも裁判所に近いと言われる職業」

エッセイストという職業に、こんな背徳感があふれる魅力的な説明をつけられるようになるには、一体何を食べれば良いのだろう。ペペロンチーノだろうか。

エッセイストという職業が裁判所に近いとするなら、エッセイを書いていることが身近な人にバレている私の場合、裁判所とまではいかなくても限りなく絶交に近い趣味になるのかもしれない。亀裂を入れかねないな、と思うことは多々ある。

私は噂話が苦手だ。乗っかることはできるが、自分から切り出すのはあまり得意ではない。陰口は陰で、とは言うが言わないのが一番いいと思っている。しかし、エッセイというのは独り言の形をした噂話のようなものだ。友達の気になった一言、恋人の様子、職場の上司とのやりとりなど、生きていて心に残ったものを文章にして公開している。書いているときも、書き終えて公開したあとも「良かったのだろうか……」という疑問が拭い去れない。

書き上げたあとは完成したエッセイのリンクを送る。読んでもいいし、読まなくてもいいけれど、誰かから噂で伝わるよりも「書いたよ」と伝える方が比較的誠実なのではないかと考えているからだ。時々感想をもらえたり、面白かったといってもらえるとそれだけで、ここまで抱えてきた色々な罪悪感がフッと消える。

それを何度も繰り返しているのだが、ほかの人の様子や聞いたことを書くのはドキドキする。私にとっては、ちょっとした会話の糸口だったけれど、友達からするとすごく大切なことだったかもしれない。また、個人を特定できないように配慮しているとはいえ、それを書くという行為に対する後ろめたさがある。もし、認識に大きな差があった場合、何か文句を言われるかもしれないし、場合によっては何も言われずに疎遠になっていくだろう。

以前、父の話をエッセイで書いたことがある。そして、いつものように父に文章のリンクを送った。どこに出しても恥ずかしくない、自分の本音がそこにあったし、それを見た父が何を思うのか聞いてみたかった。それから、私は父を試したのだ。自分の本音をぶつけたときに、まずそれを受け止めてくれるのかを知りたかった。

しかし、人には守るべきマナーやモラルというものがある。例えば「人の気持ちを試してはいけない」というものだ。それは昔、おでんくんで学んだ約束だったが、私はそれを簡単に破って父が私の言葉を受け止めてくれるか試してしまった。その結果、私と父の間には随分大きな溝ができた。何かを確かめるために書いた文章は、経験上、あまり良い結果を生まない。

リアクションが欲しいし、感想が欲しい。でも、リアクションが欲しいし感想が欲しいと思って書いた文章は本当に酷い出来栄えになる。求めるにしてもどんなリアクションが欲しいのか、どんな感想が欲しいのかという自分の欲望に対してきちんと向き合わず、なんかぶん投げたら跳ね返ってくるだろう、という軽い気持ちで文章をぶつけているからそういうことになるのである。

この人に読んでほしい。できれば、こんな気持ちになってほしい。それに加えて、書いているときに恥ずかしければ恥ずかしいほど、読み返したときに我ながら「あ、素敵だな」と思える文章になっているような気がする。

読んでほしい人や自分の気持ちに対する向き合い方が甘いと、言葉は全く届かないどころか大切な人間関係を失うことさえある。エッセイを通じたコミュニケーションは、崖の端と端でキャッチボールをしているようなもので、お互いの距離や取りやすい場所をしっかり掴みながら言葉を投げないと相手には届かないようだ。

そして、厄介なことに「リアクションが欲しい」というのは「向きは間違っていないが、力の入れ方が甘い」という状態らしい。疲れていたり、気持ちが弱っているときほど、その甘い力加減で文章を書いてしまう。

本当に欲しい物を手に入れたいとき、その力があるとは限らない。心の余裕が欲しいとき、誰かの存在を感じようともがく行動はことごとく寂しさばかりを生み出した。

気を抜くとTwitterやLINEを開いてしまう。誰かが代わりに表現をしてくれて、それに共感だけしておけばいい。あわよくば、その言葉を少しアレンジしておけばいいというのはとても楽だ。周囲の人のリアクションもある程度わかっているので安心感もある。しかし、ふとカレー沢さんのエッセイを読むと、同じものを目にしたはずなのに、それに全く振り回されていないのだ。

「あぁ、私、すごく浅かったんだな」と、思い直す。そして、借り物ではない自分の言葉をきちんと書くことを忘れずにいたいと、思うのである。


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