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嫁の飯がうまい

恋人がお弁当を作ってくれる。

「別に二人も三人も変わらないよ」という謎の理屈で、翌日私が食べる分も作ってくれるようになった。春巻きに目玉焼き、プチトマトも入っている。恋人はトマトが嫌いなので、私のお弁当用のプチトマトという新たな概念が生まれてしまった。

タッパーに入った彩りのあるおかず、少し大きめのおにぎり。ひじき。おいしい。

恋人は私のためにタッパーを買い。私のために「蓋を取ってからチンすること」と書いた付箋を貼ってくれた。その一つ一つが、なんだかチクチクと心に刺さる。

お弁当というのも、10年ぶりくらいだ。高校生の頃は母が毎日のようにお弁当を作ってくれた。それだけでなく、母は炊事にはこだわりを持って取り組んでいて栄養バランスとか、洋食が続かないようにするとか、母の献立にはいくつかのルールがあった。

私は長らく食べ物に好き嫌いはないのだと思っていたけれど、おそらく母は私が嫌いだといったものは意図的に外していたのだと思う。実際、父が苦手なものが食卓に並ぶことはなかった。父が酢ダコがあまり得意ではないと知ったのは、社会人になってからである。

それに加えて母は気にしいだった。

例えばたまにしょっぱい鮭に当たることがある。

「しょっぱい」

私がそう言うと母は「食べる順番が悪い」と言った。あまい、からい、苦い、しょっぱい、すっぱい。それらの言葉はそれ以上の意味を持たないが、母は私がなにか不満をこぼしているのだと感じているようだった。なので私は口の中で感じた味を言葉にすること無く飲み込んだ。

「これって豚肉?」という確認さえ、余計な火種になるので避けた。野菜にかけるドレッシングも青じそのポン酢があったのだが、レタスにかけると苦くなる。

唯一、母に届く言葉は「おいしい」だった。しかし、この言葉も迂闊に言うとそのおかずが二日、三日と続く。美味しいといった手前、食べないわけにもいない。だから、私は「おいしい」というのも避けた。

何より、母と私は味の好みがそれなりに合わなかった。薄味が好みな母に対して、私は濃い味が好きだ。そして私の好みは母方の祖母と一致した味覚であり、常々祖母の作る料理のほうが圧倒的にうまいと思っていた。母も特別な日に作る料理だから、とその点は大目に見ていたと思う。しかし一度、祖母の家で食べたスープの美味しさが忘れられず、母に作って欲しいと強請った。

しかし、母がスープを作ることはなかった。もしかしたら作っていたのかもしれないが、私がその味を感じることはなかった。祖母のスープは、もはや祖母にしか作れないものだったようだ。

母は献立を作る際に具体的な料理名を言うと喜んだ。私は餃子とかカレーとかスパゲティとか、母の料理の中で比較的好みの合うものや、自分で味をつけられるものをリクエストした。

母が私に作る料理は、間違いなく愛だった。私が美味しいと言ったものを、母は忘れずにまた作った。少し味付けは違ったけれど、母の料理はいつも私のことを考えてくれていた。しかしその一方で、出されたものは、文句を言わずに食べるというルールもあった。

出されたものを残さず食べるというルールは、育ちの良さとして見られることも多いのでその辺りは得をしている。その一方、私にとって料理は母が作ってが当たり前のものになっていったし、どんなに不味かろうが食べる以外の選択肢は無く、うっかり「美味しい」と言えば連日それが続く可能性があるという緊張感のある時間でもあった。

母は料理を大切にしていた。結婚するときにオーブンレンジを買い、たくさんの料理本が並んでいた。ただ、私は料理そのものより料理の本を読む方が好きだった。そして現状、私が一つも料理をしないところを見るに、本を買うだけ買って自炊もしない民もいる中で母は勤勉に料理をしていた。

それが辛かった。

母が頑張って作ったミートソースより、コンビニで買うスパゲティのほうが美味しい。母が栄養バランスを考えて作ってくれたカレーより、カップヌードルのカレーのほうが美味しい。母の作った味噌汁より、インスタント豚汁のほうが美味しい。何より母が「今日はなにもないからこれで」といって作った野菜炒めに自分で醤油をかけたものが、何よりも美味しかった。

そして私はそれを母に言えなかった。

あなたが丹精込めて、時間をかけて作ったその大切な料理よりも、帰り道に400円で買えるご飯のほうが好きだとは言えなかった。母の料理とコンビニ弁当を比べた時、コンビニ弁当が食べたい。たまに帰って家で食べる実家の味よりも、祖父母が作ったスープやラーメンが食べたい。

母が手間ひまかけて作った料理がどうしても口に合わない。でも、私はどう伝えていいか解らなかった。父や祖父母には相談したと思う。しかし、そのときは「食べられるのは幸せだ」と言われた。

どうしても、自分の言いたいことが伝わらなかった。それはすごく残酷で、母の努力を否定することになる。

私は父や祖父母に聞けなかった。

どうして母の料理の話をすると好きかどうかではなくて『食べられるかどうか』の話をするのか。なぜ、賞味期限が切れた料理を食べるべきか聞いたときと同じように「食べられるなら大丈夫」と皆、答えるのか。なぜ、「食べられることは幸せだ」と私を叱ったおじいちゃんは、私の好きな味付けを覚えていて「これ好きだったよね?」と出してくれるのに、母の料理のときは「好きかどうか」という話題からそらすのか。

私はずっと自分が幸せに気がつけないのだと思っていた。母は物心つく前から私に料理を作ってくれていて、それを当たり前に感じているから幸せを感じないのだと思っていた。菓子パンは時々食べるから美味しくて、毎日食べたら飽きてしまうのだと思っていた。

母が毎日作ってくれるお弁当は、私がそれを「当たり前だ」と思っているからこんなにも味気ないのだと思っていた。私は幸せが当たり前になると何も感じられなくなり、不満さえ抱くようになる。

そのはずだった。

恋人の作るご飯も、当たり前の日々の中に溶け込んでしまうのではないかと思っていた。そして、だんだん味気なくなっていき「食べられるだけ幸せなのだ」と言い聞かせながら飲み込むものへ変化して行くのだと思っていた。特別だと感じている間だけ私は食べ物を美味しく感じるのだ。そう思っていた。

だから、私は恋人がお弁当を作ることには反対だった。母のお弁当を思い出す。とにかく早くかきこんで、食べ終えたかったお弁当。それさえも当たり前になって、食べる時間ばかりがどんどん早くなっていった。

その記憶が、チクチクと刺さる。母は必死だったはずだ。たくさん勉強したはずだ。何度もご飯を作り、こだわった。私の苦手なものを外しながら、栄養バランスに気を配り、ただただ私に愛を注いだ。

でも、その愛は、おいしくなかった。

「おいしくない」と言うことを、許されない愛だった。一度食卓に並んだら食べなくてはならない愛だった。

だから、私は好きなものも嫌いなものもない。料理とはただ飲み込むものだ。

それなのに、恋人の作ったお弁当はおいしかった。

おにぎりが、春巻きが、卵焼きが、ひじきが、おいしい。

でも、これは恋人が作ってくれた特別な料理だから、美味しいのだ。もう、恋人が作ってくれる料理を食べてニ年が経った。私は少しずつ、好きなものや嫌いなものを言えるようになってきた。

恋人はそれを織り交ぜながら、私の食べられる味付けを模索している。私の好きなものや嫌いなものは何なのか、その狭間を探す様子はなんだかとても楽しそうだ。

今日恋人が作ってくれる料理にも、私がかつて嫌いだと言った何かが入っているのかもしれない。恋人は時々それを手品の種を明かすように教えてくれる。

私は笑い、恋人は得意げに口角をクイッとあげる。

「おいしかったよ。ごちそうさま」

お弁当箱を食洗機へと入れた。

ご飯のおいしい特別な日はまだ続いている。

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