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感想は情緒の花が散ってから

電話から、恋人がせき込む声が聞こえる。

コンコン、と辛そうにせき込んでは「うえぇ、死んじゃう」と大げさなことを言っている。それを聞いて私はギャハハと笑ったり、関係ないことを話したりしているのだが、恋人が「死んじゃう」と言った後咳がぴたりと止まることを恋人が発見した。

それからまたしばらくして、恋人がせき込んだ。

「死んじゃう、死んじゃうよぉ」

物騒な声が何度も繰り返し連呼される。時折「死ぬもんかぁ」などという言葉も混ざってきているが、結局のところは風邪である。将棋をしながらその様子を聞いていた。

こういう時は一緒になって「辛いねぇ」とか、言ってあげられるといいのかもしれないのだけれど、昔から恋人と感情が同調することがほとんどない。例えば同じ本を読んだり、同じ映画を見たりして、終わってから答え合わせのように感想を言い合うことはある。しかし、恋人が喜びや悲しみを感じているその瞬間に、その喜びや悲しみを感じ取ることができない。一通りの出来事が終わってから「そういえばあのときさぁ」と始めるのが定例である。

恋人に限らず、友人間でもそういうことは多い。感情はすごく遅れてやってきて、目の前で嬉しそうにしている人に対して私は「うれしそうだなぁ」と思いながら眺めていることしかできない。それよりも「これ面白かった」と渡された本を読み終え、動画を見終え、音楽を聴き終えた後に「面白かった」と意見を交換することが好きだ。もうすでに揺らいだ感情は過去のものになり、それを二人して思い返すノスタルジックな時間のほうが、煌びやかに今感じている感情をやり取りしあうよりも好きだ。感情が花が散るように乱れて、一面ピンクや赤に染まるくらい夢中になっていた自分を思い返しながら「あんなこともあったな」と、ゆっくり振り返るほうが好みにあっている。だからこそ、いろいろな事態が終わってから、答え合わせをするくらいの距離感でいるのがちょうどいい。

今日、恋人の体調は回復したころを見計らって、このエッセイを書き始めた。ところが、今度は私が風邪気味である。咳は出ないものの、鼻水がダラダラと流れ出てくる。鼻水は鼻をかまなくてはいけないこと以上に、脳みそに酸素がいかないのが厄介で、さらにマスクをつけるとなると脳への酸素供給量はガックンと下がってしまい、さらに調子が悪くなる。

そんな折、恋人が会社のコンテストで入賞を果たしたという知らせをもらった。恋人としては、あまり結果に満足いっていないようだった。

「でもまぁ、上々だな」と恋人は言った。

「強い女だ」と私は言った。

賞状の写真が送られてきて「かっこいいね」と私は言った。

「かっこいいって言われた、いえーい」

私は指をとめた。全く意味が分からない。そうか、いえーいか、そうか。嬉しそう、ということだけが分かるけれど、何がどう嬉しいのかが全く分からない。愛想笑いみたいに既読がついているだろう。それから私はそのメッセージに返信していない。

しばらくして、電話がかかってきた。

「賞品はゴディバでした。もうこれ、箱が高いよね」

賞品を外装から褒めたおす恋人の声をしばらく聴いていた。あぁ、わからないなぁ、と思う。これからもずっと、わからないのだろうなぁ、と。それでもいいと割り切るほど、達観することはできないけれど。努力のしどころもわからない。

「ねぇ、今年は桜が見たいな」

私はその声を聞こえないふりをした。外にはでかけたくない。

「ねぇ、関西は3月中旬には咲いてるよね?」

「ねぇ、神戸の桜の名所調べといてね」

……強い女だ。

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