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複雑なリョナラー心

私は血とグロテスクなものが超苦手です。けど、そういうグロテスクさや加害の描写のある絵を描きます。
リョナラーというにはこれはどうなんでしょうか。
こういう絵を描いていていると少なからず「描き手本人も加害を人や動物に加えたい欲求を持つ犯罪予備軍」のように言われます。おそらく私以外でもこのジャンルを通る人なら一度言われてしまう言葉のような気がします。
しかし、そんな欲求を抱えて描いているわけではないんです。他の方にも同じように、誰かに危害を加えてやりたいと思う人は実際ごくわずかな気がします。他人に対するそれは私ではないので推測の域を超えませんが、とにかく私にとって「リョナ」に対してねじれた思いが何個かあるといったような具合なのです。さて一体どういうことなのか?
今回は、私の持つリョナラーな部分とそのアバウトについて書いていけたらと思います。


気づけば幼いころから特に血液や死や内臓を思わせるものが苦手でした。

物心つく前から私はインドア派です。朝に絵を描いたり本を読んだりして、飽きる昼間の2~3時頃にはたいていサスペンスものの再放送が流れているので見ていました。
人の身体から赤い血液が流れるとその人はぱったりと動かなくなる。死というものをサスペンスドラマのシーンで知ったのだと思います。それを見た夜はなんだか無性に眠れませんでした。両隣の父と母の身体にも赤い血が流れていて、中にははらわたや骨が詰まっている。なんだか死というものがあり得ないような、自分と家族は永遠に生きていくのだと思っていました。

ふと、頭の中でアンパンマンのホラーマンという骨でできたキャラクターを思い出しました。間抜けな話なのですが、私たちは骨になったらそれはとっくに死んでいるのに彼は骨の状態で何故生きているか分からなくて、それが自分の中でケリが付けれなくなり死というものがものすごく怖くなったことを覚えています。最大の恐怖というのはいつでも自分の未知なものです。

しばらくして、やはり私もガキなのでそんな恐怖は日々の保育園生活と友人との遊びの楽しさに希釈され忘れていきました。ところがある時、また私が死の恐怖を抱くのです。
ある日私は乳歯が抜けました。成長とともに生え変わりがあることは知っていました。ですが私は何か強烈にショックを受けた覚えがあります。自分の身体は成長つまりは老いを永久に知らないままだと、やはり意識せずとも思っていました。老いるという死へのカウントダウンが始まっているということ、その無常な現実を私は突き付けられたのです。また私は忘れていた死への恐怖を再び抱えることになります。

それが何かグロテスクさへの苦手意識の根底な気がしているのです。つまりは自分やその他の人達が皮膚の下に血肉のない、恒常性を保ったままの肉体という「ファンタジー」を私はいまだ信じているのかもしれません。

死を連想させるものだからか、自分や他人の血液や内臓がすごく苦手です。

特に苦手なものが採血です。注射はいいのですが、これだけはもうだめです。ここだけの話、私に拷問を受けさせるならこれが絶大です。血管に刺して血を取るなんて、ああ、なんて恐ろしいんでしょうか。文字を打つだけで気分が悪くなります。検査を受ける大半の人は座って採血を行うでしょうが、私の場合ひどく気分が悪くなって冷や汗をかき、貧血症状のようにぶっ倒れること間違いないので最初から寝ながら行います。
父が「魂を吸い取られる気になるから苦手だ」と言っていたことがありましたが、何かわかるようで私はそれではないような気もしています。とはいえ、こういう苦手意識というのは遺伝からくるものもあるのでしょうか。だとしたら父のその話も詳しく聞けばよかったと思っています。

これは他人の血を見るのも同じようにひどく気分が悪くなります。

中学生のころ、職業体験をする場所を選べましたので私は病院を選択しました。そこで透析(詳しいことは忘れましたが、血液をきれいにする機能が衰えているため、人工的に置き換える治療のことだったと思います。)を受ける患者さんを見る機会がありました。
ずらっと並んだベッドと患者さん、そして何か管を通り透明ボトルのようなものいっぱいに血液、そして管を通してまた患者さんの体内に戻るその装置。ああもう本当にやばい!でも私よりも辛い気持ちを持っているかもしれない患者さんの前ではとても「気持ち悪いです」とは言えず、近くにいた看護師さんに「お腹が痛いのでトイレに行ってきます」と大便の意を告白すると、ふらふらに私は廊下のあちこちの壁にぶつかりながらトイレに15分ほど籠るという奇行をかまし、割と心配されたのを覚えています。

思えばなぜこの時血肉と一番近い仕事であるのにも関わらず、少しの疑いもしなかったのかという愚かさはあるのですが、せっかくなら普段見れないお仕事について知りたいという好奇心が勝っていました。
先に述べたサスペンスドラマの件ですが、死への恐怖心を持ちながらも結局次の日に見て、また眠れなくなるというのを何回も繰り返しています。

「怖いけど知りたい、見たい」みたいな、一種中毒的なものなのでしょうか。それとも「ファンタジー」に浸る私なりの死への理解がしたいのでしょうか。言葉に表すのも難しいのですがなんとなくでも湾曲せずに伝わっているでしょうか。

他にも私が苦手なものは生きた魚をさばくこと、実験として動物を扱うこと、他にもある気がしますがパッと出るのはこのあたりです。
映画や漫画にあるグロテスクさや加害のシーンについては特別苦手だとは感じません。それは作られたものだと分かっているからです。それでもやはり痛そうであるとか感情移入してしまい、見れないというものはあるのですが。
私がグロテスクや加害描写を描くときも、それはありえないこと、ファンタジーとして描いているという一面が強いです。特別それを示す根拠になるものは無いのですが、やはり私は「自分の中に臓器や血肉があることの方が信じがたい」=「ファンタジーである」という認識であることが説明つく気がするのです。
漫画や映画にはコマや液晶などの、作品としての枠があります。だから私はその事象に触れているわけではなく最大の他人事なのです。だけど、採血すること、透析を見ること、魚をさばくこと、動物実験をすることのこれら全ては私が主体として関与しています。
つまり「ファンタジーさ」というのは現実にはあり得ないこと、触れられないものであり、事象に自分自身が接することが現実であるということを私は定義しているわけであります。

私が血肉を「ファンタジー」と捉えているならば、それを私が私の身で知覚するときそれは「現実」になります。その一連で私の中の常識がねじれていることが分かっていただけますでしょうか?だいぶ実根拠のない話になってしましたが、苦手とする背景を文字にできた気がします。

「皮膚の下には血肉が詰まっていること」これをなぜ「ファンタジー」として捉えるのか。それは私が変わりゆくことが怖いから、それゆえの逃避思考なのでしょう。
もちろん地に足をつけて考えれば、そんな空想にいることのバカらしさというのは分かっているのです。また、本気でファンタジーであると思ってはいません。あくまで私の内面をどうしたら知ってもらえるかと考え、霧みたいな考えや捉え方が織りなす形を誇張して伝えているにすぎません。
死ぬことはつまり生まれることの対であり、どのように死に至るにも生の発端から見ると確実に老いというものを経由しなくてはなりません。生まれたときの姿と死んだ姿、程度の差はあれ、変化しているはずです。
死ぬことという完全なその変化、老いることというその私の何かを捨てていくということに何か抵抗を感じるし、それは当たり前な嫌悪なのかもしれません。だからきっと私以外の誰かも妥協点を見つけてその嫌悪に逆らわないでいるのかもしれません。私にとって逃避することでそれから目を伏せているのです。
これはなにも私だけではないでしょう。生きる上で説明のつかないことは往々にしてあります。その中で我々は何かしらの妥協点を作って考えないようにしているのです。わざわざ意識や関心を持たないだけ、それこそ妥協が成功している証です。

ではなぜリョナを描くのか?
やはり「ファンタジー」だからです。私にとって限りなくフィクションなのです。しかしそれは逃避でしかなく、死への恐怖は拭えません。
長々と書いてきましたが、この二つが私の本質的なねじれなのです。それらを抱えながら描くに至るのは、要は単純にマゾヒストということになります。
自分自身が恐怖対象を描くということで恐怖と繋がるという安心感を持っているのでしょう。自分の感情に正直であるということの確かめ行為であるとも言えます。他人事に見ている私に「描く」という行為で現実と繋がること、そこで何か裏切られたような不快な気持ちになりにいきます。作品という安全ネットがある中で絶望ごっこをする、そういう楽しさです。
いかに自分を苦しめるかという一人の自傷的な遊びをずっとしているのです。自分の嫌なものにわざわざ向かい合って描いているその行為や付随する感情が好きなのです。
他者のリョナ絵を見るというのも、オエオエすることもかなりあるのですが(すみません)、それ以上に私は作者のキャラクターまたは読者への加害性、そのサディストな部分にひかれている部分が大きいです。

こういうどちらかというとニッチなジャンルにいる人々は私のようにもはや変態な内面を持っているに違いないと思っているのですが、どうなんでしょうか。
気になります。機会がありましたら何かで発信してもらえると私は嬉しいです。


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