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人間の本質は期待にある 

欲望とか、願望とか、そういう言葉よりも人間は”期待”の生き物だと気づいた話を整理しようと思う。






期待とは何か

自分がしたことや、すること、いることに対して、対価や報酬や労いを望む。それを与えられることで、自分自身の存在を満足肯定できること。

自己定義

欲望や願望というと、なにかこう無から心の底から自然に湧き上がってくるもの、無数多数のもの。人によりけりなもののように思える。しかし、正確に捉えるならば、人間の行動原理は、”期待”であるの方が正しく認識できる気がする。お金が欲しいのではなく、自分の仕事や存在をお金で目に見える形で比べられる形で証明したいという期待かもしれない。スポーツで勝ちたいのは、競争に勝ちたいのではなく、チームメイトを喜ばせて、お前のおかげで勝てたよと言われたいのかもしれない。

結局のところ、我々は期待という形で、他者や外の世界を利用して、自分自身の存在証明や存在理由を満足させたがっているのだといえる。






なぜ期待が生じるのか、備わっているのか

なぜ人間に期待という原理本質が備わっているのかと言われれば、それは人間が社会化で生き残ることを選択した生物だからである。一人ではマンモスを狩れないので、みんなで協力した。そうして社会を作り上げて技術や知識を共有していき、こうして豊かで便利でその他生物の頂上に君臨する現在まで至った。

社会化とは、他者との協力や関わりを意味する。正確に捉えるならば、人間の心に優しさも利他的もない。人間は社会(他)に奉仕することで、所属する社会が大きくなり、結果として豊かになる。自らの生存率もあがる。つまり、社会の奉仕に貢献したと自負し、それを皆からその通りだ!と報酬賛辞を与えられ自分の存在を満足する。これが人間の生存戦略であり社会化で生き残ってきた歴史なのだ。そして何世代も経る過程で、社会化における”期待”行動に優れた個体が選別され続け、その特性はより濃くなった。





期待の現在

期待行動原理は、昔はよく機能していて社会を円滑に回せていたと思う。しかし、現在ではあまり機能していない。

・期待の報酬体系が”お金”に集約されたこと
・期待の期待値が上昇しすぎていること
・社会化せずとも、個でも生存できるようになったこと

誰かの喜ぶ顔がみたい。物知りだねと言われたい。誰かにいつもお疲れ様です。あなたのおかげで町はキレイですと言われたい等。本当ならば、社会奉仕(自分が他の為に何かする行動)への報酬には様々な種類や形がある。その人の欲しい期待がある。しかし、期待のやり取りだけでは社会規模の関係で円滑に回せなくなり、よりシンプルで明快なお金決済システムが蔓延して、いつしか全てお金に換算されるようになった。そうすると、”お金にならない行動”関連の期待は社会から徐々に排除されるようになる。反対に、お金で期待を示さないといけないのかもしれないと思い込むようになり、本当は相手の期待に応える形を模索し、相手を満足させるはずが……できなくなる。とりあえずお金を払っておけばいいと、お金に集約されたことで、全員の期待は満たされなくなり、全員の多様な期待を満たそうとする動機づけもなくなった。なくなっていく。

婚活がわかりやすいかもしれない。あるいは教育費の高騰とか。社会が成熟し高度になればなるほど、求められる期待の質も上昇する。より大きな貢献をしなければ、その程度!?と報酬は貰えなくなってしまった。報酬が貰えなければ、その人は自分の存在を満足させることができない。期待そのものを諦めるようになる。つまり、最初から他者との関わりを拒絶し、個人主義、独身、現状維持、省エネを選ぶようになる。しかし、本質的に備わっている期待機能は残っているので、個でいることに苦痛もどこか感じてしまう。人とのつながりのない人が早死にするのも同様の帰結だ。人はつながりをもとめる生き物なのだ。

本来であれば、期待を満たせない期待に向いていない個体は、もっと途絶えていったかもしれないが、こと現代社会では、個の状態でも生活できるようになってしまった。最低限のお金さえあれば生き残れるのだ。期待をしなくなった、でも期待に苦しめられる。誰もが自分の期待を満たせずに、誰かの期待の満たし方も忘れられていき、期待の苦痛だけが残る。

現代社会の問題は全て”期待”ベースに思考すればうまく解決する気がする。






期待の性質

期待は、社会に奉仕し社会をより大きくさせること、それを認められ報酬を与えられることにある。”この認められる”が大きなポイントである。

期待の性質の1番目は、格上、尊敬する相手、特別な人からの報酬や賛辞が格別な事にある。その社会で中心にいる人からの賛辞の方が効果的といってもいい。子供ならば、両親や先生や指導者からの報酬賛辞だし。会社員ならば社長や部長や上司からの報酬賛辞となる。好きなアイドルからのファンサービスもそうだろう。余談だが、付き合って3年で冷めるも同様の原理な気がする。当初はこんな素敵な人が私のことを~と相手からの期待に報酬賛辞は大盛り上がりするが、ずっと付き合っていれば、相手が特別すごい人ではなくいつか私の隣にいる人に変わる。期待が減るから冷めるわけだ。

2番目の性質は、”自分と同じ””共通項”が大事ということだ。認めるということは、その人の考えや感じ方を理解し、されたい認め方を理解して、そのように行う方が効果的である。サッカーを知らない人が、サッカーのあるプレイを評価できないように。その人と同レベルであり、同じ視点で物事を見て、同じように感じられる人でないと、認めるという行為は不可能なのだ。SNSで日記やエッセイの個人の日々の感想レベルのやりとりが大注目されイイネやスキが集まるのは、現実で満たされにくくなった期待を、そういう形で認め合い、期待を満たしているわけだ。

3番目の性質は、成長と拡大志向にある。より社会に貢献できる方がより多くの期待を貰えるのだから、自らのできることが拡大する、それが認められるという前向きな+のベクトルがより好まれやすい。はまり込むというか、のめりこむというか。沼におちるというか。





期待の分類

与えられた報酬と賛辞が、その人の望むものかどうかによる。つまりは、その人の価値観にそったものかどうかであり、価値の話だ。価値とは主観的価値と客観的価値がある。

動機付けの大別とか108の煩悩とか色々参考にすれば、リスト化できそうですが、すいません、割愛します。次の機会に回します。どうものりきれず……。






おわりに

人間はしょうもない生き物におもえてしまう。高尚な事や難解な事や低俗な事や下劣な事、行いは無限にあるのかもしれないが、それらは紐解けばただシンプルだ。自分と同じーな共通項だらけの人で、すこし格上特別な人、その人から、自分のしたことや存在を認められたい気にかけてもらいたい。これを延々繰り返しているだけだ。

逆に言えば、この期待の本質を理解して、自分の意志とか正しさとか、善悪とかそういうものを全て取っ払って、相手の期待にただ応えれば、それで人間として生物として上手くいく。モテの話も同じだった。共通項アピールからの格上、特別な人感を作り出す的な話も同じだ。人間の期待の性質だ。

期待は上昇しすぎているし、お金に集約されたことで、期待の満たし方も人は忘れ去っていく。これが現代社会の全ての問題の基本にして答えだと思う。

期待に囚われたくないが、こうして本質を理解して自分はなにに認められどんな報酬をもらいたいのかで問い詰めてみると、本当の自分の期待に気づいてしまう。気づいてしまった。○○○○○が欲しい。私もかなりしょうもない人間のようだ。(カタカナで五文字)

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