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正論や論破についての整理

正論や論破について、あんまりしない方が良いよね♪とか感情に寄り添おう控えよう!みたいな記事を見て、なんか違うなぁと思ったので整理しておきます。私の認識では、正論を言うことは基本的に真で正しい事です。しかし、例外時の処理や誤用による弊害で、正論や論破があまりよくない印象を持たれているという感じです。つまり、使い方に注意すればそれでいいのに、その注意事項を知らずに読まずに、この薬はなんか飲むの危険だから全部やめとこっかで終わっている結論が多い気がします。






そもそも正論とは、論破とは

正論

十分な論理体系を背景とした、論理的整合性がある主張

自己定義

論破

正論によって、相手の主張を退けたり、相手の主張の不備を指摘し結論推論の信ぴょう性に疑念を持たせること

自己定義


冒頭で述べた通り、私は正論や論破には賛同派です。極端な例をあげれば、(デカルトの方法叙説のように正誤に迷ったら極端な例を考えましょう。)数式です。ある一定の法則に準じている体系の中で、誤りがあったとすれば、本来誰が見てもわかるはずです。そしてそこを直さなければ、絶対に答えには辿り着けません。この数式の誤りを正す=正論や論破という行為が真か偽かどうかは、言わずもがなだと思います。基本的には正しいものです。





正論や論破の誤用

基本的には正しい事です。しかし、例外や誤用が多数もちこまれて、それらの結果、正論や論破が腫れ物扱いされている気がします。本当の意味での正論の使い方と誤用についてふれます。正論や論破が機能し成立するには、以下二点です。

1、十分に論理的な主張である点
先ほどは、数式の例を出しました。しかし、理論や実験や研究の場と、現実世界の出来事は違います。論理的とは、積み木を積み上げるようなものなのて、地面か平らで積み木も平らであるなどの、厳密な前提条件を指定する必要があります。閉ざされた場所ならばそれも可能ですが、現実の出来事はもっと複雑な要因が絡みます。またそれを完全に把握して完全にコントロールすることはできません。十分に、と、最初に書いたのはまさにこの事です。前提条件を誤れば、どんなに論理的であっても出てくる結論は変わるとも言えます。あるいは、正論のことを一般論を言ってもしょうがないみたいに言い返す人がいると思います。あれも同様です。今回のケースでは、すこし事情(前提条件)が違う!と言ってるわけです。

ここを履き違えて、絶対私の正論が正しい!と繰り返してばかりだと誤用になります。現実では完全な正論は存在しえないのです。双方の主張は曖昧なものです。

あるいは、後半部分の論理的な主張であるという点も多々誤用に繋がりやすいものです。ひろゆきがよくやるような詭弁のことです。論点のすり替えや、極端な例を出してうやむやにするとか。一見論理的にも聞こえるが本当は違うものを突きつけて混乱させ、反論出来ない状態にしてしまうわけです。正論のように見せかけた偽物です。紛い物が混ざりやすいため本当の正論の価値が貶められます。




2、建設的である点、誰彼の意見とその結論を尊重した指摘である点
意見には、通常、視点や文脈やいいたいことがあります。これらを無視している場合、それは正論でも無用の長物で、全く役立たないどころか、意見を遮っただけということで、余計に悪目立ちします。例えば、ヒットを打つ練習をしている人に、セイバーマトリクス的には、ポップフライの方が得点効率がいいから、もっとこういう練習をした方が良いと指摘する場合ですね。もっとシンプルに言えば使いどころを間違えた正論です。これも正論の価値を貶めます。


3、オマケ 言葉選びとわかりやすさ
後は言い方です。主観的な表現を避けて客観的な表現をすれば良いだけかと思います。まぁ普通に丁寧に話せば問題ないきはします。あるいは、相手にわかりやすく伝えるには、例えが有効です。相手の分かりやすそうな身近な例にどんどん置き換えましょう。




おわりに

結局のところ、人間は自分は正しい!と思いたい生き物なんですよね。自分の歩みを肯定(自己正当化)したいともいえます。自分の子供に同じ学校に通わせたいとか、この本は良い本だ!君も読んだ方がいい!の感情ですね。

だから、自分の考えや意見が採用されるべきだとか、相手は間違いを認めるべきだとなる。そうして力むと、1や2や3の作法がおろそかになる。結果的に意見を通すことに目が向き、正論や論破を相手を打ち負かすために誤って使い始めるというわけです。

正論はセオリーとも言えると思います。将棋の指し筋みたいなものともいえます。状況(前提条件)により違いは出ると思いますが、セオリーを全くはなから無視する態度も違います。なので、やはり正論は言うべきです。そして言われた側は知らなくて参考になったか。あるいは、あなたの知らない丸々の前提条件の違いにより、今回セオリー通りにはいきません。と伝えれば良いだけだと思います。なにも知らないくせに!とか、正論を言うな!とか無駄な反論をしてもしょうがないです。だって知らないんだからセオリーをいうんです。ナンバーデイスプレイじゃないんですか?の質問位に無駄で無意味です。表示されてないから電話番号を聞いてるんです。

互いに正論を言わないようにしようとか、相手の誤りを指摘しないようにしようとかを突き進めば、みんな出来ない人にあわせることになります。縮こまることに合わせることになってしまいます。言うも自由、言わないも自由、それを聞くも自由、それを聞かない(参考に出来ないと説明するも)も自由。そうすれば他人の言葉に振り回されない本当の自由な心が手にはいり、自由な社会や生活になると思います。


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