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過去の自分から いまのじぶんへ

たぶん一番分かっていないのは
自分 のことで

いつまでも握りしめているのも
自分 という自分が作ったイメージ
なんじゃないのかな と感じます

でも本当は
自分が作ったイメージ なのではなくて
自分以外 から仕入れた情報の総まとめ
のようなものを
これが自分だ と後生大事に
抱えてたりするのかもしれません

それは かつて
「あなたってこんな感じね」とか
「こんな所があるね」とか
そんな何気ない会話から蓄積された
自分はこんな感じ というイメージ言葉で
そこのどこを探しても
自分はこうである という
確固たる自分という主張は見当たらず
いつの間にか
周りの 言葉 が
自分はこういうもの という思いに
すり替えられちゃっていたりして



じゃあ
自分はこういうもの って何さ?
となって あれこれ探してみるけれど
肩書 や 役割 は見つかっても
自分とはこれ は
見つからないかもしれません



自分という 個性特質はあります
その人固有に特出したなにか

例えば歌が上手いとか
運動能力に長けているとか
一緒に居ると安心するとか

それが例えどんな小さなことでも
その人ならではのナニカがあります



自分の個性を生かして
どんどん好きな事をやって行こう!と
ポジティブに~! 心地よく~! と
いうのもありますが
別の角度から観ると
あたかも自分がそうやって生きている と
自分マインドを強めてしまう感もあるので
何ともなーとか思ってみたり

自分が という 思いは
とても強力でパワフルで粘り強く
一旦落ち着いても
何度も何度も蘇りをはかり
まるでそうでなければならない ような
そんな思いまで起こしてみたり

自分がやっている
自分が出来ている
そんな感覚は
経験をしたいタマシイ には
とても魅力的だから
まるで
それが存在価値のように
感じる事もあるかもしれません

それが出来ていようと出来ていまいと
そうなる出来事は 起きている わけで
出来た 出来ない は
後付けの感情なのだ と気づけると
少し楽になるかもしれません



出来ていようといまいと
そうしようとしまいと

それで
あなたの存在価値が変わることは
ありません

そもそも
いま 生きていて
いま 存在している こと
そのものが
じゅうぶんな価値のあることで

じぶんの存在 に
価値 を付ける必要なんてないんだと
どうか 感じてみてください



もう 評価も値も
必要なくなっている世界です
これは 周りからの という意味です



まわりから
どんな言葉が聞こえようと

じぶんがじぶんを認めてあげる

甘やかす のではなく
認めてあげる

じぶん は じぶん が
認めてあげる

認められないのであれば
その 認められないじぶん を
認めてあげる

それでいいんだ と
そんなじぶんがあってもいいんだ と

そこに 誰か は
いりません

そこから
風が 吹いてきます



誰からの言葉も必要なかったんだと
そんな想いが
湧いて来るかもしれません



春風は
あったかいです

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。