見出し画像

知っているだけがセカイ

夢見はまだ続いていて
毎晩ではないけれど時々現れては
ああそうだったのか を連れて来てくれる

登場人物は知った者たちでも
何の脈略もなく前後もないストーリーが
現実では成し得ない事をしてくれて
”思い”が消えて行ったり
その自分らしき目線のやりとりを観て
目覚めてからさまざまな気持ちが湧いてきたり

面白いなーと思うのは
夢の中では 自分 というものが
目線感覚だけというもので
まるで目の穴の中から覗いているような
行動は起こしているけれど
これが自分の肉体 という感覚が薄い

それでもやっぱり 自分 という感覚があって
誰か や 何か が展開していく
ストーリーの世界



今わたしが夢の中でみせられているのは
どこをどう切り取っても
思い の世界でしかない という事で

どこかで引っかかっていた
自分視点からだけの思い込みらが
ひとつひとつ解されていっている

自分としてはこう感じこう思っていた
があり そこに正当性を握りしめていた事が
その相手なりには
真逆の感じ方だったかもしれず
自分には予測すら出来なかった
何かがあったかもしれず
その 分からなさ は 相手にとっても同じで
そこに正しさも誤りもなくて
過去のあれこれは
それがその時はそう起きた だけだったのだと
しみじみと 染み入るように みせられている

その どうしようもなさ が
エゴ分解中には重く感じたりもするけれど
次第に慣れて 落ち着ていく



何者かでありたい
という気持ちは誰でも持っていて
それによってこの日常が楽しく感じられたり
有意義に思えたりするから
それはそういう楽しみ方のひとつとして
採用すればいいのだけれど

何者かでなければならない となると
それは窮屈で囲ってしまう

けれども人はこれをヨシとして
幾重にも 何者か を装っていて
もうどれが素の自分かも
分からなくなってしまっているから
迷ってしまう



人というのは
自分の知っているものしか
現すことができない

「親」という役割がついて
その人が出来る親というものは
自分が親から受け取った「親」しか
現すことが出来ないし
そこにはその当時の世間情勢や時代背景
集合的なものも含まれていて

その ごく当たり前の事 を知れば
親と子の関係というものも
もう少しやわらぐのではないのかな

そうであったのは
そうすることしか知らなかったから



そしてその事を時を経て知ったとしても
それは自分をとがめるものではなくて

そうであったんだ と 知ったならば

それは同時に
自分の そうでしかなかった も
解き放つから

自分も そうでしかなかった んだよ

それを いま 知ったのならば
そこでシマイなんだよ


もう いいの

よかったね

ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。