見出し画像

「自分」というもの

すべては流れ
すべては整っています

起こるように事は起き
それは ただ 起きています

そこに

「自分」という
個人を挟む余地はありません

「自分という個人がいる」というのは
幻想です

「自分という個人がいる」という
思い です
思考 です

個性 特質 のような
エネルギー的な違いはあります

それは
身体という仕組みに
紐付けられたものです

その 身体を
「この身体が自分だ」という
思い があるので

肉体(身体)を使って生きている自分がいる

これまた 思い が湧いてきます

思い は 思考 であり
思考 は 湧いては消えていくものです

思考 は
「自分」の持ち物ではありません

勝手に湧いては消えていくものです


自分が生きている
というのは
しきの世界で遊ぶための
ひとつのツールであり

個人が存在(実在)している
という視点からのものです

もちろんそれがワルイ訳ではなく
これまでの当たり前とされてきた
視点であり価値観です

そしていま
その視点価値観が
転換されるような流れになってきています

過去のあぶり出しや
行き詰まり感のような状況が訪れたり
そんなものらで
「自分」というものに
深く眼を向けるよう促されています

そもそも自分とは何ぞや?と
疑問が湧くかのような
そんな流れです

先ずは基本の基本に戻って
そこを知ってから
また色の世界を楽しみましょうと
言っているかのようです

色の世界で
自分を活かして生きていく のは
よいのです

でも
根本を知ることで
その遊び方が全く変わるのです

起きることはただ起き
それらが変わることはありません

そこへの
意味付けの仕方が変わる
というのが近いかもしれません


「究極は くう なのだから」
という観方も出来ます

でも
空と色は切り離すことは出来ません
境もありません

どんなに空を知っても
日常は色の世界です

空だけに在る
身体を持った存在はありません

そして身体がある以上
思考や感情らも何らかの形で
湧いては消えていきます
それらは身体による反応だからです

この世は
沢山のパラドックスであり
「自分」が解り得る範囲ではありません


ワクワクすることをしよう
楽しいことをしよう

それはそれでステキな事なのです
でも それを
「自分が」掴んでしまうと

ワクワク出来ない自分
楽しいことが見つけられない自分
そんなものらが現れ

そこからまた

周りのみんなが出来ているのに
何で自分は出来ないんだろう とか

ワクワクすることが見つけられない自分は
やっぱりダメなんだ とか

そんな世界へ入り込みます

そしてそうやって思うことは
思い なので 思考 であり
「自分」がそう考えてるわけではなく
勝手に湧いてきてるものです


そして
自分がいる というのも
自分がいると思っている ので

思い であり 思考 です



さて

「自分」は
どこにいるのでしょう?


ありがとうございます。 お受けしたサポートのお気持ちは、この巡りのなかで循環させられるよう、ありがたく使わせて頂きます。感謝致します。