2019年。noteにどう向き合うか。

初詣に行き、おみくじをひいた。
末吉だった。
なんだか、今年は嫌な予感がする。昨年みたいに幸せじゃない気がする。

このところ、ずっと悩んでいる事がある。
それはブログを再開させるかどうかである。
noteを始めたものの、敷居が高くて緊張するし気軽に書けないし、でフラストレーションが高まっているのだ。

私は想いを書かないと気持ち悪くなる気質らしい。
noteを書いていない時は、ワードで日記を綴っている。
誰に見せる物でもなく、書いて、それを自分で読み返して、ふむふむと思考をまとめるのだ。

誰に見せる物でもない、と言うより誰にも見せてはいけない物なのだ。
人は想いを全て他人にぶちまけては生きていけない。そんな事をすると必ず衝突してしまう。愚かな私はそれをブログを運営しないと気付けなかった。

そうは分かっていても、また同じ事をしたいと思ってしまう。
フラストレーションの度合いが尋常じゃないらしい。
でも何をどうすればいいか分からない。
私はそれを長いワード日記を書いて宥めている。このところ、ずっとそんな状態なのだ。

何故、こんなにnoteに馴染めないのだろう。
ある人はnoteに記事を書くのに、1週間推敲に費やしたと書いていた。
それ程、noteは完成度を高くしないと格好悪い空間に見える。
分かってはいても、そんな労力を費やす事が出来ない。私にはパワーが圧倒的に足りないのだ。

なら、ブログなら完成度が低くていいのか。
それは人それぞれである。
でもnoteはそうじゃない。
でもそれも人それぞれじゃないだろうか、と思いついた。

なので、私は試しに完成度の低いと分かっている文章を載せようと思う。
まずいのは分かっているし、格好悪いのも分かっている。
でもこの行動はもはや生理現象なのだ。気持ち悪いところを掻く。それと同じ原理だ。

ここに至るまで、一応四苦八苦はした。
小説指南の本、小説資料の本、小説講座の情報を手に入れた。
小説講座は通信講座を検討した。
小説とnoteは違うのは百も承知だが、私にとって小説の悩みはnoteのそれとイコールらしい。
通信講座を受けるか否かを旦那に相談した。価格が10万越えだったからだ。予想はしていたが、旦那は一蹴した。

仕方なく、私は小説指南の本を読んだ。
小説指南の本を読むのは二冊目である。まだ全部は読んでいないが、小説の書き方の序盤を読んで安心した事がある。それは私がやっている書き方はそんなにおかしい書き方ではない、らしいと言う事だった。
まあ、逆プロット(執筆してから、それを見てプロットを書き出す事)はおかしいやり方だとは思っていたから排除。おかしいと言うより、あまり人にすすめてはいけないやり方なのだろう。
あと、私が何故こんなに悩んでしまう羽目になっているかの答えらしいものも見付かった。

それは知識と技術が足りていないと言う事だ。

知識と技術。それは一日で手に入れられる物では到底ない。
地道に積み重ねていくものだと思う。
私のnoteが拙く格好悪いのは知識と技術が足りないからである。そしてそれは一日で直らない。
だからと言って、書かないと言う手段をとりたくない。
だからと言って、無理はしたくない。
その日の持てる知識と技術の最高地点を遣って書きたいと思う。

地道過ぎる道を歩む事に決めた。
その様は到底、大吉に見える生き様ではないだろう。間違った方向に道を歩む事もあるかもしれない。そういう意味でおみくじが末吉だったのではないだろうか。

末吉が出た後、私はおみくじをひきなおした。
詣でる神様も変えた。神様は知恵の神様である。
結果、おみくじは中吉。情状酌量の余地があったと言う事だ。
私はそのおみくじをこの一年携えて行こうと思う。
それでもきっと時折、道を間違えてあたふたするのだろう。出来ればそれも知識と技術を磨く糧になればいいと思う。



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